横田等のロサンジェルス・ダイアリー =11の2=

 

   『日米新報』の三面トップ記事は、来年の大統領選挙に関して通信社が行なった世論調査の結果報告だったから、特ダネ争いでは、この日も『日報』の大勝利だったよ。

 

          ※

 

   翌日の土曜日。   ほとんど自宅で書きあげていたのか、午前十時ごろにはもう仕上がった編集長の記事の内容には、なんというか、ひかえめに言っても、すっかり仰天させられてしまった。

 

   金曜日とおなじ三行六段のその見出しだって、唐突に≪会議所の内紛、円満解決≫≪〔南北〕両派が合意の握手≫≪日系・日本人社会のため協調へ≫だったんだよ。

 

   前の夜に会頭と副会頭、パーク理事の三者会談が非公式に(今度はちゃんと[会議所]の一室で)行なわれたというその記事には、(急に呼び出されて出かけて行った光子さんが撮ったという)三人が互いに腕を交差させながら笑顔で握手をしている写真も添えられていたんだよ。

 

   会頭が〔リトル東京の再開発はできることなら日本・日系資本で〕という発言を〔撤回〕したことを副会頭とパーク理事が〔了承〕し、〔土着派〕が会頭に対する謝罪要求を引っ込める、という形の〔円満解決〕だったんだって。

 

   情報誌のインタビューでの〔日系人軽視〕については、〈編集上の手違いで〔日系人〕という言葉が削除されたことを遺憾に思う〉というような文言を同誌次号の(会頭が経営している家電販売店の)広告に書き入れる、という会頭の提案を副会頭が受け入れたんだそうだ。

 

          ※    編集長はその日も『海流』を書いたのかって?

 

   ああ。でも、そんなふうに書くしかなかったのかな。一連の〔問題発言〕を〔撤回〕した会頭の〔勇気〕を賞賛し、その〔撤回〕を〔了承〕した副会頭とパーク理事の〔知性〕を高く評価する、という内容の、どちらかというと、あまり冴えないやつだったよ。…いや、記事の方に書かれなかった何かがそこで読めるのではないか、という僕の期待が大きすぎたのかもしれないけど。

 

          ※

 

   「三者会談は編集長がアレンジしたんですか」。三時少し前、みなの手が空いたころを待って、僕は編集長にたずねた。…だって、あまりにも急な〔円満解決〕だったし、そうでも考えないと、納得できなかったもんだから。

 

   「鋭い質問だ、横田君」。編集長は笑いながら、首を横に振った。「だけど、記者が自ら事件や出来事をつくっちゃいかんだろう?」

 

   「じゃあ、またパーク理事から知らせがあって、三者会談があることを知ったんですか」

 

   「それもいい質問だ」。編集長の笑みがいっそう大きくなった。「新聞記者の質問はそうじゃないといけないな」

 

   僕は食い下がった。「で、どうだったんですか」

 

   「新聞記者は同時に、むやみに情報源を明かさないもんなんだよ、横田君」

 

   〈それはないでしょう。だって、水曜日の〔秘密〕理事会のときには、パーク理事が知らせてきたんだって、教えてくれたじゃないですか〉と思ったけど、何も言えなかった。…はぐらかされたというか、仲間外れにされたというか、とにかく、あいだに急に距離を置かれたように感じて、軽いショックを受けていたんだと思う。

 

   いや、自分も新聞記者の一人なのに、なんてだいそれたことを考えていたわけじゃないんだよ。そうじゃなくて…。ほら、僕は、その数日間の編集長のエネルギッシュな働きに、大筋では、なんというか、敬意みたいなものを抱いていたものだから。

 

           ※

 

   数呼吸してから僕は言った。「とにかく、急転直下の解決だったわけですね」。胸の中のショックを反映して、口調はいくらか皮肉な感じになっていたかもしれない。

 

   僕の口調がどうかなんて、だけど、編集長はまったく気にしていなかったよ。「あんなもめ事はコミュニティーのためによくない。解決は早いにこしたことはないさ」

 

   僕にはまだ、たずねておきたいことがあった。「こんなにあっさり解決すると、初めから予想していました?」

 

   「横田君、実社会では〔一寸先は闇〕だよ。まして、あんな連中だ。予想なんて不可能だよ」

 

   僕は言った。「編集長の前のお話から判断すると、パーク理事は、自分の言いたいことを全部記事にしてもらっただけじゃなく、副会頭に〔貸し〕をつくることもできたし、それで、リトル東京での商売もやりやすくなったでしょうから、あっさりと手を打ったのも分かるような気がしますけど、副会頭はどうだったんですか。いまの会頭が近く辞任するとか、次の会頭選挙には立候補しないとか、そんなふうな約束でも取りつけたんですか」

 

   「その質問もいいぞ、横田君。いいセンスだ」。編集長の顔に急に、あの〔お人好しのおじさん〕ふうの笑いが浮かんだ。「残念だな、君が九月までしか働けないというのは。だが…」。編集長は表情を元に戻してつづけた。「ボクは聞いてないな、そんなことは」

 

   あのころは僕自身も〔九月まで〕と思い込んでいたわけだから、編集長の言葉は、どうしても〈君はどうせ長くは働かないんだから、そんなことは知らなくていいんだよ〉というように聞こえてしまった。だから、話はそこでぷつんと終わってしまった。

 

          ※

 

   あれから四か月あまり。

 

   僕はいま、編集長は、パーク理事から知らせを受けて[会議所]の状況がどうなっているかを知った瞬間から、〈こんな内紛はコミュニティーのためによくない。なんとしても俺が解決してみせる〉みたいに考えていたんじゃないかって思っているよ。…『南加日報』を武器にして、ね。

 

   〔日本人〕と〔日系人〕との対立という構図では〔日系人〕側に、〔日本人〕と〔チャイニーズとコーリアン〕との対立では〔チャイニーズとコーリアン〕側に一方的に傾いた記事と論説を書いたのは、物事を公平に見るという感覚があの人にまったくなかったから、ではなくて、やっぱり、(かなり)意図的にそうしたんだといまは思うよ。〔内紛〕を早く収拾するにはどうしたらいいかを考え、(『日報』の読者がどういう内容の記事を喜ぶかもちゃんと計算に入れたうえで)あえて、会頭と〔進出派〕に非があるって立場で記事や論説を書くことにしたんだと思うよ。…もともと、なぜか、ほら、〔日本に住んでいる日本人〕に批判的な人だから、こちらにやってきてもまだ〔日本に住んでいる日本人〕の考えのままで暮らしている人たちを批判、攻撃するのは〔お手の物〕でもあったろうしね。

 

          ※

 

