横田等のロサンジェルス・ダイアリー (1995年)    =5~6= 

横田等のロサンジェルス・ダイアリー =5=

*** 8月20日 日曜日 ***





    土曜日の『南加日報』は(大きなニュースが急に飛び込んできたりしなければ)大半を金曜日までに記事の書きだめ、タイプの打ちだめをしておいたニュースで埋めるから、版下はだいたい午後三時ぐらいまでにはできあがる。

 

   きのうも同様で、僕は四時過ぎにはもう、真紀のアパートで一人でくつろいでいた。

 

   なんで一人だったかというと…。

 

   サマースクールでは何も受講しないことにしている真紀にとっては、八月はほんとうは暇な時期であるはずなんだけど、あの子、この夏もけっこう忙しく暮らしているんだよ。というのは、真紀は、外国人を対象にこの期間も開かれている英語集中プログラムのオフィスで、(英会話がまだ不自由な)日本人学生たちのための通訳兼世話係みたいな仕事を(去年の夏につづいて)させてもらっているんだ。

 

   で、きのうは、土曜日でオフィスでの仕事はなかったから、真紀は自分のアパートで、僕がやってくるのを本を読みながら待っていたんだけど、三時ごろ突然、日本人学生のグループから助けを求める電話がかかってきたんだって。…リバーサイド市内のマグノリア通りで自動車が故障してしまったのに、だれも英語がまともには話せないので、みなで困りきっているって。

 

   つまり、僕が着いたときに真紀がアパートにいなかったのは、その学生たちを助けるために(事情を説明したメモを僕あてに残して)飛び出していたからだったわけだ。

 

   真紀が帰ってきたのは五時近くになってからだったよ。…そんな仕事を、あの子、自ら望んで、それもけっこう楽しそうにやっているんだよ。

 

          ※

 

   アローヘッド湖畔での時間も含めて、そのあと真紀と一緒に過ごした二十四時間ほどのあいだにも、僕は、自分の心がぐらついていることは話さなかった。…何度か、ほんとうの理由はいわずに、〈声の日記をつけ始めたよ。そのうちに君に聞いてもらうことがあるかもしれない〉くらいのことはいま話しておいた方がいいかな、と考えたりもしたけど。

 

          ※

 

   ということで、金曜日に途切れた個所に話を戻すと…。

 

          ※

 

   ジャネットさんが結婚したのは、カリフォルニア州中部の(デスバレーから遠くないところ)マンザナーに設けられた〔リロケーション・センター〕内でだった。一九四二(昭和十七)年だった。娘のグレイスさんは一九四四年に、その〔センター〕の中で生まれている。

 

   ジャネットさんの夫だった人、ジェリーさんは、だけど、グレイスさんの顔を見ていないそうだ。ほかの多くの二世男性とおなじように、〈日本人移民とアメリカ国籍を持つその子供たちがこんな形で収容されてしまったのは、アメリカという国への忠誠心が疑われたからだ。自分たちが自由になるためには、戦場でアメリカのために戦い、忠誠心を認めてもらいしかない〉というふうに考えたジェリーさんは一九四三年、志願して陸軍(四四二部隊)に入隊し、翌年ヨーロッパに送られて、間もなく、イタリア戦場で戦死してしまったからだ。

 

   ジャネットさんはその後再婚しなかったから、子はグレイスさん一人しかいない。

 

          ※

 

   要注意人物としてニューメキシコ州サンタフェの隔離施設に送られた徳松を除いた今村家の全員も、マンザナーの〔リロケーション・センター〕に入れられていた。

 

   南カリフォルニア大学を卒業したあと、ロサンジェルスにある日系銀行で働いていた徳一は、〔センター〕内で〔選抜〕され、ミネソタ州にあった米軍情報語学学校で速成の日本語教育を受けると、一九四五年にインドシナ半島に送られた。

 

   『南加日報』社の現社主であるフレッドさんは、復員してきた徳一が一九四七年に(やはり日系二世のマーガレットさんと)結婚してから二年後に、ロサンジェルスで生まれている。

 

   徳松の妻、エミリー(タミ)はこの収容所内で一九四四年の冬に急性肺炎で死亡している。

 

          ※

 

   徳松社長とジャネットさんを含め、『南加日報』で働いていた者のほとんどは〔終戦〕の翌年、一九四六(昭和二十一)年の春までにはロサンジェルスに戻っていた。

 

   その秋、立ち退き前にジャネットさんたちがドイツ系移民が経営する印刷会社にあずけておいた活字を使って『南加日報』が再刊された。

 

   〔戦前〕に事業や商売をしていた日本人と日系人の多くが、強制立ち退きの際に(足元を見られ、ずいぶん低い価格で)その権利や在庫などを売り払っていたのに対し徳松は、大学時代からの友人であるアメリカ人弁護士に(手数料を払って)食料雑貨店の管理を委託していたから、収容所暮らしのあいだにもある程度の収入があったし、ロサンジェルスに戻りそれを再び自分で経営するようになってからも、資金面での苦労は少しもしなかった。

 

   新聞の再刊が円滑に進んだのは、その資金力があったからだった。

 

          ※

 

   『南加日報』は再び(週六日)発行されるようになったけれども、徳松はもう、自分のコラムを持とうとはしなかった。…日米開戦前の自分の時局分析と主張が必ずしも正しいものではなかったことを反省していたのかもしれないね。

 

   代わりに、編集員、記者たちが順繰りに担当するコラム、[海流]が生まれた。

 

