横田等のロサンジェルス・ダイアリー (1995年)    =5~6= 

横田等のロサンジェルス・ダイアリー =5=

*** 8月20日 日曜日 ***





    土曜日の『南加日報』は(大きなニュースが急に飛び込んできたりしなければ)大半を金曜日までに記事の書きだめ、タイプの打ちだめをしておいたニュースで埋めるから、版下はだいたい午後三時ぐらいまでにはできあがる。

 

   きのうも同様で、僕は四時過ぎにはもう、真紀のアパートで一人でくつろいでいた。

 

   なんで一人だったかというと…。

 

   サマースクールでは何も受講しないことにしている真紀にとっては、八月はほんとうは暇な時期であるはずなんだけど、あの子、この夏もけっこう忙しく暮らしているんだよ。というのは、真紀は、外国人を対象にこの期間も開かれている英語集中プログラムのオフィスで、(英会話がまだ不自由な)日本人学生たちのための通訳兼世話係みたいな仕事を(去年の夏につづいて)させてもらっているんだ。

 

   で、きのうは、土曜日でオフィスでの仕事はなかったから、真紀は自分のアパートで、僕がやってくるのを本を読みながら待っていたんだけど、三時ごろ突然、日本人学生のグループから助けを求める電話がかかってきたんだって。…リバーサイド市内のマグノリア通りで自動車が故障してしまったのに、だれも英語がまともには話せないので、みなで困りきっているって。

 

   つまり、僕が着いたときに真紀がアパートにいなかったのは、その学生たちを助けるために(事情を説明したメモを僕あてに残して)飛び出していたからだったわけだ。

 

   真紀が帰ってきたのは五時近くになってからだったよ。…そんな仕事を、あの子、自ら望んで、それもけっこう楽しそうにやっているんだよ。

 

          ※

 

   アローヘッド湖畔での時間も含めて、そのあと真紀と一緒に過ごした二十四時間ほどのあいだにも、僕は、自分の心がぐらついていることは話さなかった。…何度か、ほんとうの理由はいわずに、〈声の日記をつけ始めたよ。そのうちに君に聞いてもらうことがあるかもしれない〉くらいのことはいま話しておいた方がいいかな、と考えたりもしたけど。

 

          ※

 

   ということで、金曜日に途切れた個所に話を戻すと…。

 

          ※

 

   ジャネットさんが結婚したのは、カリフォルニア州中部の(デスバレーから遠くないところ)マンザナーに設けられた〔リロケーション・センター〕内でだった。一九四二(昭和十七)年だった。娘のグレイスさんは一九四四年に、その〔センター〕の中で生まれている。

 

   ジャネットさんの夫だった人、ジェリーさんは、だけど、グレイスさんの顔を見ていないそうだ。ほかの多くの二世男性とおなじように、〈日本人移民とアメリカ国籍を持つその子供たちがこんな形で収容されてしまったのは、アメリカという国への忠誠心が疑われたからだ。自分たちが自由になるためには、戦場でアメリカのために戦い、忠誠心を認めてもらいしかない〉というふうに考えたジェリーさんは一九四三年、志願して陸軍(四四二部隊)に入隊し、翌年ヨーロッパに送られて、間もなく、イタリア戦場で戦死してしまったからだ。

 

   ジャネットさんはその後再婚しなかったから、子はグレイスさん一人しかいない。

 

          ※

 

   要注意人物としてニューメキシコ州サンタフェの隔離施設に送られた徳松を除いた今村家の全員も、マンザナーの〔リロケーション・センター〕に入れられていた。

 

   南カリフォルニア大学を卒業したあと、ロサンジェルスにある日系銀行で働いていた徳一は、〔センター〕内で〔選抜〕され、ミネソタ州にあった米軍情報語学学校で速成の日本語教育を受けると、一九四五年にインドシナ半島に送られた。

 

   『南加日報』社の現社主であるフレッドさんは、復員してきた徳一が一九四七年に(やはり日系二世のマーガレットさんと)結婚してから二年後に、ロサンジェルスで生まれている。

 

   徳松の妻、エミリー(タミ)はこの収容所内で一九四四年の冬に急性肺炎で死亡している。

 

          ※

 

   徳松社長とジャネットさんを含め、『南加日報』で働いていた者のほとんどは〔終戦〕の翌年、一九四六(昭和二十一)年の春までにはロサンジェルスに戻っていた。

 

   その秋、立ち退き前にジャネットさんたちがドイツ系移民が経営する印刷会社にあずけておいた活字を使って『南加日報』が再刊された。

 

   〔戦前〕に事業や商売をしていた日本人と日系人の多くが、強制立ち退きの際に(足元を見られ、ずいぶん低い価格で)その権利や在庫などを売り払っていたのに対し徳松は、大学時代からの友人であるアメリカ人弁護士に(手数料を払って)食料雑貨店の管理を委託していたから、収容所暮らしのあいだにもある程度の収入があったし、ロサンジェルスに戻りそれを再び自分で経営するようになってからも、資金面での苦労は少しもしなかった。

 

   新聞の再刊が円滑に進んだのは、その資金力があったからだった。

 

          ※

 

   『南加日報』は再び(週六日)発行されるようになったけれども、徳松はもう、自分のコラムを持とうとはしなかった。…日米開戦前の自分の時局分析と主張が必ずしも正しいものではなかったことを反省していたのかもしれないね。

 

   代わりに、編集員、記者たちが順繰りに担当するコラム、[海流]が生まれた。

 

   徳松はしだいに、〔戦後〕も効力を持ちつづけていたカリフォルニア州[外国人排斥土地法](いわゆる[排日土地法])と闘うことに関心を集中させて行った。…大学で得た法律知識を活かして日系・日本人コミュニティーに貢献するのは(日米関係が落ち着くところに落ち着いた)いまだ、とでも考えたのだろうか。

 

   一九四八(昭和二十三)年、徳松は、ほかの何人かの一世たちと平行する形で、違法を承知で(昔、妻エミリーの父親、重男が理髪店を営んでいた)ボイルハイツに小さな土地を購入し、その土地の所有権確認をカリフォルニア州政府に申請した。

 

   申請は州政府に却下されたけれども、徳松はあきらめなかった。裁判所の判断を求めて、(戦中、食料雑貨店の経営を委託していた友人の弁護士にここでも助けてもらいながら)州最高裁判所まで闘いつづけたのだ。

 

   『日報』の紙面は、徳松が書く[排日土地法]解説や申請経過報告、裁判情報などで活気づいた。…徳松たちが裁判で勝てるかどうか、日本人と日系人が土地の所有・借地権を完全に回復できるかどうかがコミュニティーの最大の関心事となっていった。

 

   読者が増えた。『日報』は(児島編集長が呼ぶところでは)〔第二の黄金期〕を迎えたのだ。

 

   そして、一九五二(昭和二十七)年、徳松はついに、〔排日土地法〕は州憲法違反だ、とする判決を勝ち取った。 

 

          ※

 

   『日報』の発送担当者、二世のスギ老人が〔徳松さんに昔お世話になったことがある〕と言っている(という)のは、このころのことを指してのことではないか、という気がするよ。〔一世日本人には土地の購入ができない〕ということがすでに不当なのだけれども、〔アメリカ生まれのアメリカ人である二世でさえ買うことが禁じられている〕というのはさらに理不尽なことだ、というので、二世の名義で土地を買って[排日土地法]に挑戦しよう、という運動が徳松の裁判闘争と平行してあって、徳松はそちらも熱心に支援していたそうだから。…スギさんも、そんな二世の中の一人だったのかもしれないね。