   もちろん、そういうのって、どちらかというと政治的なやり方で、〔報道は中立でなければならない〕ってことを(表向きの?)信条にしている日本の新聞を基準にして考えると、ずいぶん危なっかしく見えるわけだけど、あの人はきっと、『南加日報』(と、たぶん、すべての〔海外日本語新聞〕)には『朝日』や『毎日』にはない使命や役割があるんだ、と固く信じているんじゃないかな。…僕には〔記者が自ら事件や出来事をつくっちゃいかんだろう?〕なんて言ったけど、その記者というのは、たぶん、『朝日』なんかの記者のことで、あの人自身は〈俺は『朝日』の記者じゃないんだから、ここで俺がやらなきゃならないことは何でもやっちゃうよ〉みたいに考えていたような気がするな。

 

   もっというと、あのときの編集長は〈この横田という青年はいずれ日本に戻る。戻れば〔海外日本語新聞〕なんかとは無縁に暮らす。だから、新聞記者の倫理については『朝日』なんかの基準で考えさせた方がいい。コミュニティーとべったり関わり合う俺のやり方には染まらない方がいい〉といった具合に、僕のために配慮してくれていたのかもしれないよ。

 

   そう考えれば、あの人がなぜ〔はぐらかす〕ような返事を僕にしたのかが分かるよね?

 

           ※

 

   とにかく…。

 

   [会議所]の〔内紛〕事件に関する児島編集長の取材報道活動からは、僕はずいぶんいろんなことを学ばせてもらったよ。いや、学ばせてもらっただけじゃなく、そばで見ていてすごくおもしろかった。楽しませてもらった。…働き始めたときには、(またくり返すけど)ほら、〈この仕事はアリゾナに移るまでの時間つぶし。そのあいだに英語の力が上がればめっけもの〉くらいにしか考えていなかったのにね。

 

   児島さんに感謝。…こんな強烈な個性の人には、やっぱり、めったに出会えないんじゃないかな。

 

          ※

 

   と、そんなふうに、いまの僕は、編集長のことをけっこう好意的に見ているんだけど…。

 

   (英語欄レイアウト係の)前川さんはあのころ、編集長のことを、どちらかというと冷ややかに、こう評していたんだよ。「あの人は、自分では〔陰の人物〕に徹しているつもりのようだけど、実は、けっこう目立ちたがりで、世間で出世している人間たちへの劣等感も小さくはないみたいだから、今度の一件では、コミュニティーのオエラガタを手玉に取ることができて、そうとう気をよくしているんじゃないかな」

 

   児島さんという人が分かりにくいのは、困ったことに、前川さんのそんな(中傷とも取られかねない)評が(必ずしも)外れてはいないようにも思えてしまうからなんだよね。

 

          ※

 

   そうだな。ここでちょっと、前川さんのことにも触れておこうかな。   この人は、十四歳、中学三年生のときからアメリカで暮らしているんだよ。日本の陶器会社の営業部門で働いていた父親が駐在員としてロサンジェルスに派遣された際に、家族といっしょに〔無理やり連れてこられた〕んだって。その父親は、前川さんがオレンジ郡にある、あるジュニアカレッジの学生だったときにシンガポールに転勤させられ、再び家族を引き連れて、そちらに移って行ったんだけど、前川さんだけは〈そろそろ好きなようにさせてくれ〉と訴えて、南カリフォルニアに残ったんだそうだ。…学生でいるあいだは仕送りをつづけてもらうことにして。

 

   前川さんがいまでも〔無理やり連れてこられた〕というのは、単純化して言ってしまえば、初め、日本とアメリカの言葉と文化・習慣の違いに〔学校に行くのが毎日嫌でしょうがなかった〕というぐらいとまどってしまったからだった。前川さんには、自ら望んで体験したい類の新生活じゃなかったんだね。

 

   父親がシンガポールに転勤させられたのは、そんな前川さんがこちらの暮らしにやっと慣れてきたころだった。前川さんは一人で残ることにした。

 

   こちらに残って〔好きなように〕生きさせてもらうはずだった前川さんの南カリフォルニアでの人生は、だけど、必ずしも順調じゃなかった。コミュニケーションを中心に勉強をしてジュニアカレッジを修了したあと、仕事を探し始めた前川さんは、自分の語学力不足を〔骨の髄まで思い知らされた〕んだって。

 

   「中学三年のときから始めた英語ではネイティブスピーカーにはどうしたって太刀打ちできないから…」と前川さんが僕に話してくれたことがあるよ。「だから、四年制の大学へはトランスファーしなかった。ちゃんと卒業できるという自信がなかったんだ。俺は仕事を探し始めた。英語力に自信がなかったから、日本から進出してきている企業の求人にいくつも応募したよ。でも、どこにも採用されなかった。なぜだったか分かる?そんなこと考えたこともなかったけど、一番の問題は常に、俺の日本語がゼンゼン本物じゃないということだったよ。俺の日本語は十四歳程度のところで成長がとまってしまっていたんだ。漢字が書けない、読めない、熟語の意味が分からない、敬語がまともに使えない…。英語も日本語も中途半端な、学歴も十分でない若い日本人を正社員として雇おうというちゃんとした企業は、結局、一社もなかったな」

 

   前川さんが『日報』の英語セクションのレイアウト係として働き始めたのは、メッセンジャーボーイみたいな仕事をいくつか経験したあと、二十三歳のときだったそうだ。前川さんは話の最後にこう言ったよ。「だから、江波さんとは、初めからみょうに波長が合ったな。言葉については、二人とも、いくらか似たようなところを通ってきていたからね」

 

          ※

 

   そういえば、その江波さんが編集長のことを 「ここだと、〔お山の大将〕でいることができたから、居心地がよかったんだと思うよ。〔所を得た〕というの?そうはいかなかったんじゃない、あの人、日本では?」って言ってたの、覚えてる?

 

   江波さんと前川さんの二人がともに、児島編集長のことをそんなふうに否定的に見るのは、やっぱり、ただの偶然じゃないのかな。…編集長は、たしかに、日本語は〔お手の物〕で、しかも英語もかなりできる、つまり、言葉にはあまり苦労しない人ではあるんだけど。

 

   それに、編集長はもともと、ほら、性格にちょっとわがままなところがあるから…。

 

   あるいは、(ときどき自分に代わって[海流]を書かせなければならない)僕にはあまり露骨に見せない一面を、編集長は、江波さんたちには見せているのかな。…だから、たとえば、自分は語学に強いんだという辺りを鼻にかけるような。

 

   分からないよ。

 

   でも、〔内紛〕解決の記事が出てから二日後の月曜日に、編集長の机の下に、[会議所]の副会頭と〔土着派〕のメンバーから届けられたという日本酒三本とウィスキー二本が並んでいたことや、日本舞踊のスージー・ナカザキ師匠との関わり方なんかを見ていると、この僕だってつい、〈この人のことは、やっぱり、芯が一本ちゃんと通った新聞人だとは呼べないのかな〉って考えちゃうもんね。

