横田等のロサンジェルス・ダイアリー =12=

*** 8月27日 日曜日 ***



   何と言ったらいいのか…。

 

   きょうは、思いもかけない一日になってしまった。

 

          ※

 

   夕方、すうっと、僕の気持ちが固まってしまったんだ。

 

          ※

 

   いや、けさも、このところいつもそうであるように、ちゃんと目が覚めきらないうちから、『日報』に残るかフィニックス(の大学院)にいくかを早く決断しなければという思いにとらえたれてはいたんだよ。

 

   というより…。そもそも、この週末は、どうするかをじっくり一人で考えようというんで、真紀のところには行かなかったわけじゃない?もともと、結論を出したかったわけじゃない?

 

   だけども、まさか、夕方、あんなふうに、あんなに急に…。

 

          ※

 

   僕が共同バスルームでシャワーを浴びたあと部屋に戻ってきたのをどこからか見てでもいたかのような絶妙のタイミングで遼子さんから電話がかかってきたのは、午前十時を十五分ほどすぎたころだった。

 

   それが始まりだった。

 

          ※    

 

   「オ・ハ・ヨ。リバーサイドにはやっぱり行かなかったのね、横田クン」

 

   書きあげておかなきゃならない原稿があるから、この週末はリバーサイドには行かないって、遼子さんにもきのう話していたんだよね。

 

   「ええ」。電話を歓迎するべきかどうかを迷いながらの、小声の返事だった。…(いつものように暇を持て余しているらしい)遼子さんにつきあっていくらか時間を過ごしてもいいという覚悟がすぐにはできなかったんだ。

 

   「きっと、淋しがってるね、あの子」

 

   皮肉みたいなものは含まれていなかったと思うよ。でも、遼子さんの言い方は、心から真紀に同情しているって感じではなかったな。…何と言ったって、遼子さんは、少なくとも一時は、真紀のことが好きになれず、例の大阪の女子学生を僕に押しつけようとした、というのがいいすぎなら、その子を僕に紹介することで、事実上、真紀をガールフレンドにしておくのはやめた方がいいんじゃないかと僕に迫った(のではないかと僕が疑っている)人だもんね。

 

   濡れた髪をバスタオルでふきながら僕は言った。「僕の仕事のこと、あの子、わりと理解してくれているし、それに…」

 

   「ね、何してる?」。遼子さんは僕の言葉をさえぎって、そうたずねてきた。…真紀のことを長く話すつもりは、やっぱり、初めからなかったんだろうね。

 

   「ついさっき起き出したところですから…」

 

   「じゃ、ちょうどいいわね。下りてらっしゃいよ。たったいま、新しいコーヒーがはいったところ」。ホテルがロビーで客に無料でふるまっているコーヒーのことだ。「お話しましょ。…めったにない、日曜の朝の、モーニングトーク

 

   何が〔ちょうどいい〕のかがよく分からなかったし、意味ありげにつけ加えられた〔日曜の朝の、モーニングトーク〕に警戒心を抱かないでもなかったけれども、僕は(遼子さんに声をかけられた際の習性なのか、結局はすなおに)「いま行きます」と返事をした。

 

          ※

 

   ロビーにいたのは遼子さん一人だけだった。…たしかに、コーヒーの新鮮な香りがただよっていたよ。

 

   遼子さんは目を輝かせていた。

 

   「さっき(マネジャーの)テッドさんに聞いたんだけどさ、横田クン」。スタイロフォームカップについだコーヒーを僕の方に差し出しながら、遼子さんはそう切り出した。わきあがってくる好奇心をなんとか抑えようとしているのだけども抑えきれないって、そんな表情だったな。「武井クン、昨夜は帰ってこなかったんだって!」

 

   武井さんというのは、ほら、日本からやってくる観光客を相手にガイドをやっている人だ。

 

   遼子さんは言った。「いままで一度もなかったのよ、こんなこと」

 

   その思わせぶりな口調から、遼子さんが何を考えているかをいい当てるのは難しくないはずだった。

 

   「そうなんですか」。僕はできるだけ関心がなさそうにそう応えた。…遼子さんがそんなふうに一人で何かに気を昂ぶらせているときに(あの人にブレーキをかけようというので)柴田さんや武井さんがよくやるのをまねて。

 

          ※

 

   でも、僕の無関心に出遭ったぐらいでは、遼子さんはくじけなかった。「ねえ、ガールフレンドができた、みたいなこと、武井クン、最近言ってなかった?」

 

   想像したとおりだったよ。遼子さんはやっぱり、武井さんが昨夜帰ってこなかった原因を女性関係に結びつけて考えていたんだ。

 

   僕は(ここでも、できるだけ)さりげなく答えた。「聞いていませんよ」。いや、実際に、聞いていなかったんだよ。

 

   遼子さんはちょっとがっかりしたみたいだった。「ついさっき、〈オレ、買い物があるから〉って出て行った柴田さんも〈聞いていないよ、そんなこと〉って言っていたけど…」

 

   遼子さんの〔がっかり〕に追い討ちをかけるのはちょっと悪いかな、と感じないでもなかったけど、(遼子さんに興奮を冷ませてもらいたかったから)僕はあえてこう言った。「柴田さんがそういうんじゃ、やっぱり、そんな女の人はいないんじゃないですか、武井さんには」

 

   遼子さんにはその言葉がおもしろくないようだった。「だって、ガイハク、初めてなのよ、武井クン」。その声は、気迫みたいなものが感じられる、力のこもったものだったよ。

 

   「男の友達のところに泊まるってことだってあるでしょう?」

 

   「いままで一度もなかったのに?」。遼子さんは退かなかった。「それに、武井クン、マージャンもしないのよ」

 

   いささか唐突に〔マージャン〕が飛び出してきたのは、遼子さん自身が好きで、何度か武井さんに教えようとしたことがあるのに、そのたびに断られていたからだったと思う。

 

   「武井さんにも、やっぱり…」。僕は、自分が外泊を咎められているような、おかしな気分になりかけていたよ。「〔いろいろ〕あるんじゃないですか?」

 

          ※

 

   変だね。そう口にしてからだったんだよ、僕が〈武井さん、まさか交通事故にでも遭ったんじゃないだろうな〉って心配し始めたのは。…もっとも、すぐに、〈もしそんなことになっているんだったら、これまでにどこかから連絡がきているはずだ〉と自分にいい聞かせて、とりあえず、不吉なことは考えないことにしたんだけど。

 

   遼子さんの話の枠にそれぐらいすっかりはまり込んでいたんだね。

 

   遼子さんは数秒間、口を開かなかった。僕が言った〔いろいろ〕にはどんなことが含まれるんだろうか、ほかにはどんな原因があるんだろうか、などと考えていたんじゃないかな。

 

          ※

 

   「あ、そうか」。遼子さんの目に輝きが戻っていたよ。「ね、横田クン。旅行中の日本人の若い女の子たちの中には、ほら、アッチの方に積極的なのがけっこういるっていうじゃない?武井クン、もしかしたら、そんなのに引っかかったのかな」

 

   遼子さんはあくまでも〔武井クンの初めてのガイハクの裏には女あり〕みたいな自分の憶測に執着しつづけていたのだった。

 

   遼子さんに気を静めてもらうためだったら、あそこは〈それはないんじゃないですか。武井さんはソッチの方には固い人のようですから〉とでも応えるべきだったんだろうけど、僕はなぜかこう反論してしまったよ。「武井さんの方から引っかけたってことも、あるかもしれませんよ」

 

   それじゃ、〈火に油をそそぐ〉ようなものじゃないかって?