 

          ※

 

   徳松が[排日土地法]と闘っているあいだ、『日報』を実質的に経営していたのは(〔何でも屋〕の)ジャネットさんだった。社内での日常的な経理事務、資金繰り、広告集め、社員の待遇・人事などを全部見ただけではなく、徳松に代わって、『日報』の顔としてコミュニティー内の諸団体との交流にも精を出した。

 

          ※

 

   [外国人排斥土地法]が廃止されてからの徳松は、コミュニティー内の名誉職をいくつか引き受けてはいたものの、引退したも同様の暮らしぶりだったそうだ。…編集員の一人として一九五〇(昭和二十五)年から『日報』で働いている辻本さんが一度僕に〈あの人はあのころ、南カリフォルニアの日本人・日系人社会で自分のような人間が積極的な役割を果たす時代は終わった、と感じていたのかもしれないな〉と話してくれたことがあるよ。

 

          ※

 

   徳松が心臓発作で急死したのは一九五九(昭和三十四)年。…七十三歳だった。

 

   西本願寺での葬義は(そのとき十五歳だったグレイスさんが〈あんなのはその後も見たことがない〉と回想するぐらい)盛大なものだった。…徳松への〔恩返しのつもりで〕『日報』で働いているのだというスギさんみたいな人が三十六年後のいまでもいるぐらいだから、葬儀には、日系・日本人コミュニティーへの徳松の貢献を高く評価する人たちが、いろいろなところ、さまざまな分野から数多く駆けつけたんだろうね。

 

          ※

 

   復員してきたあと、〔戦前〕に働いていた日系の銀行に戻っていた徳一が銀行を辞め、『南加日報』の二代目社長に就任した。

 

   経営権を第三者に売り払い、自分は銀行に残って庶務の仕事をつづけていたかった(四十二歳の)徳一を説得して社長の椅子に座らせたのは、二十二年前に徳一に誘われる形で徳松の下で働くようになっていたジャネットさんだった。強制立ち退きに遭ったためにあいだにおよそ四年間の休刊があったものの、徳松が個性豊かに三十年間近く経営・発行しつづけた新聞を今村家以外のだれかの手に渡すことなど、ジャネットさんには考えられなかったのだ。

 

   徳一はしかし、(辻本さんに何度か〈戦争中にインドシナ半島で従事した情報戦はおもしろかった〉と述懐したことがあるということからも、あるいは、想像できるかもしれないけれど)自ら先頭に立って従業員たちを鼓舞し、企業を発展させていこうという(言ってみれば、表立った、積極的な)性格ではなかった。社交もあまり好きではなかった。

 

   徳一は銀行で事務を取っていたときとおなじ勤勉さで、英語欄の編集に取り組んだ。…二世や三世が関心を持ってくれそうな(日系人や日本人に関する)ニュースを、[AP]が送ってくる記事などの中から探し出すことにはすこぶる熱心だけれども、自らコミュニティーの取材に乗り出すことはなく、コミュニティー内に議論を沸騰させる類の意見を紙上で発表することもない、といったふうに。

 

   英語欄の紙面はしだいに活気のないものになって行った。

 

   購読者数が少しずつ減り始めた。

 

   ジャネットさんはしだいに、広告取りと資金繰りに時間を取られることが多くなっていった。

 

          ※

 

   徳一は、徳松から引き継いだとき南カリフォルニアのあちこちに十三店あった大小の食料雑貨店を一店ずつ売却し、売って手にした資金でアパート・ビルを購入しだした。ロサンジェルス一帯の人口はその後も急速にふくらみつづけたし、アパートの需要も伸びつづけたから、徳一には先見の明があったとも言えるわけだけど、徳松が順調な食料雑貨店経営を足場にして新聞事業を成り立たせていたことを知っていたジャネットさんの目には、徳一のやり方は(徳松の息子らしくない)ひどく消極的な資産管理だと見えた。

 

          ※

 

   十数年後の『南加日報』は、日本で経済復興が進んで、ロサンジェルスと日本間の人の行き来が増し、南カリフォルニアに住みつく日本人の数が増えるに従って順調に発行部数を伸ばしていく『日米新報』を横からただ見ているだけ、という状態におちいっていた。

 

   『日報』の発行部数は徐々に減少しつづけた。資金繰りがときどきジャネットさんの手に負えなくなるようになった。

 

   新聞社のやりくりが二進も三進もいかなくなると徳一も、父親、徳松がしたとおなじように、自分のもう一つの事業であるアパート経営の収益の中からいくらかを運転資金としてジャネットさんに渡したのだけれど、その渡し方はたいがい、(辻本さんが直接ジャネットさんから聞いたところによると、〈ふだんは折り合いよくやっているのに、そんなときになると、銀行を辞めさせられたことをまだ恨んででもいるかのように〉)しぶしぶとしたものだった。

 

   社員の待遇が目立って悪くなって行った。つぶれた活字の補填、補充が遅れるようになった。

 

          ※

 

   一九七九(昭和五十四)年、父親とおなじ心臓発作で徳一が死んだ。まだ六十二歳にしかなっていなかった。

 

   ロサンジェルス市の北方にあるパサデナ市にあるハイスクールで数学の教師をしていた(一九四九年生まれで、そのとき三十歳だった)長男フレッドさんに(半ば強引に)新聞事業を継がせたのは(徳一のときがそうだったように)やはりジャネットさんだった。

 

   徳一が継いだときには(徳松の威光みたいなものがまだ周囲に色濃く残っていたからだったんだろう)表向きには反対しなかった徳一の妻(でありフレッドさんの母親である)マーガレットさんが、ここでは、フレッドさんに新聞社を継がせようとするジャネットさんにかなり強く抵抗したそうだ。

 

   もともと、徳一が堅実な銀行員だったから結婚する気になったのだという(新聞事業にはまるで関心のなかった)マーガレットさんの目には、夫と子が二代にわたって、先行きが明るいとは思えない事業に取り組むのは、なんだかばかげたことに見えて仕方がなかったらしい。

 

         ※

 

   その母親、マーガレットさんを最後に黙らせてしまったのは、〈徳松さん、徳一さんと、今村家が二代つづけた名誉と伝統のある新聞なんだから、フレッドさんの代になってあっさり他人に渡してしまうわけにはいかないだろう〉だとか〈ここで『日報』が消えてしまえば、墓石の下の徳松さんがずいぶん悔しい思いをするだろう〉だとかいう、ジャネットさんのなんだか変に日本的な人情論だったそうだ。

 

          ※

 

   またちょっと話がそれるけど…。

 

   いちおうは〔帰米二世〕であるジャネットさんがそんなふうに考えるというのは分かるような気がするよ。だけども、カリフォルニアで生まれ育った二世であるマーガレットさんが最後はそんな人情論で説得されたというのは、精神文化の伝承の仕方という点から見れば、おもしろい話だと思うな、僕は。…もちろん、アメリカ育ちの二世がみんなマーガレットさんとおなじように説得されるとは限らないだろうけど。

 