 

   困るよね、こういうの。

 

          ※

 

   児島編集長とスージー師匠との関わり方か…。

 

   ここで、もう少し話しておこうかな。

 

          ※

 

   リトル東京フェスティバルが間近になっていた七月最後の金曜日の夕方。

 

   僕はフェスティバルの歴史を調べていた。…いや、フェスティバル開催期間中に増ページ発行が三回予定されていたから、(自分がどんな記事を書かされるかはともかく)その歴史を少しは知っておこうと、『日報』保存版に残されている記事にざっと目を通し(ながら、ついでに写真も眺め)ていただけだから、〔調べていた〕は言い過ぎかもしれないな。

 

   編集長は、土曜日に掲載する[海流]のエッセイ原稿に手を加えていた。…というのは、土曜日の担当者は、ほら、アリゾナ州トゥーソンに住んでいる老人だからね。第一には文章が長すぎる、第二には論理的に自己矛盾している個所がある、第三には表現が古くさすぎる、という点を改めてからでないと、掲載できないことが多いんだ。

 

   勝手に改めても問題はないのかって?

 

   老人は自分の名前が新聞に出るだけで幸せなのか、変更や修正に抗議してきたことは、いままで一度もないんだって。もともと自分の文章の論理的な矛盾に気がつかないぐらいだから、どう手が加えられても、気にならないのかもしれないね。

 

   光子さんは、どこで手に入れたのか、わりに新しい日本の週刊誌を読んでいた。どうやら、月曜日に自分が担当する[海流]用のネタを探しているようだった。〔どこで手に入れたのか〕というのは、日本から空輸されてきて[旭屋書店]などで売られている本や雑誌は(いまだと、たとえば日本で三〇〇円のものなら五ドル以上の値段がついているようだから、光子さんがもらっているはずの給料の額を考えると)高すぎて、あの人が自分で買うことはないんじゃないか、と思うからなんだけど、さて?

 

   しかも、その週刊誌は、どういうわけだか、[週刊大衆]だったしね。…もしかしたら、光子さんには、会社の中のだれにも紹介していないボーイフレンド(みたいな人)がいて、その人のところから持ち出してきていたのかもしれないな。

 

   辻本さんはもういなかった。三十分ほど前に、できあがった版下を自分の車に積み、チャイナタウンの近くにある中国語新聞社の印刷工場に向けて発っていたんだ。

 

           ※

 

   「そのリトル東京フェスティバルのことだけどね、横田君」。編集長が突然声をかけてきた。「ちょっと…」

 

   いきなり〔その〕と言われても、どのことなのか分からなかったけれども、僕は(週末直前だという、ちょっと開放された気分があったからか)愛想よく、顔を上げ、視線を編集長に向けた。

 

   「ちょっと説明しておきたいことがあるから…」。編集長はさっと腰を上げた。「いや、休憩をかねて、外で話そうか」

 

   日本でなら〈ちょっとそこの喫茶店で〉とでもなるところなんだろうけど、そうはならなかった。…いや、リトル東京にも日本ふうの喫茶店はあるにはあるんだよ。でもその店は、『日報』からふらりと歩いていくには少し遠すぎるし、客も(ファースト・ストリートの例のバーと違って)日本から派遣されてきている駐在員や、暇を持て余している様子の留学生なんかが多いそうだから、日本人を厳しく批判することでコミュニティーに知られている編集長が何かにつけて利用するといった場所じゃないんだよね。

 

   いわゆる夏時間が適用されているときだから、外にはまだ強い日差しが残っていたよ。編集長は路上に駐車していた自分の車(けっこう新しい[ポンティアック・グランダム])のボンネットに腰を下ろした。

 

   「君もどうだ?」。まるで、そこにふかふかのソファーでもあるかのように、自分のすぐ隣をあごで指し示しながら、編集長は言った。顔に、例の〔お人好しのおじさん〕ふうの笑みが浮かんでいた。

 

   そんなところに編集長と並んで腰を下ろしている図はあまりきれいなものじゃないはずだったけれども、その笑顔に負けて、僕は誘われたとおりにした。

 

           ※

 

   「[フェスティバル]の期間中にリトル東京で、日本文化を紹介する展示会や実演会のほかに、パレードがあるのを知っているよね」。編集長はそう切りだした。

 

   「さっき、保存版でみましたけど、けっこう大がかりなもののようですね」

 

   「ああ。日系移民の誇りを示すにふさわしい、りっぱな規模だ。旧正月にチャイナタウンで開かれる、ドラゴンダンスなんかが出るパレードに負けない、どころか、あれをしのいでしまう、どうどうたるものだよ。ファーストとセントラルの交差点を出発点にして、パレードはファーストを西に進み、ロサンジェルス・ストリートで南に折れ、セカンドを東に向かってセントラルまで戻る…。ロサンジェルス郡の人口の四割を占めるといわれるメキシコ系移民がダウンタウンで毎年五月に祝う[シンコ・デ・マーヨ]の人手には遠く及ばないものの、それでも毎回、二万人ほどの見物人が出るんだ。近年は、パレードに参加する団体の数が五十を超えているはずだよ。ロサンジェルス日系人あり、という意気込みをみなで示すわけだ」

 

   編集長はそう説明してくれた。でも、いつもとは様子が違って、話の焦点を絞ろうとしているのに絞りきれないって感じだったな。

 

   「そのパレードのことで何か?」。僕はたずねた。

 

   「何か、というんではないんだけど、だね」。僕の顔を見ずに編集長は言った。「…スージー師匠は知っているよね?」

 

   「知っているも何も…」。僕はそこで言葉をとめた。〈あんなにしょっちゅうここに顔を出す人だし、しかも、編集長のガールフレンドだってみんなが言っている人じゃないですか。知らないわけはないでしょう〉とは言わなかった。

 

   「そのパレードのことに関して、だね、横田君、あの師匠の話を聞いてきてくれないか」

 

   「取材ですね?」。〈なんでいつものように、光子さんを行かせないんだろう〉といぶかりながらも、僕はすなおにたずねた。「何を聞いてくればいいんですか」

 

   「何か考えがあるそうだから」

 

   会話の場所の選び方といい、話し方といい、編集長の態度はふつうではなかったよ。…特に、押しの強いところがなくて。

 

          ※

 

   僕は歩いて、(ほら、エスメラルド・ホテル)の住人の一人、リチャードさんが日本のことについてあれこれ勉強しているという図書館もその中にある)[日米文化会館]に向かった。スージー師匠はその時間に、[会館]の地階の一室で、フェスティバルに備え、主だった弟子たちに稽古をつけているということだった。

 