 

   そうだよね。

 

   だけど、あのときの僕はなんとなく、見ず知らずの女の子を一方的に〔武井さんを引っかけた〕悪者みたいに仕立て上げるのは公平じゃないって感じてしまったんだ。

 

   いや、〔なぜか〕とか〔なんとなく〕とかいうのは正直ないい方じゃないな。…というのは、僕はその〔見ず知らずの女の子〕の姿を、ぼんやりと、ほら、あの〔みかチャン〕と呼ばれていた大阪の子と重ねて思い浮かべていたからね。

 

   もちろん、あの子が〔アッチの方に積極的〕だったと言ってるんじゃないんだよ。そうじゃなくて、あの子のことを思い返すと、〔女の子の方から引っかける〕みたいな話には、つい拒絶反応が出てしまって…。その〔見ず知らずの女の子〕の名誉を守ってやらなきゃと思ってしまって…。

 

          ※

 

   そんな僕の思いを知らない遼子さんは、右手を口に運びながら言った。「あ、いやらしい」

 

   だけど、遼子さんのそのいい方では、〔いやらしい〕のは(武井さんの方からだれかを誘ったとしての話だけど)武井さんなのか、そんな可能性を口にした僕なのかは、はっきりしていなかった。…最初に〔そんなのに引っかかったのかな〕と言った遼子さんが一番〔いやらしい〕んじゃないかと、僕には思えるんだけど。

 

   そういえば…。遼子さんは、かなりあからさまな言葉で柴田さん(が結婚したことがないこと)をからかったことがあるんだよね。覚えてる?あの人、そういう話題を楽しめる、というか、そういう話題が好きな人なんだろうね、きっと。

 

          ※

 

   なんてことを考えているとき、二十歳ぐらいに見える男の子が三人、のっそりって感じで、ロビーに入ってきた。…みんな初めて見る顔だったよ。

 

   僕は〈あ、助かった〉と思った。

 

   だって、そんなふうに邪魔が入るようなことでもなかったら、僕は遼子さんと(根拠がどこにもない、だから、結論なんて出るわけがない)その〔いやらしい〕話をしばらくつづけなきゃならないことになりそうだったから。…遼子さんの目は、僕がそう感じたぐらい、生き生き、ぎらぎらしていたんだ。

 

   遼子さんは三人に話しかけた。「あら、あなたたち、まだぐずぐずしていたの?」。その子たちとはとっくに知り合っていたんだね、遼子さんは。「行動を早めに、迅速にしないと、見たいとこ、全部は見られないわよ。短期の旅行なんだから、あなたたちのは」

 

   この辺りのいい方は、〔ロサンジェルスにやってくる前、自分は(新宿西口の高層ビルの中にある会社で)ベテランОLだった〕という遼子さん自身のいい立てが嘘ではなかったことをよく示していたんじゃないかな。…当人たちも自覚していたはずの〔ぐずぐず〕を責め立て、見たいところが〔見られない〕と脅し、〔あなたたちのは短期旅行〕だと相手の弱点あるいは劣等感を突っつき、結果として、自分を上の位置に持っていく、というテクニックは(遼子さんが職場でも使っていたとすれば)新入り女子社員たちを相手に、(それで好かれたとは思いにくいけれども)かなり効果的だったろうって気がしない?

 

          ※

 

   という具合に僕は考えたけど、三人の男の子は別に〔見下された〕と感じているふうではなかった。…中の一人が、ホテルの長期滞在者である遼子さんに敬意を表するような口調ですなおに、「ええ、そうなんですけどね。みんなそろって、寝坊しちゃいました」と応えたし、ほかの二人もにこやかにそれを見ていたからね。

 

   僕は、いまだ、とばかりに、遼子さんに言った。「上にまだ、少し仕事が残っていますから」

 

   もちろん、僕も武井さんのことをいくらか心配しだしていたんだよ。だけど、遼子さんと僕があんな調子でどれだけ長いあいだ何かを想像し合ったって、あの人が帰ってこなかった理由は、やっぱり、はっきりしなかっただろう?

 

   「そうだったわね」。新しい話し相手が見つかったからか、遼子さんは思いのほかあっさりと、僕を解放してくれたよ。

 

          ※

 

   ところで、〔行動を早めに、迅速に〕しなきゃならなかったはずのあの三人は、あれからどれぐらい遼子さんの相手をさせられたのかな。…遼子さんは、自分がここで引きとめてしまえば、〔見たいとこ〕を見る時間を三人から奪ってしまうことになる、それでは、自分が少し前に言ったことと自分のやっていることが矛盾してしまう、というふうにはあまり考えない人だから、けっこう長くなったんじゃないかな。

 

   でも、たまたま泊まったロサンジェルスの宿でああいう女性から話を聞くのって、旅行ガイドブックに載っている観光名所をいくつか見るよりは勉強になるかもしれないよ。

 

   いや、自分が早く解放されたからそういうんじゃないんだよ。ほんとうにそう思っているんだよ。…だって、そこで生きている人間を知らなきゃ、その世界を知ったことには、やっぱり、ならないんじゃない?   英語学校で過ごす時間を除けば、ほとんど〔エスメラルド・ホテル日本人会〕という小さな枠の中だけで暮らしている人だけど、遼子さんも(柴田さんや武井さん、秀人君とおなじように)ロサンジェルスで生きている人間の一人なんだから。

 

          ※

 

   僕は、まだ半分ほどコーヒーが残っていたスタイロフォームカップを手に、二階の自分の部屋に戻った。

 

   まずはワープロの前に座って、木曜日の[海流]に何を書くかを考えることにしたよ。原稿書きがあるからこの週末はリバーサイドには行けないって真紀に伝えていたことがまったくの嘘になってしまっては嫌だな、という思いもあって。

 

   でも、アイディアはまったく浮かんでこなかった。…睡眠不足ぎみの頭の働きが少しはよくなりはしないかとコーヒーを飲み干してみたけれども、効果はなかった。

 

   武井さんのことが気になってもいたし…。

 

          ※

 

   柴田さんが僕の部屋にやってきたのは、僕がベッドの上での短いうたた寝から覚めてから間もない正午少し過ぎだった。

 

   〔武井さんのことが気になっていた〕という一方で〔うたた寝〕をしていた、というのは、誠意に欠けるようだけど、ほら、ベッドに横たわってあれこれ考えているうちに、ふらふらと…。

 

   柴田さんは一人だった。…あの人が外から戻ってきたとき、遼子さんは(自分の部屋で昼食を取ってでもいたのか)たまたまロビーにはいなかったんだろうね。

 

   その柴田さんの第一声はこうだった。「おかしなことになってきたぞ、横田君」

 

          ※

 

   「武井さんのことで何か分かったんですか」。僕はたずねた。

 

   「君も聞いたんだな、彼の〔外泊〕のこと?遼子から?」

 

   「ええ、ロビーで、二時間ほど前に」

 

   「そうか。それは手間がかからなくていい。いや、分かった、というわけじゃないんだよ。だけど、ちょっと気になる話を耳にしたものだからね」

 

   「どんな話なんですか」

 

   「それだけどね、横田君」。柴田さんは窓際の椅子に腰を下ろすと、ひと息入れた。その息の入れ方から、柴田さんがいくらか興奮していることが知れたよ。

 

   「買い物に出かけられたと遼子さんから聞いたんですけど…」

 

   「遼子にはそう言ったけど…。実は、[旭屋書店]に避難していたんだ」

 

   「避難、ですか」

 

   柴田さんは苦笑しながら、大きく一度うなずいた。「けさ、ロビーで新聞を読んでいたら、武井君のことで、遼子がなんだかんだと、つまらないことを話しかけてくるからさ、めんどう臭くなっちゃって…。だいたい、あの〔せんさく好き〕が遼子の最大の欠点だな。若くもないのにやたら〔おしゃべり〕なのもかわいくないけど、他人のことに好奇心を持ちすぎるのが一番いかんよね」

 

   僕は黙って聞いていたよ。…やっぱり、柴田さんは遼子さんが好きなんだなって感じながら。

 

   なぜって、ほら、好きか嫌いかのどちらかじゃなかったら、だれかのことを(表立って)そんなふうには批判しないもんじゃない?もちろん、嫌いじゃないんだってことは、口調とかそぶりとかから分かるし…。好きだから〔最大の欠点〕は見たくない、見たくないから批判するって、ありそうなことじゃないかな。

 

   こういうときには、間を取る道具として、テーブルの上にコーヒーでもあるといいのに、と思いながら、僕は視線を窓の外(つまり、隣の倉庫のレンガ壁)に向けた。…柴田さんの本心を盗み見したみたいで、変に気が引けてしまって、ちょっと視線を合わせたくなかったから。

 

          ※

 

   その僕の顔に〈武井さんの話はどうなっちゃったんですか〉とでも書いてあったのかな。柴田さんはちょっとうろたえながら言った。「まあ、遼子のことなんか、どうでもいいんだけどさ」

 

   取りつくろうように僕はたずねた。「その[旭屋]で何か?」

 

   「そうなんだ」。柴田さんはたちまち威厳を回復した。「月刊誌のページをぱらぱらめくっていたときだったけどさ、オレの右隣に立っていた男がその右隣の連れの男に急にこう話しかけたんだ。〈きのう、ロサンジェルス空港で捕り物があったんだってね〉。…テレビや映画の時代劇ででもなければ、ふつうは〔捕り物〕なんて言葉は使わないからさ、オレ、なんとなく耳をそばだててしまったよ」

 

   僕はふと、柴田さんの右隣に立っていた男というのは(NHKの大河ドラマが好きな)江波さんで、その連れというのは前川さんだったかもしれない、と思った。…いや、そんな偶然は、あの二人がいくらよく本屋で立ち読みをすると言ったって、あまりありそうなことじゃなかったんだろうけど。

 