   徳松はしだいに、〔戦後〕も効力を持ちつづけていたカリフォルニア州[外国人排斥土地法](いわゆる[排日土地法])と闘うことに関心を集中させて行った。…大学で得た法律知識を活かして日系・日本人コミュニティーに貢献するのは(日米関係が落ち着くところに落ち着いた)いまだ、とでも考えたのだろうか。

 

   一九四八(昭和二十三)年、徳松は、ほかの何人かの一世たちと平行する形で、違法を承知で(昔、妻エミリーの父親、重男が理髪店を営んでいた)ボイルハイツに小さな土地を購入し、その土地の所有権確認をカリフォルニア州政府に申請した。

 

   申請は州政府に却下されたけれども、徳松はあきらめなかった。裁判所の判断を求めて、(戦中、食料雑貨店の経営を委託していた友人の弁護士にここでも助けてもらいながら)州最高裁判所まで闘いつづけたのだ。

 

   『日報』の紙面は、徳松が書く[排日土地法]解説や申請経過報告、裁判情報などで活気づいた。…徳松たちが裁判で勝てるかどうか、日本人と日系人が土地の所有・借地権を完全に回復できるかどうかがコミュニティーの最大の関心事となっていった。

 

   読者が増えた。『日報』は(児島編集長が呼ぶところでは)〔第二の黄金期〕を迎えたのだ。

 

   そして、一九五二(昭和二十七)年、徳松はついに、〔排日土地法〕は州憲法違反だ、とする判決を勝ち取った。 

 

          ※

 

   『日報』の発送担当者、二世のスギ老人が〔徳松さんに昔お世話になったことがある〕と言っている(という)のは、このころのことを指してのことではないか、という気がするよ。〔一世日本人には土地の購入ができない〕ということがすでに不当なのだけれども、〔アメリカ生まれのアメリカ人である二世でさえ買うことが禁じられている〕というのはさらに理不尽なことだ、というので、二世の名義で土地を買って[排日土地法]に挑戦しよう、という運動が徳松の裁判闘争と平行してあって、徳松はそちらも熱心に支援していたそうだから。…スギさんも、そんな二世の中の一人だったのかもしれないね。

 

          ※

 

   徳松が[排日土地法]と闘っているあいだ、『日報』を実質的に経営していたのは(〔何でも屋〕の)ジャネットさんだった。社内での日常的な経理事務、資金繰り、広告集め、社員の待遇・人事などを全部見ただけではなく、徳松に代わって、『日報』の顔としてコミュニティー内の諸団体との交流にも精を出した。

 

          ※

 

   [外国人排斥土地法]が廃止されてからの徳松は、コミュニティー内の名誉職をいくつか引き受けてはいたものの、引退したも同様の暮らしぶりだったそうだ。…編集員の一人として一九五〇(昭和二十五)年から『日報』で働いている辻本さんが一度僕に〈あの人はあのころ、南カリフォルニアの日本人・日系人社会で自分のような人間が積極的な役割を果たす時代は終わった、と感じていたのかもしれないな〉と話してくれたことがあるよ。

 

          ※

 

   徳松が心臓発作で急死したのは一九五九(昭和三十四)年。…七十三歳だった。

 

   西本願寺での葬義は(そのとき十五歳だったグレイスさんが〈あんなのはその後も見たことがない〉と回想するぐらい)盛大なものだった。…徳松への〔恩返しのつもりで〕『日報』で働いているのだというスギさんみたいな人が三十六年後のいまでもいるぐらいだから、葬儀には、日系・日本人コミュニティーへの徳松の貢献を高く評価する人たちが、いろいろなところ、さまざまな分野から数多く駆けつけたんだろうね。

 

          ※

 

   復員してきたあと、〔戦前〕に働いていた日系の銀行に戻っていた徳一が銀行を辞め、『南加日報』の二代目社長に就任した。

 

   経営権を第三者に売り払い、自分は銀行に残って庶務の仕事をつづけていたかった(四十二歳の)徳一を説得して社長の椅子に座らせたのは、二十二年前に徳一に誘われる形で徳松の下で働くようになっていたジャネットさんだった。強制立ち退きに遭ったためにあいだにおよそ四年間の休刊があったものの、徳松が個性豊かに三十年間近く経営・発行しつづけた新聞を今村家以外のだれかの手に渡すことなど、ジャネットさんには考えられなかったのだ。

 

   徳一はしかし、(辻本さんに何度か〈戦争中にインドシナ半島で従事した情報戦はおもしろかった〉と述懐したことがあるということからも、あるいは、想像できるかもしれないけれど)自ら先頭に立って従業員たちを鼓舞し、企業を発展させていこうという(言ってみれば、表立った、積極的な)性格ではなかった。社交もあまり好きではなかった。

 

   徳一は銀行で事務を取っていたときとおなじ勤勉さで、英語欄の編集に取り組んだ。…二世や三世が関心を持ってくれそうな(日系人や日本人に関する)ニュースを、[AP]が送ってくる記事などの中から探し出すことにはすこぶる熱心だけれども、自らコミュニティーの取材に乗り出すことはなく、コミュニティー内に議論を沸騰させる類の意見を紙上で発表することもない、といったふうに。

 

   英語欄の紙面はしだいに活気のないものになって行った。

 

   購読者数が少しずつ減り始めた。

 

   ジャネットさんはしだいに、広告取りと資金繰りに時間を取られることが多くなっていった。

 

          ※

 