   歩いて行ったのは、(ほんの二ドルばかりの)駐車料金を節約するためだったんだよね。『日報』は常に運転資金が不足している会社だから、わずかな駐車料金だって払わずにすませられるところは(会社のために)払わないですませなきゃ、と(自分でそういうのも変だけど、けなげに)考えたわけだ。

 

   いや、センター近くの路上に無料で駐車できる時間にはなっていたんだよ。だけど、そうしたばかりに自分の車の窓ガラスを割られたり、トランクのドアをこじ開けられたりしたんじゃ、わりに合わないかなって気が、やっぱり、したし…。

 

   そのほかに、車で出かけて、近くの安全な駐車場にあずけ、料金は自分が負担する、という手もあったんだろうけど、そのときは、なぜか、そのことに思いいたらなかったよ。

 

          ※

 

   行きはまだ明るかったから問題はなかったにしても、取材が長時間になり、『日報』に戻るのが暗くなってからになるようだと、途中が危険なんじゃないか、というふうに考えなかったのは、自分はリトル東京とその周辺での暮らしに慣れた、という気持ちが心のどこかにあったからだろうね。…秀人君が(リトル東京をほんのちょっと西に外れた場所で、あんなふうに)襲われたって話をもしあのとき聞いていたんだったら、安全を第一にして、自分の車で出かけて、安全な駐車場に車を入れ、自分で駐車料金を負担していたかもしれないな。

 

          ※

 

   僕の顔を見ると、スージー師匠は大きくにっこりとほほ笑んだ。「まあ、等さん。あなたがきてくれたのね」。当たり前だけど、実に流暢な英語だった。

 

   師匠が僕の名前をちゃんと記憶してくれていたことを喜ぶ気持ちがたちまち顔に表れそうそうになるのを、〈たぶん、この人はこういうこと、つまり、人の気持ちをじょうずにとらえるのを特技にして世を渡っている人なんだから〉と考えることでなんとか抑えながら、僕は言った。「児島さんに師匠の話を聞いてこいっていわれましたから」。…仕方がないけど、へたな英語だった。

 

   いま思えば、おかしなことに、〈あれ、だれかほかの人がくると思っていたのかな。編集長自身?それとも光子さん?〉とは考えなかった。編集長だったんだとすると、あの人は自分の気が進まない仕事を僕に押しつけたわけだったから、取材はややこしい、難しいものになるかもしれなかったし、光子さんだったんだとすると、師匠はどちらかというと正式なインタビューを期待していたのだろうから、僕では〔役者不足〕なのかもしれなかったのに。

 

          ※

 

   弟子の一人に何か耳打ちすると、スージー師匠は僕に言った。「外で話しましょう」

 

   〈きょうは二度も〔外〕に誘い出されてしまったな。それも、互いがボーイフレンドとガールフレンド同士の男女二人に一度ずつ〉なんてたわいのないことを思いながら、僕は師匠の後について行った。白地に朝顔の絵が描かれた浴衣姿の、稽古で少し汗ばんだ背や、ほどよく丸みをおびた腰の辺りにはなるべく視線をやらないように努めながら。

 

   ほんとうなんだよ。というか、あの人はときどき、それぐらい、だから、努めて視線をそらせなきゃならないほど、なまめかしく見えることがあるんだ。…弁解がましいようだけど、だれの目にもそうだと思うよ。

 

          ※

 

   石の彫刻家、イサム・ノグチの作品が永久展示してあるセンター前広場に出ると、師匠は初めて振り返った。「何を聞いてこいっていわれたの?」

 

   「特定はされませんでした」。どういうわけだか、ふだんならすぐには頭に浮かんでこないはずの〔特定する〕なんて硬い(英語の)単語を使っていたよ。

 

   師匠と僕は並んで、広場の端のベンチに腰を下ろした。…気づいてみると、僕が座った位置は、すぐ鼻の先で甘酸っぱい化粧の匂いがするほど師匠に近かったから、僕はもぞもぞと腰をすべらせて間を開けた。思えば、そばにはほかにだれもいない、という状況で師匠と話すのはあれが初めてだったんだよね。

 

   師匠の声は優しかった。「あなた、写真を撮るの、じょうず?」

 

   「写真ですか?」。間が抜けた声だったかもしれない。…なにしろ、そのときの僕にはひどく突飛な質問だったから。

 

   「そう、写真」

 

   「ガールフレンドはいつも、よく撮れてるって言ってくれますけど…」

 

   そんなところで〔ガールフレンド〕なんて言葉が飛び出したのは、やっぱり、師匠の、なんというか、そう、色香みたいなものにふらふらしてはいけないという、潜在意識か何かが働いたからなんだろうね。

 

   あの大阪の女の子のときと似てるね。僕はきっと、そういう、だから、ほら、ガールフレンドに忠実というか、小心というか、そういう性格なんだね。

 

   「まあ」。師匠はほほ笑んだ。「ガールフレンドの保証があるのなら、間違いないわね」

 

   自分がカメラもテープレコーダーも持ってきていないことに思い至ったのはこのときだった。僕はあいまいな笑みを浮かべながら、〈困ったことになってきたぞ。編集長には、稽古風景を撮ってこい、とは言われなかったのに〉などと考えていた。

 

          ※

 

   「とにかく、自分のカメラを持っているわけね?」。師匠はカメラのことにこだわっていた。「ズームレンズつき?」

 

   「ここには持ってきていませんけど…」。話がどこへ向かっているのかがまだよく分からないまま、僕は小声で答えた。「ええ、いちおうは。一〇五ミリメーターまでの」

 

   「あ、そう」。うなずいた師匠は、だけど、〔一〇五ミリメーター〕にどんな意味があるのかは、僕以上に分かっていない様子だったよ。「それで大きく撮れるの?」

 

   「あまり大きくは撮れませんが、まあ、ある程度は」

 

   「ある程度か…」。そうつぶやくと、師匠は何かを思案しながら視線を空に向けた。

 

   どうやら、きょうの稽古風景を写してくれ、というような話じゃなさそうだった。いくらか落ち着きを取り戻して、僕はこう言った。「それでよかったら、お貸ししますよ」

 

   師匠は声を立てて笑った。「そうじゃないのよ」

 

   「ああ…」

 

   「そうじゃなくてね、等さん」。そこでひと息入れてから師匠はつづけた。「去年の写真がひどかったものだから」

 

   「去年の?」

 

   「そう。[リトル東京フェスティバル]のときの写真。『日報』に載せてもらったの。でも、小さくて、少しぼけていて、ぜんぜんよくなかったのよ。…それも、紙面の片隅で」

 

   「そうだったんですか」。僕はやっと、師匠のカメラと写真の話が、編集長が言っていたパレードの話とつながっているんだってことに気づいたよ。「ここにくる前に、たまたま、去年の新聞を見ていたんですけど、そういうところには気づきませんでした」