   「オレは最初」と柴田さんはつづけた。「税関で麻薬のディーラーでも捕まったのかと思いながら聞いていたんだけど、そうじゃないようだった。話しかけられた方の男が 〈ラジオのニュースで聞きましたよ。三人捕まったんですってね。ちゃんと仕事をしてるんだってところを納税者に見せたかったからでしょうね、人目につきやすい空港の〔国際線出迎えロビー〕なんかをターゲットに選んだのは?〉と言ったからね」

 

   「その〔捕り物〕って…」。僕は背筋に冷たいものを感じていたよ。だって、空港の〔国際線出迎えロビー〕というのは、日本から到着した団体旅行客をピックアップする、武井さんの、言ってみれば、毎日の仕事場なんだから。

 

          ※

 

   柴田さんは(僕には直接応えず)話をつづけた。「オレの隣の男がこうたずねたよ。〈捕まったのは日本人二人とタイワニーズ一人だったんだって?〉。もう一人が答えた。〈そうらしいですね。三人とも不法就労していたガイドだったんですって〉。…ああ、横田君、その〔捕り物〕の主役は麻薬捜査局ではなくて、移民局だったんだ」

 

   「武井さんが捕まっちゃったんですか」。胸の鼓動が速くなっていたよ。だって、もしそうだとすると、それは大事件というか、大変な出来事というか、とにかく、武井さんの人生がでんぐり返ってしまう類の、とんでもないハプニングだったわけだから。

 

   それに、(武井さんのことを十分に心配する前に自分のことに思考を移すのはちょっと〔友だちがい〕がない、卑劣なことかもしれないけども)このまま『日報』に残って働きつづけるとすれば、僕もそんな危険、つまり、移民局にいきなり捕まってしまうという危険を背負いながら毎日暮らしていくことになるわけだから。

 

          ※

 

   柴田さんの方はいつの間にか(指にけがを負わせられた秀人君を病院に連れて行ったときとおなじぐらいに)落ち着きを取り戻していたよ。「遼子から武井君の〔外泊〕の話を聞いたすぐあとだったからさ、オレもすぐ、そうじゃないかと心配したけど…。まだ、分からない。武井君からはまだ、だれにも連絡がないんだから、彼が捕まっちゃったという可能性はゼロではないが…。捕まったという証拠もない」

 

   僕の部屋に入ったとたんに柴田さんが〔おかしなことになってきたぞ〕と言ったのは、そういう状況からだったんだね。…遼子さんの(武井さんと女性を絡ませた)憶測は、どうやら、大きな見当違いということになりそうだった。

 

   「武井君の会社に問い合わせてみるのが一番だと思ったからさ」と柴田さんはつづけた。「ここにくる前にオレの部屋から電話をかけてみたんだけど、きょうは日曜日だからなんだろうね、だれも出なかったよ」

 

   僕はここでも〈やっぱり経験を積んでいるな、この人は〉と思った。空振りに終わっていたにしろ、打つべき手は(少なくとも)一つ、ちゃんともう打っていたんだからね。

 

   僕がそんなふうに尊敬混じりの目つきで見ていることに気づいたのか、柴田さんは胸を張りなおしてから言った。「いや、観光客は毎日やってくるんだから、仕事はあるんだから、ガイド会社は日曜日だって、だれか一人ぐらいは会社に出ることにしているはずだよ。だから、あとでもう一度電話をかけてみるつもりだけど、その前に、だな…」。柴田さんの表情が一段と思慮深げになっていた。「オレ、武井君の友人を一人と、もう一人、ほかの会社でだけど、やっぱりガイドをやっている男を知っているからさ、この二人と連絡を取って、情報を集めてみるよ」

 

   賢い質問だとは思えなかったけども、ほかには何も思いつかなかったから、僕はこうたずねた。「で、僕はどうしましょう?」

 

   「そのことだよ。…君はきょう、ずっとここにいるんだろう?」

 

   「ええ、その予定です」

 

   「じゃ、電話番だな。オレは、その、武井君の友人に会わなきゃならないとかで、ちょっと出かけることになるかもしれんし、そのあいだに武井君が、事情を説明するために、オレに電話をかけてくるってことも考えられるからな。武井君からオレにかかってきた電話は君につなぐよう、(マネジャーの)テッドに言っておくからさ」。柴田さんはそこで一度首を横に振った。「いや、捕まった武井君が雇った弁護士からいきなりってことは、ないと思うよ」

 

   「え、弁護士からですか」

 

   「だから、それはないと思っているんだよ。だけどさ。その可能性もないわけじゃないから、頭に入れておかないと…」

 

   「分かりました」と僕は言ったけど、なんだか、だらしのない声だったよ。

 

   僕を励ますつもりだったんだろうね、柴田さんはこう言った。「まあ、オレは、武井君は何事もなく、無事に、ひょっこりと帰ってくる、と思ってるんだよ」

 

   でも、そう確信しているって口調ではなかったな、あれは。

 

          ※

 

   柴田さんが僕に電話番の役割を与えたのは正しかった。…あの人が僕の部屋を出てから三十分ほど経ったころ、実際に、武井さんから電話がかかってきたんだ。

 

   「武井さん!」。僕は思わず大声を出してしまったよ。「捕まったんじゃないんですね?」

 

   「ああ、やっぱり聞いているんだね、あのこと」。武井さんの声は思いのほか冷静に聞こえた。

 

   「ええ、聞きました。国際線出迎えロビーでの、捕り物というか…」

 

   「ああいうのは、当然、いつも〔いきなり〕なんだろうけど、ほんとうに〔いきなり〕で、僕も危なかったよ」

 

   「危なかったって?」

 

   「もうちょっとで僕も捕まるところだったんだ」

 

   「ところだった、というと?」

 

   「幸運と不運は紙一重だね、ほんとうに」。武井さんは、自分を落ち着かせるためだったんだろう、声を低めた。「いや、実は、きのうは、お客さんたちをピックアップしようと空港に向かう途中、センチュリー・ブルバードで僕のヴァンの左後輪のタイヤがパンクしてしまってね。会社に電話をかけて、牽引車を送ってもらって、近くのガスステーションで車輪をつけかえさせ、国際線のビルについたときには、もう、僕のお客さんたちが乗っていたはずの、成田からの日航便はとっくに到着している時間だった。入国審査と税関通過にかかる時間を考えに入れても、ほとんどのお客さんがすでに外に出てきているかもしれない時間だった。

 

   「ああ、なんて運の悪い日だ、とそのときは思わないわけにはいかなかったよ。何と言ったって、グループツアーのお客さんたちだからね。外国は初めて、という人も多いわけだろう?しかも、出てきたロビーにはありとあらゆる人種、民族の人間がひしめいている…。なんとなく不安な気持ちになる…。そこへ持ってきて、出迎えにきているはずのガイドの姿が見えないとなると…」

 

   武井さんはいつになく舌の回転がよかったよ。

 

   「あのロビーって、置き引きやスリが多いだろう?僕を待っているあいだに、お客さんがパスポートや貴重品を盗まれたなんてことになると、大変だよ。責任問題だよ。いや、それだけじゃすまないかもね。日本に戻ったそのお客さんが、ツアーを組んだ会社、きのうの場合は[ゴールデン・サンツアー]だったけど、そこに、ロサンジェルスではガイドが遅れてやってきたせいで貴重品を盗まれて、せっかくの旅行が台無しになってしまった、なんて告げたりすれば、うちの会社、ガイドの仕事を減らされるかもしれないだろう?そうなったら、僕の立場はないじゃない?…だから、僕は小走りで到着ゲートに向かったよ。一秒でも早く、その[ゴールデン・サンツアー]のサインを出して、お客さんたちを集めなきゃならなかったからね。…ところが。あと三〇メーターほどでゲートという辺りで、僕はだれかにぐいと腕をつかまれてしまった」

 

   「え、一度は捕まっちゃったんですか」

 

          ※

 

   「そうじゃなくて」。武井さんは小さく笑った。「そうじゃなくて、僕の腕をつかんだのは、ガイド仲間の佐藤さんという人で、僕に〈行くな。まだ危ない〉っていうんだ…」

 

   呼吸をとめて聞いていたんだろうね、僕の口からも一つ、大きな息が漏れてしまった。

 

   武井さんはつづけた。「一瞬、爆発物がしかけられでもしたのかと思ったけど、ロビーにはいつもどおりに人があふれていたし、そんな様子ではなかった。結局は、何の見当もつかないまま、僕は〈何かあったんですか〉と佐藤さんにたずねた。佐藤さんはこう説明してくれたよ。〈さっき、移民局の連中がやってきて、僕が見た限りでは、五、六人ほど捕まえて行ったばかりなんだ。まだ、一部がそこらに潜んでいるかもしれないから、君は近づかない方がいい。…あ、そのサイン、僕に渡して。出迎えサインを掲げながらお客さんの到着を待っていたガイドがみな、いっせいに取り囲まれ、身分証明書を見せろとかなんとかいわれたみたいだったから〉