   徳一は、徳松から引き継いだとき南カリフォルニアのあちこちに十三店あった大小の食料雑貨店を一店ずつ売却し、売って手にした資金でアパート・ビルを購入しだした。ロサンジェルス一帯の人口はその後も急速にふくらみつづけたし、アパートの需要も伸びつづけたから、徳一には先見の明があったとも言えるわけだけど、徳松が順調な食料雑貨店経営を足場にして新聞事業を成り立たせていたことを知っていたジャネットさんの目には、徳一のやり方は(徳松の息子らしくない)ひどく消極的な資産管理だと見えた。

 

          ※

 

   十数年後の『南加日報』は、日本で経済復興が進んで、ロサンジェルスと日本間の人の行き来が増し、南カリフォルニアに住みつく日本人の数が増えるに従って順調に発行部数を伸ばしていく『日米新報』を横からただ見ているだけ、という状態におちいっていた。

 

   『日報』の発行部数は徐々に減少しつづけた。資金繰りがときどきジャネットさんの手に負えなくなるようになった。

 

   新聞社のやりくりが二進も三進もいかなくなると徳一も、父親、徳松がしたとおなじように、自分のもう一つの事業であるアパート経営の収益の中からいくらかを運転資金としてジャネットさんに渡したのだけれど、その渡し方はたいがい、(辻本さんが直接ジャネットさんから聞いたところによると、〈ふだんは折り合いよくやっているのに、そんなときになると、銀行を辞めさせられたことをまだ恨んででもいるかのように〉)しぶしぶとしたものだった。

 

   社員の待遇が目立って悪くなって行った。つぶれた活字の補填、補充が遅れるようになった。

 

          ※

 

   一九七九(昭和五十四)年、父親とおなじ心臓発作で徳一が死んだ。まだ六十二歳にしかなっていなかった。

 

   ロサンジェルス市の北方にあるパサデナ市にあるハイスクールで数学の教師をしていた(一九四九年生まれで、そのとき三十歳だった)長男フレッドさんに(半ば強引に)新聞事業を継がせたのは(徳一のときがそうだったように)やはりジャネットさんだった。

 

   徳一が継いだときには(徳松の威光みたいなものがまだ周囲に色濃く残っていたからだったんだろう)表向きには反対しなかった徳一の妻(でありフレッドさんの母親である)マーガレットさんが、ここでは、フレッドさんに新聞社を継がせようとするジャネットさんにかなり強く抵抗したそうだ。

 

   もともと、徳一が堅実な銀行員だったから結婚する気になったのだという(新聞事業にはまるで関心のなかった)マーガレットさんの目には、夫と子が二代にわたって、先行きが明るいとは思えない事業に取り組むのは、なんだかばかげたことに見えて仕方がなかったらしい。

 

         ※

 

   その母親、マーガレットさんを最後に黙らせてしまったのは、〈徳松さん、徳一さんと、今村家が二代つづけた名誉と伝統のある新聞なんだから、フレッドさんの代になってあっさり他人に渡してしまうわけにはいかないだろう〉だとか〈ここで『日報』が消えてしまえば、墓石の下の徳松さんがずいぶん悔しい思いをするだろう〉だとかいう、ジャネットさんのなんだか変に日本的な人情論だったそうだ。

 

          ※

 

   またちょっと話がそれるけど…。

 

   いちおうは〔帰米二世〕であるジャネットさんがそんなふうに考えるというのは分かるような気がするよ。だけども、カリフォルニアで生まれ育った二世であるマーガレットさんが最後はそんな人情論で説得されたというのは、精神文化の伝承の仕方という点から見れば、おもしろい話だと思うな、僕は。…もちろん、アメリカ育ちの二世がみんなマーガレットさんとおなじように説得されるとは限らないだろうけど。

 

   この話を僕にしてくれた(自分は移民一世である)辻本さんはむしろ、僕の「二世どうしがそんなことを話し合ったんですね、それも英語で」というつぶやきの方に、「なるほど、そういわれてみればそうだね」とみょうに感じ入った様子だったよ。

 

          ※

 

   で、継いでみて、経営内容の悪さを改めて知ったフレッドさんが(父親、徳一の例にならうかのように)新聞事業を他人に売却した方が得策だといいだしたときには、〔日系コミュニティーの公器〕だとか〔新聞の責任〕 だとかいう大義名分を振りかざして売却をあきらめさせたというから、ジャネットさんには〔感情〕と〔論理〕の両方を使い分ける才能があったんだね。

 

          ※

 

   フレッドさんに売却をあきらめさせることはできたものの、ジャネットさんは『日報』の経営状態を好転させることはできなかった。

 

   いや、ジャネットさんにも当然、読者数を増やせば自ずと広告収入が上がることは分かっていたんだよ。だけど、(児島編集長の言葉でいうと)〔日本の経済発展に押し出されるように、ひきもきらず南カリフォルニアにやってくる、顔を日本に向けたままの日本人たち〕と〔アメリカでの暮らしがそれぞれ安定するにしたがい、たがいの結びつきをしだいに薄れさせていく日系人たち〕という二種類の読者グループを同時に満足してもらえる新聞をどうつくればいいかなんて、新聞の編集にはそれまで直接関わったことのなかったジャネットさんには、見当さえつかなかった。

 

   無理に継がせた、という思いがあるからジャネットさんは、フレッドさんにはできるだけ資金繰りの心配はさせたくなかった。…(人件費を第一に)経費を削減することが経営をつづけていくためのほとんど唯一の手段になっていった。

 

   日本語セクションで質のいい編集員を雇うことが難しくなった。

 

   〔論説の『日報』〕の顔だった[海流]の論調に冴えがなくなったし、三面のローカル記事からも活気が消えていった。

 