   この話を僕にしてくれた(自分は移民一世である)辻本さんはむしろ、僕の「二世どうしがそんなことを話し合ったんですね、それも英語で」というつぶやきの方に、「なるほど、そういわれてみればそうだね」とみょうに感じ入った様子だったよ。

 

          ※

 

   で、継いでみて、経営内容の悪さを改めて知ったフレッドさんが(父親、徳一の例にならうかのように)新聞事業を他人に売却した方が得策だといいだしたときには、〔日系コミュニティーの公器〕だとか〔新聞の責任〕 だとかいう大義名分を振りかざして売却をあきらめさせたというから、ジャネットさんには〔感情〕と〔論理〕の両方を使い分ける才能があったんだね。

 

          ※

 

   フレッドさんに売却をあきらめさせることはできたものの、ジャネットさんは『日報』の経営状態を好転させることはできなかった。

 

   いや、ジャネットさんにも当然、読者数を増やせば自ずと広告収入が上がることは分かっていたんだよ。だけど、(児島編集長の言葉でいうと)〔日本の経済発展に押し出されるように、ひきもきらず南カリフォルニアにやってくる、顔を日本に向けたままの日本人たち〕と〔アメリカでの暮らしがそれぞれ安定するにしたがい、たがいの結びつきをしだいに薄れさせていく日系人たち〕という二種類の読者グループを同時に満足してもらえる新聞をどうつくればいいかなんて、新聞の編集にはそれまで直接関わったことのなかったジャネットさんには、見当さえつかなかった。

 

   無理に継がせた、という思いがあるからジャネットさんは、フレッドさんにはできるだけ資金繰りの心配はさせたくなかった。…(人件費を第一に)経費を削減することが経営をつづけていくためのほとんど唯一の手段になっていった。

 

   日本語セクションで質のいい編集員を雇うことが難しくなった。

 

   〔論説の『日報』〕の顔だった[海流]の論調に冴えがなくなったし、三面のローカル記事からも活気が消えていった。

 

   英語セクションでは、ほかに編集員が雇えないことを理由に、フレッド社長が(父親、徳一よりも熱心に)編集作業に打ち込んだ。…〈社長が自ら営業活動に乗り出し、コミュニティーとの接触、交流を活発にしていけば、必ず読者と広告が増える。そうなれば、編集員が何人でも雇えるようになるだろうし、社長が編集室にこもりきりなる必要もなくなるはず〉というジャネットさんの意見に、フレッドさんは耳を貸さなかった。

 

   〈自分にそんなことができると分かっていたら、初めから数学の教師にはなっていなかった〉というのが、フレッドさんの言い分だったそうだ。

 

          ※

 

   今村家とジャネットさん、グレイスさん親子の関係は、知れば知るほど、(適当な表現じゃないかもしれないけど)おもしろいんだよね。

 

   徳一とジャネットさんは、おなじ一九一七(大正六)年生まれ。

 

   徳松がアシスタントをほしがっていたとき、自分は日本語があまりできないから、と理由をつけて新聞社入りを避け、代わりにジャネットさんを徳松に推せんし、その後も、新聞社でのありとあらゆる仕事と苦労をジャネットさんに(いわば)押しつけたまま、自分は日系の銀行で働きつづけながら、まあ、平穏無事に暮らしてきていたものだから、徳一はジャネットさんに対して、いつも、ある種の負い目を感じていたんじゃないかな。…それに、ほら、徳松もジャネットさんを実の娘みたいに信頼していたようだから、年齢はおなじでも、徳一は、何か事があってジャネットさんと相対するようなときには、しっかりものの実の姉に小言をいわれるのを恐れる弟みたいな(屈折した)心理状態になっていたかもしれないな。

 

   徳松が死んだとき、ジャネットさんに反対されて徳一が新聞社を第三者に売ることができなかったのは、二人の間柄がそんなふうだったからだろう、と僕は想像しているよ。

 

   一方、徳一の妻、マーガレットさんには、ジャネットさんは、そう、小姑みたいに見えていたような気がするな。徳一が急死して、新聞社をどうしようかという話になったとき、今村家を代表する形で意見を述べてフレッドさんに社長職を継がせたのが、今村家のだれかではなく、ジャネットさんだったというのは象徴的だと思うけど?

 

   フレッドさんがジャネットさんに対して〈自分にそんなことができると分かっていたら、初めから数学の教師にはなっていなかった〉みたいなことを言ってすねて見せた、というあたりにも、そのへんの心理的な関係が表れていると思わない?…まるで、実の叔母に向かって泣き言を言っているみたいじゃない。

 

   で、急に(途中の歳月は飛ばして)いまのこと。

 

   フレッド社長と(五歳年上の)グレイスさんの関係がちょっと、先代の二人、徳一とジャネットさんの関係に似ているんだよね。社長が英語セクションの編集作業だけに明け暮れていて、グレイスさんが日常的に新聞社の経営を見ている、という事実だけじゃなくって、二人の心理的な関わり合いの方もね。…『南加日報』という〔城〕を(〔行方不明〕戦術を母親のジャネットさんから踏襲してまで)守ろうとしているのは、ここでもやはり、今村家以外の人物、グレイスさんなんだから、自然にそうなってしまうと思うけどな、僕は。

 

         ※

 

   そのフレッドさんは、経済的な意味では、父親の徳一よりは運が悪いようだ。

 

   というのは、徳松には、徳一を含めて四人の子がいたのだけども、徳一以外の三人は娘で、みな嫁に出ていたし、徳松は遺言で、事業関係の遺産は全部、徳一一人に残していた。これに対し、徳一は遺言の中でフレッドさんを特別には扱わなかった。そのころまでに何軒ものアパート・ビルに姿を変えていた徳松の遺産は、(妻のマーガレットさんの取り分は別にして)徳一の五人の子が等分に譲り受けていたんだ(そうだ)。

 

   だから、新聞の運転資金が切れたからといって、自由に注ぎ込めるカネなど、フレッドさんにはあまり(つまり、最大限に見積もっても、徳一の五分の一しか)なかったし、いまもないはずなんだよね。

 

          ※

 

   フレッドさんが社長になった一九七九(昭和五十四)年からの二、三年間は、やはり『日報』を売り払いたいフレッドさんと、そうはさせないというジャネットさんの(〔編集顧問〕の辻本さんが言うには)〔冷たい戦争〕がつづいた。

 

   社員が給料として受け取った小切手がときどき不渡りになるようになったのはこのころのことだ。

 

   新聞の質の低下はだれの目にも明らかになっていた。

 

          ※

 

   そんな窮状を(一時的に、だったにしろ、とにかく)救ったのは、日本からふらりとやってきた児島さんだった。

 

   (日本語欄レイアウト係の)江波さんたちから聞いた話をまとめると…。

 

          ※

 

   児島さんが『日報』で働くようになったのは一九八二(昭和五十七)年の秋だった。

 

   どういうわけだったのか、たまたま全員が席を外していた事務室と日本語編集室とを(勝手に)通り抜けて工場にまで入り込んできた見ず知らずの男(つまり児島さん)に、折りたたんで手にしていた『日報』を振りかざされ、いきなり、〈おたくの日本語欄、ちゃんとした編集長が必要だね。どう、ボクにそれ、やらせてみない?〉と言いだされてひどく面食らってしまった江波さんが、そのことをいまでもよく覚えているんだ。

 