 

   「分かるだろうけど、横田君、佐藤さんという人は永住権を持っている人で、僕が持っていないことを知っていたから、機転を効かせて、僕が脇にはさんで持っていた[ゴールデン・サンツアー]のサインをあずかってくれたわけだ。佐藤さんはそのサインを二つに折りたたんでいったん自分のブリーフケースに入れると、さらにこう話してくれたよ。〈グリーンカードを携帯していなかったガイドはみんな連行されたんじゃないかな。土曜日のこの時間は、東京と大阪から[JAL]、[ANA]、それに、ソウル乗り換えの[アジアナ]便が、一時間ほどあとには、東京からの[シンガポール航空]便が、まとまってどっと到着するわけだから、さっきの手入れは、おもに、日本人と韓国人、シンガポール人、台湾人、香港人などの東アジア人、中でも特に日本人を狙ったものだったんじゃないかな〉

 

   「そのあと、佐藤さんは、連行された日本人ガイドの名前を三人あげてくれたけど、その三人はみな、僕もよく知っている人たちだったよ。中の一人は、何年か前に例の〔抽選永住権〕が当たったんでグリーンカードを持っていると言っていた人だったけどね。当たったというのが嘘だったのか、たまたまカードを携帯していなかっただけなのか…」

 

   「ラジオのニュースでは、捕まったのは日本人が二人と台湾人が一人だと言っていたそうですよ」

 

   「あ、そう?じゃあ、あの人はあとで釈放されたのかな。…そうだといいんだけどね。でも、勝手なもんだね、横田君。佐藤さんの話を聞いたあとの僕は、さっきまで自分の運の悪さを嘆いたことなんかさっさと忘れてしまって、〈ああ、救われた〉って、ヴァンの後輪がパンクしたことに感謝していたんだからね」

 

          ※

 

   「いや、武井さん、それ、やっぱり、運がよかったんですよ。感謝したの、当然ですよ」

 

   「そうだよね。それも、パンクだけじゃなかったもんね。ほら、[シンガポール]便で着くお客さんを出迎えにきていた佐藤さんが、小走りでゲートに向かっていた僕に気づいていなかったら、僕だってどうなっていたことか…。佐藤さんは、僕に代わってサインを出して、僕のお客さんたちを集めてくれただけじゃなく、みんなを僕のヴァンに乗せて、とりあえず、空港近くの[マクドナルド]まで運んでくれたんだよ」

 

   「武井さんはどうしたんですか」

 

   「これがおかしいんだけど…。お客さんの中の一人のスーツケースを引かせてもらい、自分も旅行客みたいな顔をして、僕も、佐藤さんが運転するバンに乗せてもらって[マクドナルド]まで行ったんだ。スーツを着ていたのは僕だけだったから、典型的な旅行者には見えなかったかもしれないけどね。…[マクドナルド]の駐車場に入ったのに、ハンバーガーを食べさせてくれるわけでもなく、ガイド兼運転手が佐藤さんから僕に入れ替わっただけで、ヴァンがまた空港に引き返し始めたときには、僕のお客さんたち、みな不思議そうな表情だったよ。…佐藤さんにここまで運転してもらったのは、だとか、あの人にはまだ国際線到着ロビーでの自分の仕事が残っているから、だとか、詳しい説明をするわけにはいかなかっただろう?」

 

          ※

 

   「そのあと武井さんは、お客さんたちのガイドをつづけたんですか」

 

   「ああ。…いや、ほんとうは、なんだか怖かったんだけど、お客さんたちを放り出すわけにはいかなかったからね。予定どおりに市内観光を終えて、お客さんたちに[ボナヴェンチャーホテル]に入ってもらうまで、ちゃんとね」

 

   「根性がありましたね」

 

   「義務感から、だよ。それから、夜は夜で別に、ホテルをいくつか回ってお客さんたちを拾い、グリフィス天文台からの夜景見物もしてもらったんだよ。もっとも、こっちの方の仕事には、昼間の、あんなふうな危険はないはずだったけど…」

 

   「それで、武井さん、昨夜はどこに泊まったんですか」

 

   〈けさ遼子さんがどんなとんちんかんな疑惑を抱いていたかをいまここで話せば、笑いが出て、武井さんの気持ちがもっと楽になるかな〉って考えがちらりと頭に浮かんだけど、口にはしなかったよ。…その場にいない人のことをそんなふうに笑いのタネにしては悪いって気が、やっぱりしたから。

 

   「LA空港近くの、つまりは、会社近くの、モーテルにね。というのは…」

 

   「あ、ちょっと」。僕は武井さんをさえぎった。「これだけあれこれ聞いたあとでいうのもなんですが、この話、僕が一人で、ですから、柴田さんや遼子さんよりも先に、全部聞いちゃっていいんでしょうか」

 

          ※

 

   「いいも何も…」。武井さんは(たぶん、苦笑しながら)言った。「正直にいうと、僕はいま、だれかと話したくて仕方がない気分なんだよね。柴田さんにはこのあと電話をかけなおして、おなじ話をするつもりだ。いまなら、この話、くり返して何度でもできそうだよ。分かる?」

 

   「分かるような気がします」

 

   「いや、この電話は初め、柴田さんにつないでもらうつもりだったんだよ。だから、テッドさんに柴田さんの部屋につないでくれって頼んだんだけど、あの人はもう三十分以上ずっと話し中ということだった。それで、まあ、遼子さんにつないでもらうのも、ちょっとなんだな、と考えていたら、テッドさんが、きょうは日曜日なのにめずらしく君がいるって教えてくれたから」

 

   「ああ、そうだったんですか」。〔ちょっとなんだな〕というのがよくは理解できなかったけれども、僕はそう応えた。遼子さんより大事に扱ってもらったようで、嬉しいような、気がひけるような、みょうな感じだったよ。「柴田さん、すごく心配していましたよ。武井さんの会社にも電話をかけてみたそうだし、これから武井さんのお友だちと連絡を取って情報を集めるつもりだって…」

 

   「じゃあ、話し中だったのは、きのうの、あの件について調べてくれていたからだったんだね。…僕の方からもっと早く電話しなきゃいけなかったんだけど」

 

   「大変だったんですね。グリフィス天文台からの夜景見物のあとも」

 

   「というより、どうしたらいいかがよく分からなかったんだ。分かっていたのは、とにかくいまは捕まらないようにしなきゃ、ということだけで…。そこに戻らず、会社の近くのモーテルに泊まったのも、そのためだったんだよ。きのうは、例のヴァンを会社の駐車場に戻して、自分の車に乗り換えることさえ、怖くてできなかったぐらいで…。会社の前で移民局の取締官が僕を待ち伏せているんじゃないか、という思いにしばられていてね」

 

   「この電話も、そのモーテルからなんですか」。声が少し緊張していたよ。

 

   「モーテルはさっきチェックアウトして、いまは、ほら、きのうちょっと立ち寄った[マクドナルド]の公衆電話から。きょうは僕の仕事がない日だし、日曜日だから移民局も動いてはいないだろうから、会社に行って、車ももう自分のに替えて…」

 

   「今晩は帰ってくるんですか」

 

          ※

 

   「あのさ、横田君…」。武井さんはちょっとためらったあと、つづけた。「下に行って、テッドさんと話してくれないかな」

 

   「いいですよ。でも、何を話せばいいんですか」

 

   「変な人物が僕を訪ねてこなかったかをテッドさんにきいておいてほしいんだ。…あとでまた君に電話をして、テッドさんの返事がどうだっかをきくから」

 

   「変な人物、ですね?」

 

   「だから、それ…」。武井さんはまた声を小さくした。「移民局の取締官ということなんだけど、テッドさんにはそうはいえないからね。いや、僕もさっき直接きいてみたんだよ。で、だれも訪ねてきていない、という返事だったんだよ。だけど、電話だから、テッドさんの表情が見えなかったし…。その辺を君の目で確かめておいてくれたら、僕は安心してそこに戻ることができるから」

 

          ※

 

   僕はすごいショックを受けていたよ。…だって、きのうまではふつうに暮らしていた武井さんが、まるで、自分が逃亡中の凶悪犯罪者でもあるかのような話し方をしたものだから。

 

   「分かりました」と僕は言ったけど、その声はうわずっていたと思う。

 

   「それから」。武井さんはつづけた。「君自身にも、ホテルの前の通りに怪しげな連中がうろうろしていないか、見ておいてもらいたいんだけど…」

 

   「え、移民局の人たちがこのホテルの前にもいるんですか」

 