   英語セクションでは、ほかに編集員が雇えないことを理由に、フレッド社長が(父親、徳一よりも熱心に)編集作業に打ち込んだ。…〈社長が自ら営業活動に乗り出し、コミュニティーとの接触、交流を活発にしていけば、必ず読者と広告が増える。そうなれば、編集員が何人でも雇えるようになるだろうし、社長が編集室にこもりきりなる必要もなくなるはず〉というジャネットさんの意見に、フレッドさんは耳を貸さなかった。

 

   〈自分にそんなことができると分かっていたら、初めから数学の教師にはなっていなかった〉というのが、フレッドさんの言い分だったそうだ。

 

          ※

 

   今村家とジャネットさん、グレイスさん親子の関係は、知れば知るほど、(適当な表現じゃないかもしれないけど)おもしろいんだよね。

 

   徳一とジャネットさんは、おなじ一九一七(大正六)年生まれ。

 

   徳松がアシスタントをほしがっていたとき、自分は日本語があまりできないから、と理由をつけて新聞社入りを避け、代わりにジャネットさんを徳松に推せんし、その後も、新聞社でのありとあらゆる仕事と苦労をジャネットさんに(いわば)押しつけたまま、自分は日系の銀行で働きつづけながら、まあ、平穏無事に暮らしてきていたものだから、徳一はジャネットさんに対して、いつも、ある種の負い目を感じていたんじゃないかな。…それに、ほら、徳松もジャネットさんを実の娘みたいに信頼していたようだから、年齢はおなじでも、徳一は、何か事があってジャネットさんと相対するようなときには、しっかりものの実の姉に小言をいわれるのを恐れる弟みたいな(屈折した)心理状態になっていたかもしれないな。

 

   徳松が死んだとき、ジャネットさんに反対されて徳一が新聞社を第三者に売ることができなかったのは、二人の間柄がそんなふうだったからだろう、と僕は想像しているよ。

 

   一方、徳一の妻、マーガレットさんには、ジャネットさんは、そう、小姑みたいに見えていたような気がするな。徳一が急死して、新聞社をどうしようかという話になったとき、今村家を代表する形で意見を述べてフレッドさんに社長職を継がせたのが、今村家のだれかではなく、ジャネットさんだったというのは象徴的だと思うけど?

 

   フレッドさんがジャネットさんに対して〈自分にそんなことができると分かっていたら、初めから数学の教師にはなっていなかった〉みたいなことを言ってすねて見せた、というあたりにも、そのへんの心理的な関係が表れていると思わない?…まるで、実の叔母に向かって泣き言を言っているみたいじゃない。

 

   で、急に(途中の歳月は飛ばして)いまのこと。

 

   フレッド社長と(五歳年上の)グレイスさんの関係がちょっと、先代の二人、徳一とジャネットさんの関係に似ているんだよね。社長が英語セクションの編集作業だけに明け暮れていて、グレイスさんが日常的に新聞社の経営を見ている、という事実だけじゃなくって、二人の心理的な関わり合いの方もね。…『南加日報』という〔城〕を(〔行方不明〕戦術を母親のジャネットさんから踏襲してまで)守ろうとしているのは、ここでもやはり、今村家以外の人物、グレイスさんなんだから、自然にそうなってしまうと思うけどな、僕は。

 

         ※

 

   そのフレッドさんは、経済的な意味では、父親の徳一よりは運が悪いようだ。

 

   というのは、徳松には、徳一を含めて四人の子がいたのだけども、徳一以外の三人は娘で、みな嫁に出ていたし、徳松は遺言で、事業関係の遺産は全部、徳一一人に残していた。これに対し、徳一は遺言の中でフレッドさんを特別には扱わなかった。そのころまでに何軒ものアパート・ビルに姿を変えていた徳松の遺産は、(妻のマーガレットさんの取り分は別にして)徳一の五人の子が等分に譲り受けていたんだ(そうだ)。

 

   だから、新聞の運転資金が切れたからといって、自由に注ぎ込めるカネなど、フレッドさんにはあまり(つまり、最大限に見積もっても、徳一の五分の一しか)なかったし、いまもないはずなんだよね。

 

          ※

 

   フレッドさんが社長になった一九七九(昭和五十四)年からの二、三年間は、やはり『日報』を売り払いたいフレッドさんと、そうはさせないというジャネットさんの(〔編集顧問〕の辻本さんが言うには)〔冷たい戦争〕がつづいた。

 

   社員が給料として受け取った小切手がときどき不渡りになるようになったのはこのころのことだ。

 

   新聞の質の低下はだれの目にも明らかになっていた。

 

          ※

 

   そんな窮状を(一時的に、だったにしろ、とにかく)救ったのは、日本からふらりとやってきた児島さんだった。

 

   (日本語欄レイアウト係の)江波さんたちから聞いた話をまとめると…。

 

          ※

 

   児島さんが『日報』で働くようになったのは一九八二(昭和五十七)年の秋だった。

 

   どういうわけだったのか、たまたま全員が席を外していた事務室と日本語編集室とを(勝手に)通り抜けて工場にまで入り込んできた見ず知らずの男(つまり児島さん)に、折りたたんで手にしていた『日報』を振りかざされ、いきなり、〈おたくの日本語欄、ちゃんとした編集長が必要だね。どう、ボクにそれ、やらせてみない?〉と言いだされてひどく面食らってしまった江波さんが、そのことをいまでもよく覚えているんだ。

 