 

   「そうでしょ?だれにも気づかれないような写真だったの、あれ。光子さんが撮ってくれたんだけど…」。それから、師匠はいくらかは言いにくそうに、それでもはっきりとこう言った。「彼女があのとき使った『日報』のカメラはずいぶん旧式だったから。…おととしまで使っていた、いくらかは高級なカメラを光子さんがどこかの取材先で盗まれてから、新しいのを買っていなかったんですって。…いまも、まだ、買っていないんでしょ?あの人がそう言ってたわ。経理のグレイスさんが買ってくれないのよね?」

 

          ※

 

   〈なんだ、そういうことだったのか〉と僕は思ったよ。〈師匠はきょう、光子さんと会って、〔ことしはちゃんと写してちょうだいね〕とでも話すつもりでいたんだ〉〈だけど、編集長は光子さんの代わりに僕をこさせた。〔カメラを盗まれた〕ことや〔写真が少しぼけていた〕ことについての師匠の不平を直接光子さんにぶつけさせるのは、みなの今後の関わり方を考えるとまずい、と思ったからだったのだろうな〉〈いつもの押しの強さがさっき編集長になかったのは、僕に代わりをさせて悪いって気持ちがいくらかはあったからかな〉〈編集長がプライベイトなところでは師匠とそんな話をしていると想像するのは変な感じなもんだけど、たしかに、新しいカメラをグレイスさんに買わせるのは(ことしも)至難の技だよね。グレイスさんは、新聞に載った写真がいいか悪いかという問題よりは、帳簿の赤字の大小の方を先に気にかけるだろうからな〉などと、あれこれとね。 

 

   僕は〈で、師匠は『日報』に、というのでなければ、児島編集長に、いったい何をどうしてほしいというんだろう〉といぶかりながら、師匠に言った。「たしかに、光子さんが使ってるの、ずいぶん古いカメラですよね」

 

   師匠の目つきが急に(まるで僕に甘えかけるかのように)変わった。「そのカメラのことはともかく、ことしは、等さん、あなたに撮ってもらおうかな」

 

          ※

 

   〈いや、僕にいい写真が撮れるかどうか…〉とは、思っただけで、声にはしなかった。師匠はとっくに、ことしはいい写真になる、と信じ込んでいる様子だったからね。

 

   「大きく撮ってほしいの。わたし、考えたんだけど、等さん…。去年のは、ファースト・ストリートの貸しビデオ店が背景になっていて、なんだか冴えない写真だったのよ。だから、ことしは、市庁舎を背景にしたのがいいわ。それだったら、いかにも、ロサンジェルスのお祭りだって写真になるでしょう?わたしのグループが音頭を踊りながらロサンジェルス・ストリートを南へ下りかけた辺りがいいチャンスじゃないかしら。ねえ、どう思う?」

 

   師匠の表情はまるで、夢でもみているかのようだった。そんな写真が『日報』に大きく掲載されたところを想像していたんだろうね。

 

   僕はふと、師匠のそんな話を児島さんはどんな表情で聞くんだろう、と思った。だって、あの人は、ほら、理由や原因は何であれ、自分では絶対に写真を撮らない人だから、師匠のそんな夢を自分ではかなえてやることができないわけじゃない。

 

   僕はなぜだか、みょうにすなおに、〈ようし、ここは編集長に代わっていい写真を撮ってやらなくっちゃ〉と思ったよ。…少なくとも、その瞬間は、たとえば〔公私混同〕なんて言葉は僕の頭に浮かんでこなかったんだ。だから、僕はスージー師匠にこう返事をした。「それ、よさそうですね」

 

          ※

 

   僕の返事に気をよくしたんだろうな。スージー師匠はつづけた。「ねえ、[ジャパニーズ・ビレッジ・プラザ]のステージでやる実演も忘れないでね。あそこでは、わたしを、でなくていいの。代わりに、お弟子さんたちを、できるだけたくさん。写真は、特に大きくなくていいわ。そうそう、まだ十一歳なのにとてもじょうずな子が一人いるのよ。四世なの。そうだな、この子はぜひ撮ってもらいたいな。〔この子だ〕って合図をわたしが送るから、わたしを見てて。それから、わたしの娘二人は、どうしようかな。あの子たちは、そうね、撮ってくれなくてもいい。…あの子たち、父親、だから、わたしの別れた夫ね、あの人に似たのか、テニスなんかはじょうずなのに、日本舞踊はだめなのよ」

 

   ずいぶん無邪気な話し方だった。〈もしかしたら、自分はむちゃなことを求めているんじゃないか〉 なんて考えはまるでなさそうで…。

 

   〈五十五歳と三十八歳か。師匠のこういうところが児島さんにはかわいく見えて仕方がないのかもしれないな〉と僕が思ったのはこのときだったよ。…つまり、そういうスージー師匠は(正直にいうと)僕にもかわいく見えたということだけど。

 

   僕はふと、〈編集長が三月に〔リトル東京フェスティバルが終わるまではやめないように〕という条件をつけて僕を雇ったのは、このためだったのかな〉と考えてしまった。…だから、ほら、スージー師匠のわがままを聞いて、(去年よりはきれいに撮れた)師匠の晴れ姿の写真を『日報』に(去年の数倍の大きさで)載せてやるためだったのかなって。

 

   もちろん、そんな考えは自分ですぐに否定したけどね。〈いや、やっぱり、〔このため〕ってことはありえないな。だって、いまだって、紙面を埋めきるだけの量の記事を書きあげるのには編集部員四人では足りないぐらいなんだから、僕が働きだす前はもっと大変だったはずだよ。編集長はとにかく、人手がほしかったんだ。それに、編集長は面接のとき、僕に〔君は写真撮影は得意か〕なんて質問はしなかったもんね〉って。

 

          ※

 

   僕は師匠に答えた。「編集長の指示をあおいだうえで…」

 

   僕にしては賢い返事だったんじゃないかな。あそこで、軽々しく〔そうします〕って約束してしまったんじゃ、(偉そうなことをいうようだけど)僕の(新聞づくりに関する)良心みたいなものが、やっぱり、痛んだんじゃないかって気がするし、ほら、編集長に命じられたから仕方なく、という形にしておけば、いくらか〔公私混同〕があっても、気が咎められることが少ない、というか…。

 

   「そうね」。師匠に異存があるわけはなかった。編集長が僕にどんな〔指示〕を出すかは、たぶん、師匠が〔こうしたい〕と思った瞬間に決まったも同然だっただろうからね。

 

   僕は「さあて」といいながら、ゆっくりと立ち上がった。師匠の話はどうやら終わったようだったからね。

 

   変な気分だったよ。…写真を載せてやって、スージー師匠が子供みたいにすなおに喜ぶ顔を見てみたい、という思いと、不正に、という言葉が少しきつすぎるんだったら、そう、情実で、がいいかな、とにかく、そんなもので新聞をつくる〔陰謀〕みたいなものに自分が関わりかかっているという、ちょっと後ろめたい感じ?