   「いや、いる、と言ってるんじゃなくて…。いるかもしれないから…」

 

   「移民局って、個人の住まいにまでやってくるんですか」

 

   「そこのところは、どうも…。きのうの夜、会社の上司の家に電話をかけて、空港で起こったことを報告したんだけど、そのときの、その上司の意見はこうだったよ。…〈移民局では、このところ何年間も予算不足がつづいているし、人手も足りないから、不法就労者を就労現場でまとめていっぺんに捕まえようというので、たとえば、ダウンタウンの縫製工場だとか、その、空港の出迎えロビーだとかを襲うことはあっても、不法就労容疑者の自宅をいちいち襲うようなことは、その容疑者が同時に重罪の容疑者でもない限りは、ないんじゃないか〉。…そうかな、とも思うけど、やっぱり、念には念を入れておいた方が…」

 

   「分かりました。そうします」。僕は気負って応えた。「おもてを見ておきます」。でも、そう言ってから、ふと疑問に思ったよ。「見ておきますけど、武井さんがグリーンカードを持っているかどうかとか、どこに住んでいるかとかを、なぜ移民局が知っているんですか。移民局って、そんな情報まで持っているんですか」

 

          ※

 

   「いや、そこなんだけど…」と武井さんは言った。「そんなことまでは知られていないと思うんだけど…」

 

   僕は武井さんがつづけるのを黙って待っていたよ。

 

   「だれかが僕のことを移民局に通報していないとも限らないだろう?」

 

   「密告、ですか」

 

   「ああ。きのうの空港での摘発だって、だれかからの、その〔密告〕を受けて行なわれたのかもしれない。もしかすると、僕を捕まえることが第一の目的だったかもしれない…」

 

   「まさか」。そう口に出してしまったとたんに、僕は〈しまった〉と思った。だって、人が深刻に心配していることを、根拠もなしに、そんなふうに簡単に否定するのはよくないじゃない。その人の気持ちを傷つけてしまうかもしれないじゃない。〈そういうのって、誇大妄想とか被害妄想とかいうやつじゃありませんか〉なんて言葉が飛び出さなかったのが、まあ、救いといえば救いだったかな。

 

   だから、僕は急いでつけ加えた。「武井さんには、何か思い当たることでも?」

 

   思い当たることなんかあるはずはない、と僕は考えていたんだよ。

 

   でも、武井さんの返事はこうだった。「僕も、まさか、と思ってはいるんだけど、一つだけ、ないこともないんだ、それが」

 

   「密告の原因になるかもしれないようなことが、ですか」

 

   「なる、とは夢にも思っていなかったんだけどね、あんなこと。…僕も、軽率だったんだよね。余計なことをいわなきゃよかったんだよね。…たぶん、あれが恨まれたんだろうな。いや、その密告があったとすればね」

 

   この辺りの話をしていたときの武井さんは、支離滅裂というほどじゃなかったけれども、話し始めたときとは違って、もう〔思いのほか冷静〕とは言えなかったな。

 

   武井さんに頭の中を整理してもらおうという考えと、単純な好奇心が混じった、落ち着きの悪い、みょうな心理状態で、僕はたずねた。「何があったんですか」

 

          ※

 

   武井さんの説明はこんなふうに進んだ。

 

   「イーストLAに、マリアチを聞かせる、メキシカンフードのレストランがあるの、君も知っているよね、横田君?」

 

   「はい。知ってはいますけど、まだ行ったことはありません。日本の観光ガイドブックで紹介されている、あれでしょう?」

 

   「そう。…あそこでね、一か月ほど前のことだけど、偶然に、つまらないところに行き当たってしまって…。いや、〔つまらない〕とか〔そんなことはこの業界ではよくあることだ〕とかいうふうに軽く考えていなければ、いま、僕はこんな心配はしていなかったんだろうけど…。

 

   「あのレストランは、横田君、日本からの観光客を大事にしているんだよね。いろんなガイド会社が入れ替わり立ち替わり、毎晩のように、五人、十人とお客さんを連れて行くからね。だから、日本人観光客のテーブルはふつう、バンドに一番近いところになる。店がそうするんだ。その辺のテーブルが音楽が一番聞きやすいところかどうかは分からないけど、ショーが見やすいところであるのは間違いない。…そして、演奏が始まると、あいだでミュージシャンたちが、そこに座っている日本人客たちに片言の日本語で話しかけたり、近寄っていっしょに写真に収まってやったりするから、お客さんたちも喜ぶ。喜ぶから、いわゆる口コミの評判もいいし、日本で発行されているガイドブックにも良く書かれる。だから、また新たな観光客がこのマリアッチ・ディナーのコースを選ぶ。実際、ロサンジェルスで手軽に、ちょっぴりメキシコのムードを楽しみたいという日本人には、このコースはオススメだよ。

 

   「それで…。一か月ほど前に僕が行き当たってしまった、その〔つまらないところ〕というのは…。僕が僕のお客さんたちをテーブルへ案内したあと、ひと休みしようというんで、駐車場にとめてあった案内用のヴァンに戻って客用座席に深々と体を沈めかけたとき…。そうだな、横田君には関係のないことだから、Aさんということにしておこうかな。そのAさんのヴァンが駐車場に入ってきて、僕のヴァンの隣にとまったんだよね。…Aさんというのは、違う会社でガイドをやっている、三十代半ばの男性で、その晩は、あとでこっそりと後ろ姿を数えたんだけど、十二人のお客さんを連れてきていたよ。

 

   「お客さんたちをヴァンから降ろすと、Aさんはその場で、そのレストランと、これから見るショーのことを説明し始めた。バンの中で一度すませた説明のおさらいという感じだったな。…僕はヴァンの窓ガラスを開けていたから、Aさんの声がよく聞こえたけど、Aさんには僕が見えていなかったはずだよ。そのとき、僕はほとんど座席に横たわるような格好になっていたからね」

 

          ※

 

   「僕が、あれ、と思ったのは」。武井さんはつづけた。「Aさんがお客さんたちにこう説明したからだった。〈で、皆さんに着いてもらうテーブルのことですが…。いい場所を取っておいてくれと、いつも店には言ってあるんですが、なんといっても、アメリカはチップの国ですから、ほかにチップを出す客やグループがあれば、そうもいかないことがあります。もし、皆さんが〔このコースのセット料金に少しチップを上乗せしてでも、できるだけいいテーブルに着きたい〕と一致してお考えなら、わたしがいまからマネジャーと交渉してきますが、いかがでしょうか〉

 

   「〈どうしようか〉だとか〈せっかくきたんだから、少しぐらいなら出していいんじゃないですか〉だとかいう声がしたあと、若い女性の声がたずねた。〈そのチップって、一人いくらぐらい出すものなんですか〉。Aさんは答えた。〈気持ち、ということですから、いくらでもいいとわたしは思いますが、一人一ドル、二ドルでは、やはり、少ないかもしれませんね〉

 

   「〈じゃあ、五ドルだな〉という中年男性の声が聞こえたよ。〈そうでしょうね〉とさっきの女性が応じた。…Aさんは結局、全員から五ドルずつ集めたようだった。〈では、交渉してきますから、皆さんはちょっとここでお待ちください。すぐに戻ってまいりますが、周囲をご覧になってお分かりのように、ここは、必ずしも環境のいいところではありませんから、この場からお動きにならないように〉

 

   「Aさんは二分ほどで戻ってきたよ。〈やあ、いい場所にしてもらいました〉と明るく言いながなね。…お客さんの中の何人かは拍手して喜んでいたよ」

 

          ※

 

   武井さんは一つため息をついてから言った。「僕はちょっとのあいだ、〈へえ、ああして六〇ドルがあの人のポケットに入ったわけか〉〈一回では六〇ドルにしかならないにしても、仮に、ひと月に五回こんなチャンスがあれば、三〇〇ドル。悪い稼ぎじゃないよな〉などと、Aさんの手腕に、そうだね、どちらかというと、すごく感心していたよ。だって、その〔セット料金〕にはもともと、初めから、ガイド料などとともに、サービス料という形でウェイターたちへのチップも含まれているんだよ。ふつうは、マネジャーと交渉するまでもなく、いつもいい場所を取っておいてもらえるんだよ。…仕事上の倫理、という面から見ると問題があるのだろうけど、観光客にチップを出させる機会がそんなところに、そんなふうにあるってことに気づいた人は、やはり、すごいじゃない。…そのときの僕はそう受け取っていたんだ。

 