    「何てったって、横田君」。江波さんは途中で何度か首を横に振りながら、だいたいこんなふうに話してくれたよ。「突然、〈編集長をボクにやらせてみない?〉だったからね。驚いちゃったよ。ほら、ドラマの中の刑事なんかが、動かぬ証拠の品を突きつけながら〈観念したらどうだ〉って容疑者にいうじゃない。あれね。あんな感じだったよ。『日報』を目の前で振りかざされて…。もちろん、この場合、〔容疑者〕は僕だったわけだけどね。だって、こういっちゃ、持ち前のまじめさを十二分に発揮しながらあのころ編集長代行をやっていた辻本さんに悪いけど、日本の現状にもう少し詳しい、日本語をいまの言葉づかいでちゃんと書くことができる、信頼できる編集長が日本語セクションに必要だってこと、社外のだれかに指摘されるまでもなく、僕にはよく分かっていたからね。つまりさ、僕には、ほら、いわゆる〔身に覚え〕があったわけじゃない。…図星をつかれるっていうの、ああいうの?目の前を左右に行き来する『日報』を見ながら僕は〈これはまいりました、だんな〉って、そんなふうに感じちゃったよ。だから、〈無断でここまで侵入してくるなんて、とんでもない男だ〉とか、〈社長やジャネットさんじゃなく、単なるレイアウト係の、それ以外には見えないはずの僕にそんなことを話しかけてくるなんて、ずいぶん非常識なやつだ〉とかいうふうには、そのとき僕はぜんぜん思わなかったもんね」

 

   刑事と容疑者のたとえがそのときの状況、場面をよく再現しているかどうかは、僕にはいまひとつはっきりしなかったけれども、江波さんの話しはおもしろかった。…人を食ったやり方っていうのか、そういうの、いかにも児島さんがしそうなことだからね。

 

          ※

 

   〔図星をつかれ〕てその気になった江波さんが社内で熱心に動き回った結果、児島さんは次の週にはもう、日本語編集室に自分の机を持つ身になっていた。もっとも、〈いきなり、というわけにはいかないでしょう〉というジャネットさんのひと言で、編集長という肩書きはついていなかったそうだけどね。

 

   ところで、〔編集長をやらせろ〕というからには、児島さんは日本では新聞記者か何かだったんだろうって、だれでも考えるよね。でも、(そういうところがあの人のすごいところなんだけど)違うんだ。

 

   いや、それに近い仕事の経験はまったくなかった、というわけじゃないんだよ。…何だったと思う?

 

   児島さんは若いころ、(いまだに離婚に同意してくれない奥さんがいまも住んでいる)神奈川県のある小さな市の広報課で働いてきたときに、市制便りの編集員だったことがあるんだって。…でも、それだけ。

 

   でも、それは、ほら、ただの留学生でしかない僕を雇ったことからも推察できるように、『南加日報』にとっては、まあ、まずまずの経歴だったんだね。…しかも、ジャネットさんにとってはすごく重要だったことに、児島さんは提示された給料の額には(僕がそうだったように)少しも不満を示さなかったそうだから。

 

          ※

 

   ところが、というとちょっと変かな。…でも、とにかく、その児島さんが実は、(江波さんが回想していうには)〔大変な異才〕の持ち主だった。

 

   第一に、仕事が速かった。ときどき大きな間違いが見つかり、翌日に訂正記事を掲載したこともあったけれども、翻訳はすばやくすませたし、日本からやってきてまだ数か月しか経っていないというのに、政治・経済・社会に関するローカルの状況や事情もたちまちのうちに呑み込んだ。それに、(一五〇〇字ぐらいに収めることになっている)[海流]の原稿は、たいがい一時間もあれば書きあげた。

 

   第二に、その[海流]の内容がおもしろかった。何も畏れずに思い切ったことを書いた。…というより、読者の一部に眉をひそめられるようなことを、わざとみたいに書いた。自分はアメリカにきてからまだいくらも経っていないのに、(前にも触れたように)〔日本にいる日本人〕を批判するのが得意で、その切り口がまた鋭く、ユニークだった。アメリカに長く住んでいる日本人と日系人がふだん心ひそかに思っていることを(たいがいはかなり誇張して)〔声高に〕書いた。

 

          ※

 

   保存してある新聞をめくって僕自身が読んだものの中から、一つだけ例をあげると…。

 

   比較的に最近(一九九二年)の話だけど、十六歳の日本人留学生がハロウィ―ンの日に、間違って訪ねた家の住人に射殺されるという事件がルイジアナ州であったよね。あのとき、児島さんは、手っ取り早く言ってしまえば、〈結局は、アメリカという国を理解しないで暮らしていた留学生が悪い〉と決めつけ、そう主張しつづけたんだ。

 

   ふつうは、せめて、〈殺された○○君とその家族の皆さんには気の毒だが〉くらいのことはつけ加えるところだろうけど、児島さんは〈アメリカがそんなふうに怖いところだと教えずに安易に子供たちを送り出す親たちへの警鐘だ〉と言いきっていたよ。

 

   この事件のあと、アメリカの社会から銃をなくそうというキャンペーンが日本国内で起こったことについても、〈アメリカではまだ、国民全体が〔銃が野放しになっているのはいかん〕とは思っていない。そういうコンセンサスはできあがっていない。それどころか、一部の州では、州民の過半数が〔身を守るための持つのは州民の権利だ〕と固く信じている。だから、このキャンペーンは、日本人に向かって〔自動車の左側通行は、それに慣れない外国人にとってはきわめて危険だからいかん、改めよ〕というのと同様の見当違いの内政干渉で、余計なお世話というものなのだ〉と述べて、ずいぶん批判的だったよ。

 