    「何てったって、横田君」。江波さんは途中で何度か首を横に振りながら、だいたいこんなふうに話してくれたよ。「突然、〈編集長をボクにやらせてみない?〉だったからね。驚いちゃったよ。ほら、ドラマの中の刑事なんかが、動かぬ証拠の品を突きつけながら〈観念したらどうだ〉って容疑者にいうじゃない。あれね。あんな感じだったよ。『日報』を目の前で振りかざされて…。もちろん、この場合、〔容疑者〕は僕だったわけだけどね。だって、こういっちゃ、持ち前のまじめさを十二分に発揮しながらあのころ編集長代行をやっていた辻本さんに悪いけど、日本の現状にもう少し詳しい、日本語をいまの言葉づかいでちゃんと書くことができる、信頼できる編集長が日本語セクションに必要だってこと、社外のだれかに指摘されるまでもなく、僕にはよく分かっていたからね。つまりさ、僕には、ほら、いわゆる〔身に覚え〕があったわけじゃない。…図星をつかれるっていうの、ああいうの?目の前を左右に行き来する『日報』を見ながら僕は〈これはまいりました、だんな〉って、そんなふうに感じちゃったよ。だから、〈無断でここまで侵入してくるなんて、とんでもない男だ〉とか、〈社長やジャネットさんじゃなく、単なるレイアウト係の、それ以外には見えないはずの僕にそんなことを話しかけてくるなんて、ずいぶん非常識なやつだ〉とかいうふうには、そのとき僕はぜんぜん思わなかったもんね」

 

   刑事と容疑者のたとえがそのときの状況、場面をよく再現しているかどうかは、僕にはいまひとつはっきりしなかったけれども、江波さんの話しはおもしろかった。…人を食ったやり方っていうのか、そういうの、いかにも児島さんがしそうなことだからね。

 

          ※

 

   〔図星をつかれ〕てその気になった江波さんが社内で熱心に動き回った結果、児島さんは次の週にはもう、日本語編集室に自分の机を持つ身になっていた。もっとも、〈いきなり、というわけにはいかないでしょう〉というジャネットさんのひと言で、編集長という肩書きはついていなかったそうだけどね。

 

   ところで、〔編集長をやらせろ〕というからには、児島さんは日本では新聞記者か何かだったんだろうって、だれでも考えるよね。でも、(そういうところがあの人のすごいところなんだけど)違うんだ。

 

   いや、それに近い仕事の経験はまったくなかった、というわけじゃないんだよ。…何だったと思う?

 

   児島さんは若いころ、(いまだに離婚に同意してくれない奥さんがいまも住んでいる)神奈川県のある小さな市の広報課で働いてきたときに、市制便りの編集員だったことがあるんだって。…でも、それだけ。

 

   でも、それは、ほら、ただの留学生でしかない僕を雇ったことからも推察できるように、『南加日報』にとっては、まあ、まずまずの経歴だったんだね。…しかも、ジャネットさんにとってはすごく重要だったことに、児島さんは提示された給料の額には(僕がそうだったように)少しも不満を示さなかったそうだから。

 

          ※

 

   ところが、というとちょっと変かな。…でも、とにかく、その児島さんが実は、(江波さんが回想していうには)〔大変な異才〕の持ち主だった。

 

   第一に、仕事が速かった。ときどき大きな間違いが見つかり、翌日に訂正記事を掲載したこともあったけれども、翻訳はすばやくすませたし、日本からやってきてまだ数か月しか経っていないというのに、政治・経済・社会に関するローカルの状況や事情もたちまちのうちに呑み込んだ。それに、(一五〇〇字ぐらいに収めることになっている)[海流]の原稿は、たいがい一時間もあれば書きあげた。

 

   第二に、その[海流]の内容がおもしろかった。何も畏れずに思い切ったことを書いた。…というより、読者の一部に眉をひそめられるようなことを、わざとみたいに書いた。自分はアメリカにきてからまだいくらも経っていないのに、(前にも触れたように)〔日本にいる日本人〕を批判するのが得意で、その切り口がまた鋭く、ユニークだった。アメリカに長く住んでいる日本人と日系人がふだん心ひそかに思っていることを(たいがいはかなり誇張して)〔声高に〕書いた。

 

          ※

 

   保存してある新聞をめくって僕自身が読んだものの中から、一つだけ例をあげると…。

 

   比較的に最近(一九九二年)の話だけど、十六歳の日本人留学生がハロウィ―ンの日に、間違って訪ねた家の住人に射殺されるという事件がルイジアナ州であったよね。あのとき、児島さんは、手っ取り早く言ってしまえば、〈結局は、アメリカという国を理解しないで暮らしていた留学生が悪い〉と決めつけ、そう主張しつづけたんだ。

 

   ふつうは、せめて、〈殺された○○君とその家族の皆さんには気の毒だが〉くらいのことはつけ加えるところだろうけど、児島さんは〈アメリカがそんなふうに怖いところだと教えずに安易に子供たちを送り出す親たちへの警鐘だ〉と言いきっていたよ。

 

   この事件のあと、アメリカの社会から銃をなくそうというキャンペーンが日本国内で起こったことについても、〈アメリカではまだ、国民全体が〔銃が野放しになっているのはいかん〕とは思っていない。そういうコンセンサスはできあがっていない。それどころか、一部の州では、州民の過半数が〔身を守るための持つのは州民の権利だ〕と固く信じている。だから、このキャンペーンは、日本人に向かって〔自動車の左側通行は、それに慣れない外国人にとってはきわめて危険だからいかん、改めよ〕というのと同様の見当違いの内政干渉で、余計なお世話というものなのだ〉と述べて、ずいぶん批判的だったよ。

 

   前に引き写した(野茂の名前が出てきた)[海流]のエッセイとおなじように、ここでも少し論理に飛躍があると思うし、庶民レベルでやっていることに対して〔内政干渉〕は大げさすぎるんじゃないかという気がするけど、児島さんのいいたいことは、よく分かるよね。…銃の規制と交通規則を並べて論じるなんて、突拍子もないことのようだけど、その分かえって、この比較には〔かりに悪法であろうと、法は法だ〕ということを改めて思い出させてくれるみたいな、みょうな説得力があるよね。少なくとも僕は、これは児島さんしか思いつかない類のユニークな比較だ、とずいぶん感心させられたな。

 

   で、この事件に関する児島さんの(一連の)論説は、日系人と、アメリカに長く住んでいる日本人たちのあいだで、すごく評判がよかったそうだ。…自分たちの本音を代弁してくれているように感じた読者が多かったんだね。

 

          ※

 

   僕自身のことで考えると…。

 

   かりに、僕がこのホテルの近所で(殺される、というのはたとえ話としても嫌だから)強盗に遭ったとして、それをこちらに長く住んでいる日本人たちがどう思うかって考えてみると、やっぱり、同情はしてもらえないだろうな、と思うよ。

 

   危険な地域と知って住んでいたのなら、覚悟の上、というわけだし、知らないで住んでいたのなら、そんな無知は本人の責任、という具合にね。

 

   僕のアメリカ暮らしもそろそろ一年になるから、そのへんの感じ方が分かるようになった(ような気がする)よ。

 