   「でも…。お客さんたちがそのディナーショーを楽しんでいるあいだを利用して、近くのスーパーマーケットでフルーツのカン詰めだとかカップラーメンだとか、自分が食べるものを少し買っておこうと思い立ってバンを走らせ始めると、間もなく、僕は〈あれはAさんの〔発明〕じゃないのかもしれないな〉〈あの人がやっているからには、ほかの人たちもおなじことをやっていると考えた方がいいんだろうな〉〈やっていないのは、ひょっとしたな、僕だけなのかな〉などと思い始めたんだよね。…というのも、僕は独り身で、こんなふうにいいかげんに、のんびり、気楽に暮らしていられるものだから、その辺りの、カネをめぐるガイド仲間の動きにはずっと無関心、無頓着で、自分からといっては、特に情報を集めたことがなかったからね。

 

   「いや、ほんとうは、ほかの人たちはだれもやっていなくて、あれは、あの人だけがやっていたのかもしれないんだよ。…だけど、ショーが終わる直前に駐車場に戻ってきたときの僕は、あれはみんながやっていることだろう、と思い込んでしまっていた。それがいけなかった。

 

   「それでも、戻ってきたときにAさんと直接顔を合わせていたのだったら…。二人で話す時間があったのだったら、たとえば、〈さっき偶然に聞かせてもらいましたよ。あんな手があるんですね。感心しました。わたしもまねさせてもらっていいでしょうか〉などと、軽い調子で僕の方から話しかけていたかもしれないし、それで、事は違って展開していたかもしれないんだけど…。僕が戻ってきたときには、Aさんはもう、お客さんを導き出すためにレストランの中に入っていた」

 

          ※

 

   「それから何日か経って、僕は、Aさんの上司の一人と空港でたまたま出会って…。そのときなんだよね、僕がばかな、余計なことを、それもわけ知り顔で、その上司に話してしまったのは。〈わたしもガイドになってからけっこう長いのに、あんなうまい手があるなんて気づきもしませんでした。いや、Aさんには勉強をさせてもらいました〉なんてね。

 

   「いま思い返せば、その上司はなんだか不快そうな表情をしていたんだよ。でも、そのときの僕は、自分の〔わけ知り顔〕に酔っていたのか、あまり敏感じゃなかった。だから、ショーレストランの駐車場で耳にしたことを全部、その上司に話してしまった。

 

   「それから何日かあとだったよ、僕が、Aさんが会社で 一か月減給つきの〔厳重注意〕処分を受けたって話しを聞いたのは。…Aさんがそんなふうにお客さんたちから、言ってみれば、ハネていたことを、その上司と会社は知らなかったんだね。Aさんの行為は、業界全体の慣行はどうであれ、あの会社の職務規定に反していたんだね。…僕はもっとよく考えてからしゃべるべきだったよ。

 

   「そのあと、あちこちで何回もAさんと行き合わせたけど、Aさんはそっぽを向いたっきり。いや、無視されるよりは、そうだね、たとえば、何度か殴ってもらった方がすっきりするのに、と僕は思ったけれども、まさか、そんな乱暴なことを言い出すこともできず、日が過ぎてしまって…。そこへ、きのうの摘発だろう?」

 

   「つまり、武井さんは、そのAさんに密告されたと思っているんですね」

 

   「そう決め込んでいるわけじゃないんだけど…」

 

   「その人、武井さんがちゃんとしたビザを持っていないこと、知っているんですか」

 

   「グリーンカードを持っていないガイドは少なくないから、僕もあまり警戒していなかったから、あの人にも、そのことを明かしたことがあったかもしれない」

 

   「ここに住んでいるってことも、ですか」

 

   「話したことがあるような気がするよ」

 

   「密告は、それがあったとしての話ですが、〔厳重注意〕されたことを怨んで、というわけですね?」

 

   「やっぱり、その可能性も考えておかないとね」

 

          ※

 

   僕はなんだか暗い気分になっていたよ。

 

   そうそう…。秀人君が指にけがを負ったときのこと。病院の会計窓口でパスポートを見せるあの子がちょっとためらったって話を覚えてる?

 

   あれを見たときも、アメリカで不法滞在をつづければ僕もあんあふうに、何かにつけて脅えたり気後れしたりしながら暮らすことになるんだろうな、と考えて、ちょっと気がふさがりかかったんだけど…。

 

   きょうの気分はあのときの何十倍も暗く、重かったんじゃないかな。

 

          ※

 

   なんとか気を取りなおしてから、僕は「そういうことなら」と言った。「テッドさんに話を聞いて、外の様子も見ておきます」

 

   「ありがとう」

 

   「これから、どうするんですか、武井さんは」

 

   「このあとすぐに柴田さんと話して、それから、君にもう一度つないでもらうよ」

 

   「今夜は?」

 

   「変な連中がうろついていないことが分かったら、そこに戻るつもり…」

 

   「仕事はつづけるんですか」

 

   「きのう、上司に休みをもらったよ。…当分のあいだ、ということで。その当分、いつまでになるか分からないけど…。君もたぶん知っているように、不法就労させていたことが知れると、企業主も罰せられるわけだから…。僕が会社内や空港ロビーで捕まると、会社に迷惑をかけるわけだから…」

 

          ※

 

   電話が切れたあと、おかしいね、僕はしばらく、〈あれだけ話すのに、武井さんはクォーター(二五セント硬貨)を何枚使ったんだろう?〉〈それとも、ガイドの人たちは、緊急の事態に備えて、電話会社の(プリペイドの)コーリングカードを持つようにしているんだろうか〉〈その[マクドナルド]には公衆電話機が何台あるんだろう。一台だけなら、武井さんの長話に腹を立てた人もいただろうな〉〈そういえば、武井さんの会社は、ガイドに携帯電話機を持たせていないのかな。持たせられているんだけど、これは私事だというんで、武井さんが使わなかっただけなのかな〉などとぼんやり考えていたよ。

 

   そのことを無理に自己分析すれば、僕は、武井さんから聞いた話を思い返す前に、何かクッションみたいなものが心にほしかったんだと思うな。武井さんが直面している(『南加日報』に残るとすれば、いつか僕も体験することになるかもしれない)厳しい現実に目を向けなおすのを少しだけ遅らせようというんで…。

 

   つまり、きのうからきょうにかけて武井さんに起こったことは、僕にとってもそれぐらいショッキングなことだったんだよね。

 

          ※

 

   武井さんからの二度目の電話は三時半ごろにかかってきた。…それまでずっと(やはり電話で)柴田さんと話していたということだったよ。

 

   僕は自分が感じ取ったことをできるだけ簡潔に武井さんに伝えた。「テッドさんの表情は何かを隠しているってふうじゃありませんでしたよ。移民局はやってきてないと思います」

 

   「そう?…で?」

 

   「表に怪しい人影はありませんでした。そんなふうな人間は見ませんでした」

 

   「ありがとう」。武井さんは、僕が予想していた何倍も、ほっとしたみたいだった。

 

          ※

 

   六時過ぎ。

 

   きょう、それまでに起こったことをテープに吹き込んでおこうとレコーダーを手にしてベッドの上に横たわったとき、秀人君が僕を迎えにきた。武井さんが戻ってきたから、柴田さんの部屋に集まってみなで話そうということだった。…その〔みな〕の中に遼子さんが含まれていたことが(武井さんが無事に帰ってきたということには、もちろん、遠く及ばなかったものの)どういうわけか、僕にはすごく嬉しかったよ。

 

          ※

 

   ここで言っておくと、秀人君も柴田さんも(ということは、疑いなく、武井さんと遼子さんも)僕がときどきテープレコーダーに何かを吹き込んでいることには気づいているんだよ。でも、その内容は『日報』に記事やエッセイを書くための情報や資料だと思っているみたい。僕も、メモ用紙がわりにテープレコーダーを使っているんだ、としか説明していないし。

 

   つまり、四人とも、僕がこの声の日記をつけ始めたのは〔計画どおりにフィニックスの大学院に行ってMBAを取るための勉強を始めるか、それとも、ロサンジェルスに残って『南加日報』で働きつづけるか〕を考えるためだった、とは知らないんだ。リバーサイドからこのホテルに移ってきたときに説明したとおりに、僕は九月の中ごろには『日報』をやめて、フィニックスに移る、と思い込んでいるんだよね。

 

          ※

 

   柴田さんの部屋。

 

   武井さんが右手を挙げながら僕に言った。「さっきはありがとう」

 

   ダウンタウンスカイラインが見える窓のそばの(僕の部屋のよりはうんと大きい)テーブルの上には、(武井さんが[ヤオハン]のスーパーマーケットで買ってきたんだろうか)プラスチックケース詰めのすしが六箱、二リッターボトルの[ペプシ]が二本、それに、パーティー用の紙コップ五個と紙小皿五枚が、みょうにきちんと並べられていたよ。すしにはまだ手がつけられていなかったけれども、プラスチックケースのふたは取られていたし、小皿にはもう醤油が用意してあった。…とりあえず当面の心配事がなくなって、みんな、食欲が大きくなっていたのかもしれないね。