   前に引き写した(野茂の名前が出てきた)[海流]のエッセイとおなじように、ここでも少し論理に飛躍があると思うし、庶民レベルでやっていることに対して〔内政干渉〕は大げさすぎるんじゃないかという気がするけど、児島さんのいいたいことは、よく分かるよね。…銃の規制と交通規則を並べて論じるなんて、突拍子もないことのようだけど、その分かえって、この比較には〔かりに悪法であろうと、法は法だ〕ということを改めて思い出させてくれるみたいな、みょうな説得力があるよね。少なくとも僕は、これは児島さんしか思いつかない類のユニークな比較だ、とずいぶん感心させられたな。

 

   で、この事件に関する児島さんの(一連の)論説は、日系人と、アメリカに長く住んでいる日本人たちのあいだで、すごく評判がよかったそうだ。…自分たちの本音を代弁してくれているように感じた読者が多かったんだね。

 

          ※

 

   僕自身のことで考えると…。

 

   かりに、僕がこのホテルの近所で(殺される、というのはたとえ話としても嫌だから)強盗に遭ったとして、それをこちらに長く住んでいる日本人たちがどう思うかって考えてみると、やっぱり、同情はしてもらえないだろうな、と思うよ。

 

   危険な地域と知って住んでいたのなら、覚悟の上、というわけだし、知らないで住んでいたのなら、そんな無知は本人の責任、という具合にね。

 

   僕のアメリカ暮らしもそろそろ一年になるから、そのへんの感じ方が分かるようになった(ような気がする)よ。

 

   ちょっと大げさにいえば、アメリカ人たちは、自分や自分の家族の安全を守らなきゃならないのはまず自分自身、という緊張感の中で毎日暮らしているわけだから、それを理解しない(善良な)他人がやすやすと悪行の犠牲になるのを見せられると、犠牲者に同情する前に、〈ああ、あれだけ口をすっぱくして言っていたのに〉みたいな心理状態になって、最後には腹が立ってくるみたいなんだよね。自分たちは常ひごろ、危険であることがふつうで安全は例外だと思って、警戒しながら暮らしているから、自ら安全を守ろうという意識の薄い人たちが異常(という言葉がふさわしくなければ、愚か)に見えてくるみたいなんだよね。

 

          ※

 

   児島さんは、どういうわけだか、そのへんの感覚を身につけるのがすごく早かったらしい。

 

   だから、児島さんの論説は、日本語が読める日系人と、アメリカに永住することをすでに決めている日本人の読者に受けた。

 

   〔論説の『日報』〕が復活したんだ。

 

   児島さんの〔異才〕ぶりはそこにとどまらなかった。物怖じだとか人見知りだとかいうことに無縁な人で、コミュニティーのどこにでも出かけ、だれとでも会ったし、どんなことでも、なんらかの形で記事にすることができた。…日本舞踊のスージー・ナカザキ師匠を特別扱いして気が咎めるふうでもないことからも、たぶん、分かるように、いわゆる〔ちょうちん記事〕も平気で書くことができた。

 

   よくいえば、児島さんは(あの人自身がはっきりとそう意識しているかどうかは別にして)、そんなふうに『日報』のコミュニティー化を進めたわけだ。

 

   発行部数が回復し始めた。

 

   日本から進出してきている、たいがいは大規模で資金力の豊富な企業は(むしろ、児島さんの論説を忌み嫌いでもするかのように)相変わらず広告を出し渋っていたけれども、長く地元に定着している商店や医者、税理士、保険代理業者などは、新たに広告を出し始めるか、それまで出していた広告のサイズを大きくしだした。

 

          ※

 

   テレビの日本語放送、特にNHKの大河ドラマを見ることを第一の趣味にしているらしい江波さんが、[吉宗]の〔享保の改革〕にちなんでなんだろけど、〔児島さんの一九八〇年代前半の改革〕と呼んでいる『日報』の回復期は、だけど、長くはつづかなかった。

 

   最大の原因は、急激に進んでいた環境の変化。児島さんがターゲットにした(いわば〔土着〕)コミュニティーが、経済発展の波に乗って日本から押し寄せてくる人たちによって新たに形成されていく(〔進出〕)コミュニティーの圧力を受けて、急速に(江波さんはこんな言葉は使わなかったけど)アイデンティティーを失い始め、地元指向の(見た目にも少し貧相な)新聞に必ずしも執着しなくなっていったんだ。

 

   児島さんに歯止めをかける人物が社内にいなかったのもよくなかった(と江波さんは小声で僕に言った)。[海流]にはしばしばおもしろいことを書くし、何についてもはっきり考えを述べるから、読者には分かりやすくていいのだけれど、(ほら、この春、[ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]の〔内紛〕報道では、あの人、ひたすら一方の側について記事を書いたって、前にしゃべったように)その見方はときどき、あまりに偏っていた。だから、そんな児島さんをコミュニティーの一部の人たちがしだいに警戒するようになっていった。

 

   児島さんを支持する読者もまだ(ファースト・ストリートのバーに集まる人たちのように)いるにはいたし、支持の仕方にも熱がこもっているようだったけれども、その人たちは(また江波さんの表現を借りていうと)〔明治維新を迎えてもまだ攘夷論にしがみついている元下級武士みたいに〕だんだん孤立していったんだそうだ。

 

          ※

 

   〔児島さんの一九八〇年代前半の改革〕の盛衰をジャネットさんは黙って見ていた。

 

   そのあいだには、版下づくりまでの工程を和文タイプと写植ですませることにし、活字を捨て、自社内での印刷をやめるという、社史に残る類の大きな出来事があったけれども、イニシアティブを取ったのは(児島編集長によると)〔経営の軽量化〕を進めたかったフレッド社長で、ジャネットさんはやはり何も口出ししなかったそうだ。