   ちょっと大げさにいえば、アメリカ人たちは、自分や自分の家族の安全を守らなきゃならないのはまず自分自身、という緊張感の中で毎日暮らしているわけだから、それを理解しない(善良な)他人がやすやすと悪行の犠牲になるのを見せられると、犠牲者に同情する前に、〈ああ、あれだけ口をすっぱくして言っていたのに〉みたいな心理状態になって、最後には腹が立ってくるみたいなんだよね。自分たちは常ひごろ、危険であることがふつうで安全は例外だと思って、警戒しながら暮らしているから、自ら安全を守ろうという意識の薄い人たちが異常(という言葉がふさわしくなければ、愚か)に見えてくるみたいなんだよね。

 

          ※

 

   児島さんは、どういうわけだか、そのへんの感覚を身につけるのがすごく早かったらしい。

 

   だから、児島さんの論説は、日本語が読める日系人と、アメリカに永住することをすでに決めている日本人の読者に受けた。

 

   〔論説の『日報』〕が復活したんだ。

 

   児島さんの〔異才〕ぶりはそこにとどまらなかった。物怖じだとか人見知りだとかいうことに無縁な人で、コミュニティーのどこにでも出かけ、だれとでも会ったし、どんなことでも、なんらかの形で記事にすることができた。…日本舞踊のスージー・ナカザキ師匠を特別扱いして気が咎めるふうでもないことからも、たぶん、分かるように、いわゆる〔ちょうちん記事〕も平気で書くことができた。

 

   よくいえば、児島さんは(あの人自身がはっきりとそう意識しているかどうかは別にして)、そんなふうに『日報』のコミュニティー化を進めたわけだ。

 

   発行部数が回復し始めた。

 

   日本から進出してきている、たいがいは大規模で資金力の豊富な企業は(むしろ、児島さんの論説を忌み嫌いでもするかのように)相変わらず広告を出し渋っていたけれども、長く地元に定着している商店や医者、税理士、保険代理業者などは、新たに広告を出し始めるか、それまで出していた広告のサイズを大きくしだした。

 

          ※

 

   テレビの日本語放送、特にNHKの大河ドラマを見ることを第一の趣味にしているらしい江波さんが、[吉宗]の〔享保の改革〕にちなんでなんだろけど、〔児島さんの一九八〇年代前半の改革〕と呼んでいる『日報』の回復期は、だけど、長くはつづかなかった。

 

   最大の原因は、急激に進んでいた環境の変化。児島さんがターゲットにした(いわば〔土着〕)コミュニティーが、経済発展の波に乗って日本から押し寄せてくる人たちによって新たに形成されていく(〔進出〕)コミュニティーの圧力を受けて、急速に(江波さんはこんな言葉は使わなかったけど)アイデンティティーを失い始め、地元指向の(見た目にも少し貧相な)新聞に必ずしも執着しなくなっていったんだ。

 

   児島さんに歯止めをかける人物が社内にいなかったのもよくなかった(と江波さんは小声で僕に言った)。[海流]にはしばしばおもしろいことを書くし、何についてもはっきり考えを述べるから、読者には分かりやすくていいのだけれど、(ほら、この春、[ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]の〔内紛〕報道では、あの人、ひたすら一方の側について記事を書いたって、前にしゃべったように)その見方はときどき、あまりに偏っていた。だから、そんな児島さんをコミュニティーの一部の人たちがしだいに警戒するようになっていった。

 

   児島さんを支持する読者もまだ(ファースト・ストリートのバーに集まる人たちのように)いるにはいたし、支持の仕方にも熱がこもっているようだったけれども、その人たちは(また江波さんの表現を借りていうと)〔明治維新を迎えてもまだ攘夷論にしがみついている元下級武士みたいに〕だんだん孤立していったんだそうだ。

 

          ※

 

   〔児島さんの一九八〇年代前半の改革〕の盛衰をジャネットさんは黙って見ていた。

 

   そのあいだには、版下づくりまでの工程を和文タイプと写植ですませることにし、活字を捨て、自社内での印刷をやめるという、社史に残る類の大きな出来事があったけれども、イニシアティブを取ったのは(児島編集長によると)〔経営の軽量化〕を進めたかったフレッド社長で、ジャネットさんはやはり何も口出ししなかったそうだ。

 

   一九八六年になると、給料支払い日にときどき、ジャネットさんが〔行方不明〕になるようになった。…だから、金曜日にタイピストの井上さんが立腹していたグレイスさんの〔雲隠れ戦術〕には、つまりは、九年間の歴史があるわけだね。

 

   一九八七年春、七十歳になったのを機に、ジャネットさんが引退した。『南加日報』社で働きだしたのは二十歳のとき、一九三七年(昭和十二)年だったから、ちょうど五十年間。きりのいい年に思えたんだろうね。いや、ジャネットさんの体は、八年後のいまでもしゃきっとしているようだから、まだ働きつづけることもできたんだろうけど、一九八七年といえば(僕が高校生になった年)、日本経済の押せ押せムードが盛り上がっていたころで、南カリフォルニアでは、日本からの企業と人の大量進出という波を受け、日系・日本人コミュニティーが急激に変貌していたというから、そんな変化にはもう自分はついていけない、というふうにも、あの人、感じたのかもしれない。

 

          ※

 

   ジャネットさんの引退からまだいくらも経たないころ、まるでその引退を待っていたかのようなタイミングで、一度、フレッド社長が『日報』を売り払おうと(画策)したことがあるそうだ。…もっとも、実のところは、(前にしゃべったことがあるように、ほら、空想力が格別に豊からしい)児島さんが江波さんと(植字工上がりのタイピスト)田淵さんを仲間にしてそんなふうに疑っているだけで、だれも証拠をつかんでいるわけではないみたいだけどね。

 

   三人がそう疑っているのは、(〔すこぶる〕つきの倹約家である)フレッド社長が(和文タイプライターと写植機を日本で買いつける必要があった一九八四年を別にしていえば)なぜか八七年だけは、日本で毎年開かれる海外日系人大会に参加しているからなんだって。…二、三年経ってから振り返ってみると、〈ああ、そうか。あの年は、フレッド社長、実は、景気のいい日本に行って探せば『日報』の買い手が見つかるかもしれない、というんで、あるいは、海外日系人のことに関心がある人たちの中には、海外日本語新聞社の経営に興味を持つ人間がいるかもしれない、と期待して、日本へ行ったのに違いない〉としか考えられなかった、と三人は言うんだよね。

 

   児島さんは(いかにもあの人らしく)実際に、『毎日新聞』本社の社会部の記者である知人を通じて、フレッド社長が日本でどう動いたかを探ろうとしたらしいよ。でも、それらしいことは何もつかめなかったんだって。…こういっちゃいけないかな。でも、海外の(経営難におちいっている)日本語新聞社がたとえほんとうに売りに出ていたところで、そんな情報が『毎日新聞』の社会部の記者の耳に入るとは、僕には思えないんだけどな。児島さんは、やはり、むだな努力をしたんだと思うよ。

 

   まあ、編集長や江波さんたちが、新聞事業に対するフレッド社長の気の入れ方をそんなふうに見ているんだなってことは、この話からよく分かるけどね。

 

          ※

 

   で、『日報』を売り払おうという動きは初めからなかったのか、あるいは、売ろうとしたのに売れなかったのか、とにかく、フレッドさんはいまでも社主・社長でいつづけている。

 

          ※

 

   一九八七年、ジャネットさんの仕事を一人娘のグレイスさんが継いだ。

 