 

   「なんとか無事に戻ってこられましたね」。僕は言った。

 

   「ああ」。武井さんはちょっと照れているような目つきでつぶやいた。

 

   遼子さんが口を開いた。「無事で当然だと思うけどな。心配しすぎたのよ、武井クンは。移民局はこんなとこまでやってきはしないわよ」。遼子さんももう、話しを全部聞いていたんだね。

 

   「遼子、あのね」。柴田さんが顔をしかめた。「自分が保証できもしないことを、そんなふうに簡単にいうんじゃないよ。それに、その話はもういいって…。もう終わったことだから。だいたい、お前は人の気持ちが分からない女なんだから、そこんところをよく自覚したうえで物を言った方がいいよ」

 

   武井さんが言った。「いえ、たしかに、ちょっと心配しすぎたかもしれません」

 

   遼子さんは(唇を尖らせる、あの得意の表情をつくって)どちらかというと柴田さんに聞かせるように言った。「そうよ」

 

   「何が〔そうよ〕だ。…黙ってすしを食ってろ、お前は」

 

   柴田さんがそう言ったのをきっかけに、まず秀人君が、それから順に、僕、遼子さん、柴田さん、武井さんがすしに手を伸ばした。

 

   僕らに混じって(むしろ嬉しそうに)すしをつまんだのだから、遼子さんは柴田さんにいわれたことに立腹したりはしていなかったんだね。ボクシングでいう〔打たれ強い〕ってタイプなのかな、遼子さんは。…関係ないことだけど、真紀だったら、〔お前〕という言葉を聞いたとたんに、きっと、絶交宣言をしているところだよ。

 

          ※

 

   「これから、どうされるんですか」と武井さんにたずねたのは秀人君だった。「仕事は当分のあいだ休む、ということでしたけど…」

 

   「見ろ」。柴田さんが遼子さんに言った。「武井君のことは、お前より秀人の方がうんと真剣に心配してるぞ」

 

   「わたしだって…」。遼子さんがそう言ったとき、武井さんが秀人君にたずね返した。

 

   「その〔当分のあいだ〕のあとのこと?」

 

   「ええ」

 

   「ガイドの仕事に戻るつもりかって?」

 

   「ええ」

 

   「まだ考えていないよ。僕が戻るつもりになっても、会社がどういうか…。一方で、いくらガイドが不足しているからと言ったって、不法就労していることが移民局に知れているかもしれない人間を雇う会社がほかにあるかどうか…。そうかといって、みんなにいつも言っているように、ガイド以外の仕事が僕にできるかというと…」

 

   ホームレス二人に襲われたあと目立って口数が少なくなっていた秀人君がまた質問した。「じゃあ、ガイドの仕事がなかったら、日本に帰るんですか」

 

   「いや…。帰らないって気がするよ。何でもいいから、とにかく、ほかに仕事を見つけて…」

 

   「なぜ帰らないんですか」

 

   「絶対に帰らない、と決めているわけじゃないんだけど、こっちが気に入ってるし…。それに、僕はもうすぐ三十歳になるんだ。日本に帰ったって、いい仕事に就けるとは限らない。というより、もう〔いい仕事〕になんか就けはしない。…いや、正直にいうとね、僕の両親や兄、妹たちは〔いまさら僕に帰ってきてほしくはない〕と思っているようなんだ。だって、僕は親のコネで、ほら、まともな、りっぱな鉄道会社に入れてもらいながら、そこを勝手にやめてアメリカにやってきた人間だからね。そんな人間が四年後にふらりと日本に戻ってきて、だれも知らない小さな会社でひっそり働いている、なんて図は、家族のみんなの目には、想像するだけでも不快、不名誉なことらしくて…」

 

          ※

 

   武井さんの両親の顔が見えるような気がしたよ。…会ったことも写真を見たこともないままぼんやり空想したその顔は、自然に、僕自身の両親の顔によく似たものになっていたけどね。

 

   だって、ほら…。MBAのコースに進まず『日報』で働きつづけたとして、だよ、縁起でもないことを言うようだけど、ああいう経営状態の会社だからね、僕が人員削減の対象になってしまうとか、新聞社自体が倒産してしまうとか、そんな事態におちいってしまう惧れもけっこうあるわけじゃない?そうはならなくても、(武井さんの〔危なかった〕という話とは違って)ほんとうに移民局に捕まってしまうこともあるかもしれないじゃない?…とにかく、そんなことになってしまって、日本に帰らなきゃならないときが僕にもくるかもしれないじゃない?

 

   そうなったとして…。さあ、僕にはMBAがない。ないから、父は僕を〔そこそこの企業〕に入れてくれない。入れてもらえないから、僕も〔だれも知らない小さな会社でひっそり〕働くことになる…。

 

          ※

 

   秀人君にはまだ、たずねておきたいことがあった。「でも、こちらで働いていると、移民局に捕まっちゃうかもしれないわけでしょ?」

 

   「いっそ、捕まって、強制送還でもされたら…」と言ってから、武井さんは唇をゆがめた。「あきらめがつく、と言ったら変だけど、それはそれで、僕も両親も、気持ちがすっきりすんじゃないかと思うんだけどね」

 

   そうかもしれない、と僕は思った。そういう感じ、分かるって気がした。

 

   秀人君がつぶやいた。「難しいんですね」

 

   「難しくはないさ」。武井さんは応えた。「僕が自分でそういう人生を選んだんだから」

 

   「きのう、恐くなかったですか」

 

   「恐かったよ」

 

   「それでも、こっちに住みつづけるんですか」

 

   武井さんは秀人君のその問いには答えず、なぜか柴田さんの方に視線を移した。秀人君に答えていたときの柔和な表情が消えていた。

 

   武井さんは言った。「僕、このホテルを出ることにします」

 

   「何なんだよ、急に、それ」。めったなことでは動揺しない(か、そうでなきゃ、動揺しているところを周囲の人間に見せない)柴田さんがうろたえながら言った。「ここも移民局に目をつけられているかもしれなから、というわけ?」

 

   「いえ、そうじゃなくて…」

 

   「だったら、なぜよ」。遼子さんがまた唇を尖らせた。

 

   武井さんは答えた。「僕、結婚します」

 

          ※

 

   柴田さんと遼子さんが視線を合わせていた。…いうまでもなく、驚きを共にしながら。

 

   僕は〈この二人が、それが何であれ、おなじ感情を抱きながら見つめ合うのはこれが最初なんじゃないか〉と、いささか焦点の外れたことを頭の隅で考えながらも、たぶん、二人に劣らないぐらい驚いていた。

 

   秀人君はなぜか、何度も大きくうなずいていた。

 

   「それは…」と言ってから、柴田さんはひと息ついた。「めでたいことだけど、武井君にそんな女性がいたとは…」

 

   「あ、武井クン…」。遼子さんの目が急に輝いた。「昨夜は、ほんとうはモーテルじゃなくて、やっぱり、その女の人のとこだったんでしょう?」

 

   「いえ」。武井さんは苦笑した。「だからそれは…」

 

   「そうでしょう?」。遼子さんは武井さんの言葉をさえぎった。

 

   「遼子!」。柴田さんがあいだに入った。「武井君が昨夜泊まったところのことなんか、いまはどうでもいいだろう?」

 

   「でも、わたしの勘…」

 

   「だから、そんな勘なんかどうでもいいんだって」。柴田さんは声を大きくした。「ほんとに、とんちんかんで、しつこいんだから、お前は」

 

   「いいわ。あとでこっそり武井クンに聞くから、それ、もういい」。そう柴田さんにいうと、遼子さんは武井さんに視線を移した。「それにしても、武井クン、その人のこと、わたしたちに隠していたわけね。ずいぶん水臭いじゃない」

 

   遼子さんは悔しそうだった。でも、その悔しさは、隠し事をした(らしい)武井さんにではなく、どちらかというと、結婚するような女性が武井さんにいたことを見抜けなかった自分に向けられているようだったな。

 

   「だから、遼子」。柴田さんは言った。「そういうことは全部、どうでもいいの、いまは」

 

   「あの…」。武井さんは困惑しながら、両手を挙げて二人を制した。「そうじゃなくて…」

 

   「そうじゃなくて?」。遼子さんが首を傾げた。

 

   「相手はこれから探すんです」

 

   「これから?」。柴田さんはあごを落とした。

 

   「はい、これから」。武井さんは恥ずかしげに答えた。

 

   「やっぱりね」。たちまち、遼子さんの顔に笑みが戻った。「いまは、まだいないのね、そんな女の人?隠していたわけじゃないのね?よかった。…おかしいと思ったわ」

 