 

   一九八六年になると、給料支払い日にときどき、ジャネットさんが〔行方不明〕になるようになった。…だから、金曜日にタイピストの井上さんが立腹していたグレイスさんの〔雲隠れ戦術〕には、つまりは、九年間の歴史があるわけだね。

 

   一九八七年春、七十歳になったのを機に、ジャネットさんが引退した。『南加日報』社で働きだしたのは二十歳のとき、一九三七年(昭和十二)年だったから、ちょうど五十年間。きりのいい年に思えたんだろうね。いや、ジャネットさんの体は、八年後のいまでもしゃきっとしているようだから、まだ働きつづけることもできたんだろうけど、一九八七年といえば(僕が高校生になった年)、日本経済の押せ押せムードが盛り上がっていたころで、南カリフォルニアでは、日本からの企業と人の大量進出という波を受け、日系・日本人コミュニティーが急激に変貌していたというから、そんな変化にはもう自分はついていけない、というふうにも、あの人、感じたのかもしれない。

 

          ※

 

   ジャネットさんの引退からまだいくらも経たないころ、まるでその引退を待っていたかのようなタイミングで、一度、フレッド社長が『日報』を売り払おうと(画策)したことがあるそうだ。…もっとも、実のところは、(前にしゃべったことがあるように、ほら、空想力が格別に豊からしい)児島さんが江波さんと(植字工上がりのタイピスト)田淵さんを仲間にしてそんなふうに疑っているだけで、だれも証拠をつかんでいるわけではないみたいだけどね。

 

   三人がそう疑っているのは、(〔すこぶる〕つきの倹約家である)フレッド社長が(和文タイプライターと写植機を日本で買いつける必要があった一九八四年を別にしていえば)なぜか八七年だけは、日本で毎年開かれる海外日系人大会に参加しているからなんだって。…二、三年経ってから振り返ってみると、〈ああ、そうか。あの年は、フレッド社長、実は、景気のいい日本に行って探せば『日報』の買い手が見つかるかもしれない、というんで、あるいは、海外日系人のことに関心がある人たちの中には、海外日本語新聞社の経営に興味を持つ人間がいるかもしれない、と期待して、日本へ行ったのに違いない〉としか考えられなかった、と三人は言うんだよね。

 

   児島さんは(いかにもあの人らしく)実際に、『毎日新聞』本社の社会部の記者である知人を通じて、フレッド社長が日本でどう動いたかを探ろうとしたらしいよ。でも、それらしいことは何もつかめなかったんだって。…こういっちゃいけないかな。でも、海外の(経営難におちいっている)日本語新聞社がたとえほんとうに売りに出ていたところで、そんな情報が『毎日新聞』の社会部の記者の耳に入るとは、僕には思えないんだけどな。児島さんは、やはり、むだな努力をしたんだと思うよ。

 

   まあ、編集長や江波さんたちが、新聞事業に対するフレッド社長の気の入れ方をそんなふうに見ているんだなってことは、この話からよく分かるけどね。

 

          ※

 

   で、『日報』を売り払おうという動きは初めからなかったのか、あるいは、売ろうとしたのに売れなかったのか、とにかく、フレッドさんはいまでも社主・社長でいつづけている。

 

          ※

 

   一九八七年、ジャネットさんの仕事を一人娘のグレイスさんが継いだ。

 

   創業者、徳松のあとを徳一に、徳一のあとをフレッドさんに(けっこう無理に)継がせたジャネットさんとしては、自分にも子があるからには、(苦労するばかりで、どうといった成果の上がらない)自分の仕事は、やはり、自分の子に継がせるしかなかったんだろうね。

 

   なんとなく〈ジャネットさんは八十歳を過ぎるまで働きつづけ、自分の事務机の上に体をもたせかけるような形で急に倒れ、そのまま往生してしまうんじゃないかな〉みたいに想像していたという辻本さんが〈そういえば〉と言ってから僕に話してくれたところでは…。近く引退するつもりだ、という意思をジャネットさんがフレッド社長に告げる数か月前から、グレイスさんが新聞社に顔を出す回数が増えていたそうだ。辻本さんは〈グレイスが事務室で何をしているか、気にもとめなかったけど、いま思えば、二人はああして、すこしずつ引き継ぎをしていたんだね〉と言っていたよ。

 

   グレイスさんは一九四四(昭和十九)年生まれだから、そのとき四十三歳だった。やはり日系の三世である旦那さんは弁護士で、ダウンタウンにある中規模の法律事務所で働いていたし、グレイスさん自身もある日系の食品貿易会社で経理部門のマネジャーだったから、グレイスさんの『日報』入りは、この夫婦にとっては明らかに(児島さんがいうには)〔損なディール〕だったんだけど、そのことで不服そうな顔をグレイスさんが(ほかの社員たちに)見せたことはないそうだ。

 

          ※

 

   とはいえ、新しいこの仕事へのグレイスさんの献身には、やはり、限界があった。母親ジャネットさんがほとんど全身全霊を打ち込んでいるように見えたのに対し、グレイスさんは、必要なことだけを(良くいえば)できるだけ能率的にやろうという姿勢が目立って、たとえば、給料支払い日に〔行方不明〕になるにしても、(江波さんの言葉でいえば)〔ジャネットさんがなんとなくそわそわし始め、ほとんど忍び足で逃げ出したみたいな愛嬌〕がなかった。…芸は母親譲りでも、その芸には母親とおなじ情はなかった、とでもいえばいいのかな、これ?