   創業者、徳松のあとを徳一に、徳一のあとをフレッドさんに(けっこう無理に)継がせたジャネットさんとしては、自分にも子があるからには、(苦労するばかりで、どうといった成果の上がらない)自分の仕事は、やはり、自分の子に継がせるしかなかったんだろうね。

 

   なんとなく〈ジャネットさんは八十歳を過ぎるまで働きつづけ、自分の事務机の上に体をもたせかけるような形で急に倒れ、そのまま往生してしまうんじゃないかな〉みたいに想像していたという辻本さんが〈そういえば〉と言ってから僕に話してくれたところでは…。近く引退するつもりだ、という意思をジャネットさんがフレッド社長に告げる数か月前から、グレイスさんが新聞社に顔を出す回数が増えていたそうだ。辻本さんは〈グレイスが事務室で何をしているか、気にもとめなかったけど、いま思えば、二人はああして、すこしずつ引き継ぎをしていたんだね〉と言っていたよ。

 

   グレイスさんは一九四四(昭和十九)年生まれだから、そのとき四十三歳だった。やはり日系の三世である旦那さんは弁護士で、ダウンタウンにある中規模の法律事務所で働いていたし、グレイスさん自身もある日系の食品貿易会社で経理部門のマネジャーだったから、グレイスさんの『日報』入りは、この夫婦にとっては明らかに(児島さんがいうには)〔損なディール〕だったんだけど、そのことで不服そうな顔をグレイスさんが(ほかの社員たちに)見せたことはないそうだ。

 

          ※

 

   とはいえ、新しいこの仕事へのグレイスさんの献身には、やはり、限界があった。母親ジャネットさんがほとんど全身全霊を打ち込んでいるように見えたのに対し、グレイスさんは、必要なことだけを(良くいえば)できるだけ能率的にやろうという姿勢が目立って、たとえば、給料支払い日に〔行方不明〕になるにしても、(江波さんの言葉でいえば)〔ジャネットさんがなんとなくそわそわし始め、ほとんど忍び足で逃げ出したみたいな愛嬌〕がなかった。…芸は母親譲りでも、その芸には母親とおなじ情はなかった、とでもいえばいいのかな、これ?

 

   仕方がないよね。

 

   だって、日本語は、いくらかは話せても、読み書きはほとんどできない、つまり、それぐらい日本の文化から遠ざかって暮らしてきた三世のグレイスさんが、(それも将来性などほとんどなさそうな)日本語新聞に(そこで五十年間も働きつづけてきた母親とおなじ)愛着を持てるわけはないじゃない。…宿命だとでも思ってのことだろうけど、ジャネットさんの仕事を引き継いだだけでも偉い、と僕は思うな。

 

          ※

 

   眠くなってきたから、話を急に閉じるけど…。

 

   金曜日に、和文タイピストの井上さんが立腹していた背景には、まあ、ざっとそういう歴史があったわけだ。

 

   『南加日報』の経営難には、だから、大変な年季が入っているんだよね。

 

   

 

      ---------------------------------



(ストーリー中の人物、企業、団体などはすべて創作されたものです)

 

*参考著書*

 

アメリカの日本語新聞」田村紀雄(新潮選書)

 

「藤井整の言論活動 - 『加州毎日』創刊から日米開戦まで」関宏人(慶応大学卒業論文

 

      <無断転載・コピーはお断りします>

 

          ***

 

*** 8月21日 月曜日 ***



    グレイスさんが週末にカネをどこでどう工面したかは見当もつかないけど、社員たちはみな、きょう、小切手を受け取ることができた。

 

    だれかの分が不渡りになる惧れはまだ残っているにしても、まずは、やれやれという結末だ。

 

          ※

 

   それにしても、会社でのちょっとしたエピソードの背後にあれだけの、つまり、ほら、時の流れとともに移り変わってきた日米関係や、アメリカに渡ってきた日本人とその子孫たちの暮らしのドラマが、どのページからも見えてくるような、そんな歴史があるんだから、すごいよね。

 

   いや、もちろん、『毎日』や『朝日』、『読売』にもそれぞれ会社の歴史はあるわけだけど、そういうのが、皮張りの厚い表紙に金文字でタイトルが書いてある分厚い本の中にいかめしく納まっているって感じなのに対して、『日報』の歴史は剥き出しで、温かくて、そう、そこで人が生きてるって、そんな感じがしない?

 

   僕は何か新しいことを知るたびに、〈ああ、僕はいま歴史の中にいるんだ〉〈日本人移民の生きた歴史の中で仕事をしているんだ〉と思って、ずいぶん感動してしまうんだよ。…自分はたまたま南カリフォルニアにやってきている留学生でしかないんだ、ということを忘れてしまってね。

 

          ※

 

   と、そこまでしゃべったところで、ふと思ったんだけど、僕がいま働いているのがかりに(『日報』でなくて)『日米新報』だったとしても、僕はおなじように感じていただろうか?おなじ感動を味わっていただろうか?

 

   『新報』については表面的なことしか知らないわけだから、はっきりしたことは言えないよ。でも、どうも違うんじゃないかって気がするな。

 

   つまり、(日本からの移民が集中した北・中・南米、それにハワイがほとんどを占めているにしても、とにかく)世界に十数紙はあるらしい海外日本語新聞社の中で〔経営の優等生〕といわれている『新報』では、僕はそんなふうには感じていなかったんじゃないかな。

 

   というのは…。どうやら僕は、〔判官びいき〕というと、なんだか、江波さんが好んで使いそうな言葉で、古くさい感じがするし、ちょっと違ってもいるようだから、言い直すことにすると、そう、〔マイナーびいき〕、野球でいうなら〔アンチ・ジャイアンツ〕タイプみたいなんだ。…二代つづけて経営者に人を得なかったからそうなったというだけで、同情することなんか、ほんとうは、ないはずなんだけど、『日報』がいま、変化する時代にうまく対応できずに四苦八苦しているところが、みょうに気の毒に思えてしまうし、そんな会社でいま自分が働いているってことに、なぜか、すごく満足しているんだよね。

 

   幼いころからずっと、ちょっとできの悪い末っ子だった僕には、そんな環境がかえって居心地よく感じられるのかな?

 

           ※

 

   もちろん、給料の小切手が不渡りになるのは嫌だよ。だけど、おかしなことに、〈この小切手はちゃんと現金になってくれるんだろうか〉なんて思いながらそれを受け取るのは、スリルがあって、悪くない気分なんだよ。…タイピストの井上さんに〈あなたは結局、おカネに不自由しない家のお坊ちゃんで苦労したことがないから、気楽にそんなことがいえるのよ〉なんて叱られそうだから、声に出しては、そんなこと、絶対に言わないけど。

 

   ほら、『日報』って、荒波の上で沈みかけている(船長がいないも同然の)船を、操縦法も行く先も分からないまま、船員たちがみなでなんとか走らせている、みたいな危ういところがあるじゃない。いや、企業としては、そんなことじゃだめだと思うよ。でも、ここでは、半年間しか働かないつもりだった僕みたいな者でさえ、〈ああ、自分もいくらかは助けになっているんだ〉って実感することができるし、それに、そんな危うさの中で働いている人たちって、みんな、なかなか魅力的なんだよね。…『日報』には(今村徳松が築いた、コミュニティーに支持された)あれだけの輝かしい歴史があるのに、こんなことになってしまって、なんて感傷的な気分で見るから、余計にそんなふうに見える、という面もおおいにあるんだろうけど。