 

   「来てくれて、ありがとう」。そういうと、師匠は僕の方へ右手を差し出した。

 

   僕は一瞬、師匠の手を握り返すべきかどうか、迷ってしまったよ。いや、師匠がスーツでも着ていたんだったら、自然に、あいさつの一部と受け取って、僕の方もためらうことなく手を差し出していたと思うよ。…でも、何てったって、〔陰謀みたいなもの〕について話し合った直後だったからね。浴衣の袖の中から伸びてきた、その色白で柔らかそうな手を握り返すことが、どこかみだらななことに思えてしまって。

 

          ※

 

   で、その握手は、結局、したのかしなかったのかって?

 

   師匠は差し出していた自分の手をさらに伸ばすと、ためらっていた僕の手を思いきりぎゅっと握ってきたよ。その握り方がきつかったから、〔みだらな〕感じはまったくしなかったな。…ほんとだよ。

 

          ※

 

   「等さん、あなた、歩いてきたの?」。[会館]前の広場から日本庭園のわきを通り(日系の引退者たちが住む)リトル東京タワーの敷地を抜け、サード・ストリートを通って『日報』に戻ろうと歩き始めた僕の背に、師匠が声をかけてきた。

 

   僕は振り返って「はい」と答えた。…駐車料金の二ドルを節約するために、などとはもちろん言わなかったよ。

 

   「待ってて。わたしが送ってあげる」

 

   送ってやろうというのは、途中が危険だから、という意味なんだろうと勝手に解釈して、僕は応えた。「でも、まだ暗くはなっていませんから…」

 

   僕の返事は無視して、師匠は言った。「いま、車のキーを取ってくるから」

 

   下駄の音を軽やかに立てながら[会館]の玄関に向かって小走りに駆けていく師匠の後姿を見送りながら、僕は(正直にいうと、少し胸をどきどきさせながら)〈ほんの数分間のドライブにしろ、自動車の中で師匠と二人きりになるのはまずいんじゃないかな〉って考えていたよ。…具体的には、何をどんなふうに〔まずい〕と感じていたのかってたずねられると、返事に困ってしまうんだけど。

 

   いや、だれかにそんなところを見られて〈『日報』とスージー師匠はあそこまで、つまり、編集長だけじゃなく編集部員までが師匠の車に乗せてもらうぐらい、親しい関係にあるんだ〉だとか〈だから、師匠の記事や写真があんなにしょっちゅう『日報』に掲載されるんだ〉だとか思われ、『日報』の評判が落ちるようになっちゃいけない、と感じていたような気もするし、一方では、たとえ編集長のガールフレンドだという人であれ、あれほどあでやかな女性に親しく送ってもらったんじゃ真紀に悪い、と感じていたような気もするし…。

 

          ※

 

   スージー師匠の車は、[会館]の広場に面して建っている[日米劇場]のすぐ隣にある駐車用ビルディングの二階にとめてあった。

 

   車は、なんと、黒の[マツダ・ミアタ]だったよ。…髪を日本ふうに束ねて赤いかんざしでとめた、浴衣姿の、三十八歳の師匠と小型のコンバーティブル・スポーツカーという取り合わせだよ。いわゆる、オープンカーだよ。僕、つまり、『日報』の編集部員といっしょのところを〔だれかに見られるとまずい〕みたいな考えなんかまったく受けつけない、というより、〔見たかったら何でもみてちょうだい〕って車だよ。

 

   僕は思わず、なんというか…。感動してしまったよ。だって…。

 

   そういうのって、ただ思慮が足りないだけじゃないかって見方もできるのかもしれないけど、やっぱり、自由奔放っていうか、自分は自分の生きたいように生きているんだって主張しているようなっていうか、とにかく、潔い感じがしない?

 

   僕は〈やってくれるな、この人〉って思ったよ。敬意みたいなものを胸に抱いてしまったよ。…改めて、編集長が(わがままを何でも聞き入れてやりたくなるぐらい)この人に夢中になるのは無理もないな、と感じたよ。

 

   いや、夢中になっている、と決めつけていいかどうかは分からなかったけど、そうなっていたとしても理解できるって気がしたよ。

 

   というのは…。編集長はもともと、(『海流』に書くエッセイなどから分かるように)日本人の思考の枠や型にはまった考え方がひどく嫌いな人で、そういうのが嫌いだから日本を捨ててこちらにきたんじゃないか、とさえ思えるような人じゃない?自分自身が、ほら、〈おたくの日本語欄、ちゃんとした編集長が必要だね。どう、ボクにそれ、やらせてみない?〉と言って『日報』に入り込んだ、という話があるぐらい、日本人の規格から外れている人じゃない?…だから、スージー師匠のあんなふうな生き方を見て、たちまち共感してしまったのかもしれない。…惹かれてしまったのかもしれない。

 

           ※

 

   いやに師匠に点が甘いじゃないかって?

 

   そういうんじゃないよ。そういうんじゃなくて…。師匠は、どうやら、真紀とは正反対の女性のようだから。

 

   真紀は、若いのにけっこう思慮深くて、(前にしゃべったように)がまん強い子だから、いつも真紀を見ている目で師匠を見ると、師匠が際立って見える、師匠がどういう人だかよく見える、というだけで、師匠に点が甘いとか、師匠の生き方が僕にもすごく魅力的に見えるとか、そういうんじゃないんだ。…そもそも、僕は〈どうしても、すき焼きが食べたい〉という程度の望みをかなえてやって、ちょっと幸せな気分になる、そんなところが似合いの人間なんだから。

 

          ※

 

   つけ加えておくと、編集長と師匠の関係を、僕は、おとな同士のラブロマンスとしてだけ見ているわけじゃないんだよ。二人は、やっぱり、それぞれの利を計算してつき合っているんだと思っているんだよ。…だって、『日報』の紙面を提供できるという(ほんとうはそんなふうに使っちゃいけない)力が編集長になくても師匠があの人との関係をるつづけるかどうかは、(こんな言い方は直接的すぎるけど、編集長の男っぷりや経済力を考えに入れると)やっぱり、大きな疑問だし、師匠が編集長との関係を断ってしまえば、師匠に関する記事と写真は(少なくとも、これまでとおなじ頻度では)『日報』に掲載されなくなるだろうからね。

 

          ※

 

   で、その[ミアタ]を師匠はセカンド・ストリートの駐車場出口で(西に向けて)左折させた。

 