 

   仕方がないよね。

 

   だって、日本語は、いくらかは話せても、読み書きはほとんどできない、つまり、それぐらい日本の文化から遠ざかって暮らしてきた三世のグレイスさんが、(それも将来性などほとんどなさそうな)日本語新聞に(そこで五十年間も働きつづけてきた母親とおなじ)愛着を持てるわけはないじゃない。…宿命だとでも思ってのことだろうけど、ジャネットさんの仕事を引き継いだだけでも偉い、と僕は思うな。

 

          ※

 

   眠くなってきたから、話を急に閉じるけど…。

 

   金曜日に、和文タイピストの井上さんが立腹していた背景には、まあ、ざっとそういう歴史があったわけだ。

 

   『南加日報』の経営難には、だから、大変な年季が入っているんだよね。

 

   

 

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(ストーリー中の人物、企業、団体などはすべて創作されたものです)

 

*参考著書*

 

アメリカの日本語新聞」田村紀雄(新潮選書)

 

「藤井整の言論活動 - 『加州毎日』創刊から日米開戦まで」関宏人(慶応大学卒業論文

 

      <無断転載・コピーはお断りします>

 

          ***

 

*** 8月21日 月曜日 ***



    グレイスさんが週末にカネをどこでどう工面したかは見当もつかないけど、社員たちはみな、きょう、小切手を受け取ることができた。

 

    だれかの分が不渡りになる惧れはまだ残っているにしても、まずは、やれやれという結末だ。

 

          ※

 

   それにしても、会社でのちょっとしたエピソードの背後にあれだけの、つまり、ほら、時の流れとともに移り変わってきた日米関係や、アメリカに渡ってきた日本人とその子孫たちの暮らしのドラマが、どのページからも見えてくるような、そんな歴史があるんだから、すごいよね。

 

   いや、もちろん、『毎日』や『朝日』、『読売』にもそれぞれ会社の歴史はあるわけだけど、そういうのが、皮張りの厚い表紙に金文字でタイトルが書いてある分厚い本の中にいかめしく納まっているって感じなのに対して、『日報』の歴史は剥き出しで、温かくて、そう、そこで人が生きてるって、そんな感じがしない?

 

   僕は何か新しいことを知るたびに、〈ああ、僕はいま歴史の中にいるんだ〉〈日本人移民の生きた歴史の中で仕事をしているんだ〉と思って、ずいぶん感動してしまうんだよ。…自分はたまたま南カリフォルニアにやってきている留学生でしかないんだ、ということを忘れてしまってね。

 

          ※

 

   と、そこまでしゃべったところで、ふと思ったんだけど、僕がいま働いているのがかりに(『日報』でなくて)『日米新報』だったとしても、僕はおなじように感じていただろうか?おなじ感動を味わっていただろうか?

 

   『新報』については表面的なことしか知らないわけだから、はっきりしたことは言えないよ。でも、どうも違うんじゃないかって気がするな。

 

   つまり、(日本からの移民が集中した北・中・南米、それにハワイがほとんどを占めているにしても、とにかく)世界に十数紙はあるらしい海外日本語新聞社の中で〔経営の優等生〕といわれている『新報』では、僕はそんなふうには感じていなかったんじゃないかな。

 

   というのは…。どうやら僕は、〔判官びいき〕というと、なんだか、江波さんが好んで使いそうな言葉で、古くさい感じがするし、ちょっと違ってもいるようだから、言い直すことにすると、そう、〔マイナーびいき〕、野球でいうなら〔アンチ・ジャイアンツ〕タイプみたいなんだ。…二代つづけて経営者に人を得なかったからそうなったというだけで、同情することなんか、ほんとうは、ないはずなんだけど、『日報』がいま、変化する時代にうまく対応できずに四苦八苦しているところが、みょうに気の毒に思えてしまうし、そんな会社でいま自分が働いているってことに、なぜか、すごく満足しているんだよね。

 

   幼いころからずっと、ちょっとできの悪い末っ子だった僕には、そんな環境がかえって居心地よく感じられるのかな?

 

           ※

 

   もちろん、給料の小切手が不渡りになるのは嫌だよ。だけど、おかしなことに、〈この小切手はちゃんと現金になってくれるんだろうか〉なんて思いながらそれを受け取るのは、スリルがあって、悪くない気分なんだよ。…タイピストの井上さんに〈あなたは結局、おカネに不自由しない家のお坊ちゃんで苦労したことがないから、気楽にそんなことがいえるのよ〉なんて叱られそうだから、声に出しては、そんなこと、絶対に言わないけど。

 

   ほら、『日報』って、荒波の上で沈みかけている(船長がいないも同然の)船を、操縦法も行く先も分からないまま、船員たちがみなでなんとか走らせている、みたいな危ういところがあるじゃない。いや、企業としては、そんなことじゃだめだと思うよ。でも、ここでは、半年間しか働かないつもりだった僕みたいな者でさえ、〈ああ、自分もいくらかは助けになっているんだ〉って実感することができるし、それに、そんな危うさの中で働いている人たちって、みんな、なかなか魅力的なんだよね。…『日報』には(今村徳松が築いた、コミュニティーに支持された)あれだけの輝かしい歴史があるのに、こんなことになってしまって、なんて感傷的な気分で見るから、余計にそんなふうに見える、という面もおおいにあるんだろうけど。

 

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(ストーリー中の人物、企業、団体などはすべて創作されたものです)

 

*参考著書*

 

アメリカの日本語新聞」田村紀雄(新潮選書)

 

「藤井整の言論活動 - 『加州毎日』創刊から日米開戦まで」関宏人(慶応大学卒業論文

 

  <無断転載・コピーはお断りします>