 

   -----



(ストーリー中の人物、企業、団体などはすべて創作されたものです)

 

*参考著書*

 

アメリカの日本語新聞」田村紀雄(新潮選書)

 

「藤井整の言論活動 - 『加州毎日』創刊から日米開戦まで」関宏人(慶応大学卒業論文

 

  <無断転載・コピーはお断りします>

 

横田等のロサンジェルス・ダイアリー (1995年)      =3~4=  

*** 8月17日 木曜日 ***



   昨夜はきりの悪いところで眠り込んでしまって…。(そこからはほんの四、五メーター先にある隣の大きな倉庫のレンガ壁しか見えない)窓のわきに備えてある六〇センチメーター四方ぐらいの小さなテーブルの上に投げ出した両腕に顔を埋めるようなかっこうで。

 

   きょうは真紀と話す日だから、あまり時間が取れないけど…。

 

   とにかく、話をつづけるよ。

 

          ※

 

   で、僕はきのう、編集長の態度がなんだかおもしろくなかった。

 

   だから、「実際、あちこちで読者が、野茂に関する君のストーリーはいい、興味深い、情報が多様で、統計も添えてあるから、話題のネタとしても使うことができる、などと評するのを耳にしてるよ」と重ねてほめられても、ほとんど嬉しくなかったよ。…場合が場合だったから、あの人は口からでまかせを言っているんじゃないかって疑う気持ちもあったしね。

 

   僕はこたえた。「実は、いま書いているのは野茂のことじゃないんです」

 

   たちまち編集長の表情が曇った。…バーが遠くなったように感じていたのかもしれない。

 

   「正直にいいますと」と僕はつづけた。「最初は、また野茂のことを書こうとしたんですけど、新しいストーリーが[海流]のスペースを埋めるほど見つからなくて…。だから、マイク・ピアッツアのことで何かを書くことに方針を変えて…」

 

   「それ、たしか…」。編集長は自信がなさそうだった。「野茂のキャッチャーね」

 

   「〔野茂の〕ってわけじゃないんですけど、ええ、[ドジャーズ]のキャッチャーです」

 

   「オーケー」。かすかにであれ自分が知っている野球選手の名前が野茂と関連して出てきたことに安心したのだろう、編集長の表情がさっと明るくなったよ。「それで行ってもらおう。…で、ピアッツアの何を書いてるの?」

 

   「そこなんですけど…」。今度は僕がいくじのない声を出す番だった。「ピアッツアは優秀なキャッチャー、というか、ホームランも打てる、いい打率もあげられる、大リーグ史上にまれな、何十年間に一人しか現れないだろうという、すごいキャッチャーで、その野球にかける意気込みがまた立派なんです。シーズン中はもちろん、オフ・シーズンの自己鍛錬も厳しくて、アメリカ人ならたいがい家族団欒を楽しむクリスマスにも一人で何時間もバットを振って過ごすぐらいなんだそうです。しかも、というとちょっと変ですが、このピアッツアは、実は、億万長者の息子なんだそうです。父親は、その価値が一億五千万ドルとも二億ドルともいわれる中古車販売チェーンだけでなく、ほかにも不動産会社とコンピューター・サービス会社をそれぞれ一つずつ所有しているということです」

 

   ピアッツアに、なんというか、そう、見当違いの嫉妬心でも抱いたのか、編集長が突然、<それがどうした〉といわんばかりの難しい顔つきになったものだから、僕は急いでつづけた。「僕が言いたいのは、編集長、ですから、ピアッツアは野球選手になる道を選ばなくてもよかった、ということです。そんなに厳しい鍛錬をしないで楽に生きていける立場にあったんです。どこかで気楽な仕事をしながら時を過ごして、そのうちに父親のビジネスを継ぐ、という生き方もあったんです。…でしょう?〔億万長者の息子で、大リーグを代表するすごいキャッチャー〕。おもしろいでしょう?何かと言っては、〔ハングリー〕でないといいスポーツ選手にはなれない、と主張するどこかのだれかにぜひ聞かせてやりたい、そんな話だと思いません?」

 

   「いや、まったくそのとおりだ」。僕にはそんなつもりはなかったんだけど、〔どこかのだれか〕というのが、ほら、現実に〔日本に住んでいる〕特定のだれかを指した皮肉なんだろう、とでも独り合点したものか、編集長はまた、あの〔お人好しのおじさん顔〕になった。…僕のことを、日本を批判しつづける[海流]の伝統継承者、とでも思ってか。

 

   「でも」。僕は言った。「編集長、話がそれで終わってしまったら、[海流]はいつもの半分ぐらいの長さになってしまいます。それに、この話は、[ロサンジェルス・タイムズ]なんかを読む人なら、たいがいはもう知っているはずなんです。いくら、『日報』の日本語ページは、そもそも、英語が読めない人たちのためにあるんだ、だとか、[タイムズ]などに英語で書かれていることを、日系・日本人の読者に日本語で読んでもらおうというのが『日報』の本来の役割なんだ、だとか言っても、それだけじゃ、つまんないじゃないですか」

 

   「だから?」。編集長はじれったそうだった。

 

   「だから、何かがつけ足せればいいなと思って、材料を探しているんですけど、それが、見つからないんですよね。過去の偉大なキャッチャー、たとえば、ヨギ・ベラジョニー・ベンチの終世打率やホームラン数なんかが分かれば、ピアッツアの成績と比べることができるから、少しはましになると考えたんですが、スペースを埋めるにはそれでもまだ足りません。…それに、ただ、〔ハングリー〕でなくたっていいスポーツ選手になれる、という結論じゃ、角度を変えたもう一つの精神論になってしまうだけで、おもしろくもなんともないし、まして、ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう、だけで終わってしまっては、なんだかなさけないでしょう?」

 

          ※

 

   僕は一瞬、〈ちょっとまずいことを言ってしまったかな〉と思ったよ。だって、編集長は、どちらかといえば、その〔ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう〕スタイルで、つまりは、情に訴えて、ものを書く人だからね。ほら、あの〔恥ずかしい。恥ずかしい〕がそうだったように。…純粋に仕事に関することに話が集中し始めているときだったから、あてこすりかなんかを言っているようには受け取られたくなかったんだよね、僕は。

 

   でも、心配することはなかった。編集長はむしろ、機嫌がますますよくなっていた。というか、そこまで僕の考えがまとまっていれば、書きあげるまでにはもうそれほど時間はかからないだろう、と読んでいるようだった。だからすぐに退社できる、と浮き足立っているようにさえ見えたよ。

 

   たしかにね。…考えてみれば、編集長は自分が書いたものに(とてつもないほど)自信を持っていて、自分の仕事についてだれかが〔あてこすり〕を言うかもしれない、などとは絶対に考えない人なんだよね。それに、実際、編集長がそんなふうに自信を持っているからこそ、(内容については問題があることもあるかもしれないけど)記事や[海流]がいきいきしたものになるんだ。…あの人、そのことが自分でもよく分かっているんだろうな。〔自信〕が自分の財産だってこと。

 

          ※

 