   「〔おかしい〕のはお前だよ、遼子」。柴田さんは言った。「さっき、武井君に〔昨夜女の人のところに泊まったんだろう〕と言ったかと思うと、今度は、武井君にそんな人がいないと聞いて喜ぶ…。だいたい、武井君はりっぱな大人だよ。どこかに、オレたちに隠していた、あるいはだな、まだ紹介していなかった、そんなガールフレンドがいたとしても、どこも〔おかしい〕ことはないじゃないか。そんなことより、相手がまだいないのに結婚する、という話の方がよほど〔おかしい〕とは思わないのか?」

 

   「そういえば、そうね」。遼子さんは意外にすなおにそう言ってから、武井さんの方に向きを変えた。「…どういうことよ、それ?」

 

   僕は秀人君と視線を合わせた。秀人君も遼子さんの変わり身の速さを苦笑しながら見ていたのだった。

 

   武井さんは笑っていなかった。「ですから、アメリカ国籍か永住権を持っている女性を探すんです。探して、結婚して、ずっとこっちに住めるようにするんです」

 

   「ああ、なるほど…」。柴田さんは(おおらかに)そう言った。でも、その目には(正直に)〈そんなに簡単にはいかないんじゃないか〉という疑いが表れていたよ。

 

   柴田さんの胸の中をやはり読んだんだろうね、武井さんは毅然とした口調で言った。「それしかないと思います。合法的にアメリカに住むには結婚する以外にはありません、僕には」

 

          ※

 

   僕は、どうやったら永住権が取得できるかについて、ずっと前に児島編集長が説明してくれたことがあったことを思い出したよ。…覚えてる?

 

   編集長は(本気だとも冗談だともとれる表情で)こう言ったんだ。〈ここ何年間か、国務省が毎年五万五千人に〔抽選〕で永住権を与えているから、それに応募して当たることだな。じゃなきゃ、アメリカ国籍か永住権を持っている女性と結婚するんだな。横田君は若くて、ちょっとは男前だから、あとの方が簡単かもしれんな〉

 

   『日報』に紛れ込んだのが僕ではなく武井さんだったとしても編集長がおなじことを言ったかどうかは判断がつかなかった。だけど、〔結婚して永住権を手に入れよう〕というのは、数百人に一人という確率でしか当たらない〔抽選永住権〕を取得しようというのとほとんど変わらないぐらい実現するのが難しい考えなんじゃないか、と僕は感じていたよ。

 

          ※

 

   武井さんはつづけた。「四年前にガイドとして働き始めたときすぐにグリーンカードを申請しておけば、ひょっとしたら、いまごろは…。でも、あのころの僕は、ただなんとなく南カリフォルニアで暮らしていたいというだけで、こちらに永住したいという気持ちはなくて…。いえ、ほんとうをいうと、きのうまで、そんな気持ちはなかったんです。とにかく気楽に生きていられればいいと考えていたんです。でも、きのう、あんなことがあって…。いろいろ考えているうちに気持ちが変わりました。やっぱり、永住権が要るんです。永住権がなかったら、気楽には暮らせないんです。不法滞在、不法就労では、たとえそんなことが長くつづけられたとしても、だめなんです。…そうかといって、さっき話したような家庭の事情もあって、こうなってしまったからといって、〔はい、じゃあ〕とあっさり日本に帰ることもできません。…帰りたくもありません」

 

   柴田さんも遼子さんも、僕も秀人君も、みんな黙って武井さんの話を聞いていた。

 

   とっくに永住権を手にしていてアメリカで自由に生きていける柴田さんと、会社勤めで貯めたカネを使いながらしばらく〔語学留学生〕暮らしを楽しんでいるだけの遼子さんとでは、当然、受け取り方が違っていただろうし、〔ちょっとアメリカを見ておこう〕と思い立っていなければ、いまごろは日本で受験勉強に励んでいたはずの秀人君と僕も、おなじ思いで耳を傾けていたのではなかっただろうけども、とにかく、だれも口を開かなかった。

 

          ※

 

   「帰りたくない、とは言っても」。武井さんの声が小さくなった。「横田君の『南加日報』にも最近載っていたじゃないですか、一九八六年の法改正のあと不法移民に厳しくなっていたアメリカは、これからは合法移民の受け入れ数も減らす、受け入れ条件も厳しくする、不法移民の排除策をますます強化していくって記事が。…ですから、ガイド会社に限ったことじゃなく、永住権取得のスポンサーになってやろうって企業は、これからいよいよ減っていくでしょうし…。それに、僕には、柴田さんと違って、すしを握るみたいな、永住権を取るのに必要な〔特別な技能〕もありませんし…」

 

   僕は〈編集長や光子さんが書いた移民関係の記事を武井さんがそんなふうな観点から、そんなふうに真剣に読んでいたなんて…〉〈ということは、『日報』の記事を読んで人生の設計をしなおうそうとしている人たちがこの南カリフォルニアにはほかにもたくさんいるってことなんだろうな〉などと考えながら、武井さんの話を聞いていたよ。…一方で、〈『日報』に残ることにすれば、僕自身もやがて、その〔たくさん〕に仲間入りするんだな〉って思いながらね。

 

          ※

   みんなのあいだに漂っていた短い沈黙を破って口を開いたのは遼子さんだった。「じゃあ、武井クン、女の人を口説いて結婚する〔特別な技能〕はあるのね?」

 

   間を置かず、柴田さんが声を荒げて言った。「ばかなことを聞くんじゃないよ、遼子」

 

   「おっかない」。遼子さんは首を縮めた。

 

   「冷やかさないでくださいよ、遼子さん」。武井さんは気弱げに笑いながら言った。…でも、遼子さんの質問を不快だと感じている様子ではなかったよ。

 

   柴田さんが武井さんに代わって、遼子さんに説明した。「だから、遼子、武井君はそれぐらい切羽詰まった気持ちになっているということだよ。結婚が簡単にできるとは考えていないよ、武井君も」。柴田さんは武井さんに視線を移した。「…だろう?」

 

   「ええ」

 

   「いいわ、分かった」。遼子さんはひきさがった。「でも、ここを出る、というのはなぜなのよ?」

 

   僕が思うに、遼子さんは、たとえば、このホテルの住人の一人、中国人のチェンさんとは話したことがなかったんだろうね。〔カネもだいぶ貯めた〕というチェンさんが〔こんなところに住んでいたんじゃ、だれも結婚してくれない〕と考えていたことは、知らなかったんだね。

 

   「なぜって…」と言ってから、武井さんはためらった。

 

   「たしかにな」。(武井さんがいいたかったこととは少し違っていたように僕は思うけど、とにかく)柴田さんが助け舟を出した。「どう見たって、ここは、女性を連れこんだり口説いたりするのにふさわしい、ロマンチックな場所じゃないからな」

 

   「ああ」と遼子さんが言った。「そういうことなの?…いやらしい、武井クン。それに柴田さんも」

 

   「どこが〔いやらしい〕んだよ」。柴田さんが遼子さんをにらんだ。

 

   「ですから…」。武井さんはいくらか顔を赤らめているみたいだった。「僕がここを出るというのは、暮らしの環境を変えて、ふらふらした生き方をやめて、自分の人生を定まった軌道に乗せようということで…」

 

   「分かってるよ、武井君」。柴田さんはおうようにうなずいて見せた。「出たらいいさ。ちょうどいい機会かもしれんな。いや、人生を肯定的に考えるというのは、何にしてもいいことだからね」

 

          ※

 

   自分自身が[エスメラルド・ホテル]の長期逗留者である柴田さんが、このホテルを出てどこかよそで暮らそうという武井さんの考えを〔肯定的〕なことだと見ていることを知って、僕は武井さんのためにほっとしたよ。だって、僕の場合みたいに、初めから半年間ぐらいの滞在だと分かっていたのと違って、こういう話って、へたをすると、出ていく者と残る者のあいだにしこりを残しそうじゃない。…いや、柴田さんは、自分が好きな生き方をするためにこのホテルを利用しているだけで、(カネに困ってとか、あるいは、家庭に事情があってとかいうことで)ここに住みつづけているしかない、という人ではないから、あの人には、出ていく人を羨んだり妬んだりする理由はそもそもなかったんだろうけど。

 

          ※

 

   僕がそんなことを考えていたときだったよ、柴田さんたちの会話をしばらく黙って聞いていた秀人君がゆっくりと口を開いたのは。「あの…」

 

   柴田さんの〔出たらいいさ〕という意見に賛同したものかどうかを思案している表情だった遼子さんが(〔まあ、そのことはわきに置いといて〕といった感じで)秀人君にたずねた。「どうしたの?」

 

   窓の外に見えるダウンタウン超高層ビル群に視線をやりながら、秀人君はつぶやくように言った。「ぼく、決めました。日本に帰ります」

 

          ※