   「あ、方向が違いますよ」

 

   「そうだったわね」。前方を見据えたまま、師匠はほほ笑んだ。…うっかり間違えてしまったという表情ではなかったな。「でも、ひと回りすればすむことだから」

 

   師匠がどこを〔ひと回り〕するつもりなのかは見当がつかないまま、僕はつぶやいた。「そうですよね」

 

   師匠が車を左折させ〔ひと回り〕する気になった理由(の少なくとも一部)は、だけど、あっけないほど、すぐに分かった。駐車場の出口からほんの数十メーターのところにある、[ジャパニーズ・ビレッジ・プラザ]の横断歩道信号でとまったとき、師匠が突然、こう切り出したからだ。「知ってる、等さん?児島さんにはね、日本に奥さんがいるのよ。十五年ほど前からずっと別れて暮らしているんだけど…。その奥さんが離婚に同意してくれないんですって」

 

   そんな話がしてみたかったからだったんだね。…その瞬間の僕はそう受け取っていたよ。

 

   僕は小声で「そうなんですか」と応えた。二人は(いわばふつうの)ボーイフレンドとガールフレンドの関係だ、という『日報』のほかの人たちの見方は、微妙なところで違っていたことが分かったのだけれども、僕はなぜか、あまり驚かなかった。いや、〈あの児島さんだったら、そんなふうに、すっきりしない問題を抱えていても不思議じゃないな〉って、なんとなく思ってしまったもんだから。

 

          ※

 

   それから…。何を思い浮かべながらだったのか、スージー師匠は数度首を横に振ると、ぽつりとこうつぶやいた。「ダメナ人ダカラネ、アノ人、ホントウニ…」

 

   師匠が日本語を使ったのはこのときだけだったよ。…思うに、〔ダメナ〕が英語ではうまく表現できなかったんじゃないかな。それとも、児島さん自身が自分のことを(日本語で)そう評したことでもあって、その言葉を師匠はあそこでふと使いたくなってしまったのかな。

 

   僕には返事のしようがなかった。…いや、そうですね、と合槌を打つわけにはいかなかった、というんじゃなくて、師匠のその〔ダメナ人〕には、他人が入り込むのを固く拒むような、(大人の)深い思い入れみたいなものが感じられたから。

 

          ※

 

   〔ひと回り〕は僕が覚悟していたほど大きなものにはならないようだった。サンペドロ・ストリートを突っ切り[ニューオータニホテル]の横までくると、[ミアタ]はロサンジェルス・ストリートを北に向けて右折したんだ。

 

   そのとき初めて気がついたんだけど…。スージー師匠は素足でアクセルやブレーキのペダルを踏んでいたんだよね。[センター]ではいていた下駄を足元に無造作に脱ぎ捨ててね。…なぜだか分からなかったけど、見てはならないものを見てしまったような気がして、僕は慌てて視線を上げてしまったよ。

 

          ※

 

   不意に師匠が言った。「ほら、この辺りよ」。その視線が左前方の市庁舎ビルを見上げていた。

 

   「そうですね。ここからだといい写真が撮れそうですね」。ほとんど反射的に僕はそう応えていたよ。一方で、『日報』保存版で見た写真をいくつか頭の隅に思い浮かべながら、〈師匠の上体を写真の右側に大写しにして、左背後に市庁舎ビルを入れるという構図だろうな、ここは〉と瞬時のうちに考えながら。

 

   とっさにそんなことを考えるぐらいには、新聞の仕事に慣れてきていたんだろうね、僕も。   もっとも、そのあとすぐに、〈だけど、僕のあの一〇五ミリメーターでそんな写真が撮れるんだろうか〉とか〈特別な、ワケありの写真だから、失敗のないように、何枚も撮っておかなきゃいけないな〉 とかいう、あまりプロフェッショナルふうじゃない心配にとらえられたりもしたんだけど。

 

          ※

 

   [ミアタ]がファースト・ストリートとの交差点で一時停止したときだったな、僕が師匠の〔変わり身の早さ〕に遅れ馳せながら、気づいたのは。〈さっきの、あの〔深い思い入れ〕はどこへ行ってしまったんだろう〉って僕は、ちょっと失望させられたような気分で考えてしまったよ。だって、あの〔深い思い入れ〕には、何とも言えない情感がこもっていたし、そのことが僕の耳にもずいぶん心地よかったから。

 

          ※

 

   師匠が〔ひと回り〕する気になったのは、編集長のことを僕に話しておきたかったからだったんだろうか、それとも、写真を撮る場所を僕に指示しておきたかったからだったんだろうか。僕は判断がつかなくなっていたよ。…いや、そのどっちだったのかがみょうに重要なことのように思えてならなかったからね、僕には。だって、その二つのあいだには、師匠に〔信頼されている〕って感じるか〔利用されている〕って感じるか、みたいな違いがあるわけじゃない?師匠に対する見方がそれでまったく違ってしまうかもしれないわけじゃない?

 

          ※

 

   やっぱり、師匠は編集長のことを話しておきたかったんだ、と僕が(ほっとした思いで)確信できたのは、[ミアタ]がファースト・ストリートを東へ向けて右折してからだった。師匠は編集長の話に戻ったんだ。

 

   そこから『日報』にたどり着くまでの数分のあいだに師匠は〈児島さんの奥さんはいまも神奈川県に住んでいる〉〈児島さん夫婦には成人した娘二人と息子一人がいる〉〈下の娘は毎年のように児島さんに会いにやってくる〉〈上の娘が昨年秋に結婚したから、児島さんは間もなく〔おじいちゃん〕になるはずだ〉〈息子は中学生のときから児島さんにまともに話しかけたことがない〉などといった話を僕にしてくれたよ。

 

   僕が(英語のセンテンスづくりに苦労しながら)した質問は一つだけだった。「夫婦の仲がおかしくなるのは日本でもめずらしいことじゃありませんよね。でも、児島さんはアメリカにやってきました。…日本にはいたくないという、何か特別な事情があの人にはあったんでしょうか」

 

   「何かあったんでしょうけどね」と師匠は答えた。「でも、わたし、何も知らないのよ。奥さんと別れて暮らすようになったわけも聞いていないし、息子さんがあの人を嫌っているわけも知らないわ。…変かしら?」。師匠の顔に微笑が浮かんだ。ちょっとさびしそうな笑みで、すごくきれいだったよ。「あの人、こういうのよ。〈新聞記者というのは事実しか告げないものだ。ボクは妻と別れて生きている。息子は僕を嫌っている。それでいいじゃないか。人の感情の扱いは文学者に任せておけばいいんだよ〉って。変な理屈でしょ?だから、わたし、一度言い返してやったことがあるの。〈あら、生まれたときからずっと新聞記者だったようないい方ね、それ〉って。あの人、ロサンジェルスでにわかに新聞記者になった人でしょう?だから、ちょっと気を悪くしたみたいだった。…でもね、日本からこちらに独りできている人には、男にも女にも、そんな人が多いみたい。他人には話したくない過去が、多かれ少なかれ、あるっていうのかな?」

 

          ※

 

   七月三十一日、月曜日。

 

   編集長は黒いカメラケースを肩から下げて出社してきた。

 

   ケースの中に入っていたのは、二八~ニ一〇ミリメーターのズームレンズつきの、ぴかぴかの[キャノン・イオス]だったよ。…そういうのに僕は疎いけども、買えば五〇〇ドルから六〇〇ドルはする物なんじゃないかな。

 

   辻本さんが目を輝かせながら、編集長に「どうしたんですか」とたずねた。

 

   編集長は「あるところからの『日報』への寄付でして…」とだけ答えた。

 

   「ああ、そうですか」。世俗を離れたような、ひょうひょうとしたところがある、七十六歳の辻本さんにも、その〔あるところ〕がどこかはすぐに分かったみたいだった。

 

   「そういうことです」。辻本さんの目を見ないで、編集長は答えた。

 

   辻本さんはつぶやいた。「ありがたことです」。真実そう思っているって口調だったよ。

 

   僕は〈へえ、やっぱりそうなのか。これは『日報』にとっては〔ありがたいこと〕なのか〉と思って、複雑にショックを受けていた。

 

   だって、〔ぴかぴかのキャノン・イオス〕は、どう考えても、ほら、例の〔陰謀みたいなもの〕の、言ってみれば、成功前の報酬だったわけじゃない?だれかに〈新聞の良識あるいは良心を売り渡して、犠牲にして、手に入れたカメラだ〉といわれても反論のしようはなかったわけじゃない?

 

           ※

 

   でも、僕が辻本さんの考えに同調するようになるまでに時間はいくらもかからなかったよ。

 

   考えてみれば…。

 

   写真を撮るのはほとんどが光子さんの仕事だったし、僕は、光子さんの仕事をいいとか悪いとかいう立場にはなかったから、それまであまり気にしていなかったんだけど、『日報』には〔遠くから撮った人物写真を無理に引き伸ばして体裁をつけてみたものの、案の定ぼやけた仕上がりになってしまった〕というようなものが、たしかに、ときどき掲載されるんだよね。

 

   僕自身も、取材に行かせられたある団体の新役員就任披露パーティーで、出席者たちが手にしているカメラの方がうんと新しくて、うんと高級だったんで、〈ああ、せめて自分のカメラを持ってくればよかったな〉と後悔したことがあったんだよ。つまり、『日報』が(いくらかましだったらしいやつを光子さんが盗まれて以来)それまで使っていたカメラは、それぐらい旧式で、低級なものだったんだ。だから、『日報』には、間違いなく、もうちょっとはましなカメラがどうしても必要だった。…新聞の質を保つためにも、新聞社としての(ある程度の)威厳を保つためにも。

 

   その、どうしても必要なカメラが自力では買えないとなると…。

 

          ※

 

   辻本さんの〔ありがたい〕は、紙面の一部を(記事や写真の形で)提供して数百ドル(の値打ちのある品物)を受け取るのと、広告を出して掲載料をもらうこととのあいだには、大きな違いはないんじゃないか、ということだったんだろうね。…いい悪いはともかく、その二つを分けて考えるほどの余裕は『日報』(だけじゃなく、たぶん、ほとんどの〔海外日本語新聞〕)にはない、ということだったんだろうね。

 

   そういえば、もともと、ジャネットさんが実質的に経営を見ていた時代から、いわゆる〔ちょうちん記事〕を書くのは『日報』の伝統みたいになっていたようで、ほら、(江波さんが名づけた)〔児島さんの一九八〇年代前半の改革〕で『日報』の経営状態が一時的によくなったのも、その一部は、その〔ちょうちん記事〕を書くことをいとわない編集長の資質、というんじゃなければ、性格に負うところがあった、ということだったよね。

 

          ※

 

   いつものように、いちばん遅く出社してきた光子さんは、辻本さんとは違って、「なくさないようにしなきゃね」と言ったあとは、特には関心を示さなかった。…前にカメラを盗まれたときに編集長にひどく叱られでもしたのかな。

 

   編集長は一日中、僕にはひと言も口をきかなかったよ。

 

          ※

 

   [リトル東京フェスティバル]増ページ号には、一面左上に、スージー師匠が両手を空に向かって振りかざしながらあでやかに踊っている(白黒の)写真が大きく掲載された。背景は、もちろん、市庁舎ビル。…いい写真だったと思うよ。なにしろ、二八~二一〇ミリメーターのズームレンズつきの[キャノン・イオス]で(編集長が自腹を切ってふんだんに買い集めておいたフィルムを惜しげもなく使って)撮りまくった中の一枚だったからね。

 

          ※

 

   [三河屋]の和菓子?

 

   もちろんだよ。その写真が掲載された日の翌日、師匠は(『日報』の社員みんながそれぞれ二個ずつ食べて、さらに二、三個ずつ自宅に持って帰ったほど)たくさん菓子が入った箱を抱えてやってきたよ。満面に笑みをたたえて…。

 

   あそこまで幸せそうなスージー師匠を見たのはあれが最初だったな。…僕が『日報』を辞めてしまえば、最後、ということにもなるわけだけど。

 

   師匠と時間を打ち合わせていたのか、編集長は「[紀伊国屋]で本を探してくる」と言って出かけていたから、二人が顔を合わせる場面はなかったよ。

 

   師匠は一度、ちらりと視線を向けてはきたものの、特に僕に礼を言ったりはしなかった。でも、おかしいね。その〔ちらり〕がすごく嬉しかったんだよ、僕には。

 

          ※

 

   どんなふうに〔すごく〕だったかというと…。

 

   それは、だから、僕がそれからは、児島さんとスージー師匠の関わり方をすこぶる寛容に、〈まあ、あれはあれでいいんじゃないか〉と受け入れる一方で、編集長のことを〈新聞人としてはどこかに問題のある人かもしれないし、性格にも、自分を中心にして事を進めたがるとか、好ましいとは言いにくいところがあるようだけども、それでも、どこか憎めない人だ〉と思い、『日報』のことを〈世界は広くて大きいんだから、一つぐらいこんな新聞社があってもいいか〉と考えるようになったぐらい〔すごく〕。

 

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(ストーリー中の人物、企業、団体などはすべて創作されたものです)

 

*参考著書*

 

アメリカの日本語新聞」田村紀雄(新潮選書)

 

「藤井整の言論活動 - 『加州毎日』創刊から日米開戦まで」関宏人(慶応大学卒業論文

 

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