   僕はつづけた。「だからですね、〔ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう〕と書かずにピアッツアのすごさを読者に読み取ってもらえるように書けないものか、と考えているわけですが、そこで行き詰まってしまって…」

 

   昨夜、編集長の(野茂に触れた)エッセイを批評したときには元気がよかった僕も、自分が何かを書くとなると、話は別。…ほら、他人が書いたものをいくらか分析することができるからといっても、自ら良いものが書けるとは限らないじゃない。

 

   というか、僕は、優秀な姉と兄を見ながら育ったものだから、(ひどくひがんでいたというわけじゃないんだけど)自然に(家族の中で精神的に楽に生きていくための知恵が働いて、つまりは、自己弁解のための一手段として)そういう人たちの欠点とかアラとかを見つけ出すことが、言ってみれば、変に得意になってしまっただけで、そもそも、創造性などというものはあまりない人間なんだよね。

 

   編集長は、(たぶん、僕に早く書き終えてもらおうというんで)ほめ言葉をいろいろ並べてくれたけど、僕のエッセイは、統計を引き写したり、他人にユニークな意見を(その人の名前を出して)引用し、最後にちょっとだけ自分の意見や感想を述べる、というのが基本の形になっていて、オリジナリティーは乏しいんだ。…この新聞社で働きだして間もないころ、編集長にいきなり、〈あさっての[海流]は君の担当だから、何か書いておくように、横田君〉といわれたとき、たちまち(文字どおり)青ざめてしまったぐらい、もの書きとは無縁に暮らしてきていたんだもんね。いや、翻訳の方は、まあ、努力すればなんとかなるんじゃないか、と思っていたわけだけども…。

 

          ※

 

   「そんなところで行き詰まっていたのか、君は」。編集長は少し失望したような口調で言った。でも、その目は、むしろ、輝いているように見えたよ。「横田君、ところで、日本にもそんな選手はいるの?」

 

   分かるよね。編集長はそこで僕に、例の〔筆が進まないときは太平洋の向こう側に視線を向けよ〕という金言を思い出させようとしたわけだ。

 

   なるほど、と思いながら僕はこたえた。「ピアッツアみたいな、大金持ちの息子で野球の大プレイヤーですか?」

 

   編集長は大きくうなずいた。

 

   「僕が知っている限りでは、あそこまでのプレイヤーはいませんし、過去にもいなかったんじゃないでしょうか」

 

   「そこだよ。そんな選手は日本にいない、となると、君のエッセイはもう書き終わったのも同然だ。そういう対比は、それ自体が読者に何かを伝えるものだからな。読者は、日本とアメリカの大きな違いを示され、あとは自分たちでさまざまに、そりゃあすごいことだ、と感じてしまう。君が〔こいつはすごい〕などと書くことはないんだ」。そういうと、編集長はすっくと立ち上がった。「横田君、ボクら急いだ方がいい。とにかく、それでまとめるといいな」

 

   僕はここでも〔ボクら〕という言い方があまりおもしろくなかったし、読者がそんなふうに〔感じてしまう〕 かどうかについても判断がつかなかったけど、(早く書きあげてしまいたい、という潜在的な思いに引きずられたのか)頬に笑みを浮かべ、〈そうか、たしかに、そういう締めくくり方もなるな〉と考え始めていたよ。

 

   僕の表情のそんな変化を読み取ったんだろう、編集長は「じゃあ、あとはよろしく」というと、出口に向かってさっと歩きだした。

 

   僕には、編集長が立ち去る前にはっきりさせておきたいことがもう一つあった。僕は編集長の背に向かって言った。「あすの[海流]はどうするんですか?書いていただけるんでしょうね」

 

   編集長はゆっくりふり返った。あの〔お人好しのおじさん顔〕をつくっていたことはいうまでもない。「事は、横田君、一度に一つずつ解決していけば、自ずとなんとかなるもんだよ」

 

          ※

 

   結局、僕は自分一人だけになった日本語編集室で、〈そうなんだよな。あの人がコップ酒をしだしたのに気づいたときすぐに、逃げ出しておけば良かったんだよな。ホテルの、あの息詰まるような小さい部屋ではあまり仕事はしたくないな、だとか、いや、たしかに小さい部屋だけど、いまは僕が持っているただ一個所のプライベイトな空間なんだから、そこでは会社の仕事はなるべくしたくないな、だとかぐずぐず考えていずに、さっとここを出ておくべきだったんだよな〉などと頭の片隅で思いながら、ワープロのキーを打ちつづけた。

 

   エッセイになんとか結末をつけ、原稿を(早い夕食から戻ってきていた)辻本さんに校正してもらったあと(タイピストの)田淵さんに渡したときには、時間はもう六時半近くになっていた。(日本語ページレイアウト係の)江波さんが版下を貼りあげ、貼り間違いがないことを(光子さんが外で取材しているから)辻本さんが確認し終えたのは、それからさらに一時間ほどあとだった。…江波さんによると、[海流]などのいわゆる〔囲み記事〕の大きさが決まらないと、ページ全体のレイアウトができないそうだから、きのうみたいな仕事の流れは、時間の使い方という点から見れば、最低なんだよね。編集長も当然、そのことは知っているんだけど…。

 

   できあがった版下を持って(いつもよりうんと遅く)印刷所に向かう辻本さんを僕は、〈遅れに何の責任もない辻本さんがウォンさんに嫌味をいわれたりしなきゃいいが〉と思いながら見送ったよ。

 

          ※

 

   で、そのエッセイの結末はどんなふうにしたのかって?

 

   〔ピアッツアみたいなスポーツプレイヤーは日本にはいない〕だけでは物足りないように感じたから、〔そういえば〕とつづけて、フットボールの[サンフランシスコ・フォーティーナイナーズ]のスティーヴ・ヤングはNFLを代表するクォーターバックでありながら、オフ・シーズンには大学の法学部で勉強をしつづけ、この夏そこを修了したから、近い将来に弁護士の資格を取るはずだし、おなじチームのオフェンス・ラインマンであるバート・オーツはとっくの昔から弁護士としてもちゃんと仕事をしているスター・プレイヤーだ、ということを読者に告げ、最後は〔アメリカのスポーツプレイヤーの仕事に対する考え方や取り組み方にはどこかゆとりがあるようだ。その道ひと筋、ということに多大の価値を見ることが多い日本人とのこの違いはどこからきているのだろう〕と締めくくってみたんだけど…。あれでよかったのかどうか。

 

          ※

 

   けさ出社してきた編集長は(やはり、スージーさんの昨夜のもてなしがよかったのか)すこぶる上機嫌で、一番に僕のエッセイを読み終えると、満面に笑みを浮かべて、「いやいや、よく書けているじゃない」とほめてくれたよ。でも、僕の胸の中には、ほら、〈この人、きょうの[海流]も僕に書かせようという魂胆があって、僕をほめているんじゃないか〉という警戒心があったから、すなおには喜べなかった。

 

          ※

 

   いや、ほんとうのことをいうと、編集長にきょうまた逃げられた場合に備えて、僕はきのう、最初のやつを書きあげたあと、さらに居残り、へとへとになりながらも、二つ目もなんとか書き終えていたんだけどね。…こちらの新聞から記事を二つ選び出し、その書きだしの部分を翻訳し、別に手許にあった『朝日新聞』のある記事の書きだし部分と比べて、(ほら、きのうしゃべったように)アメリカの新聞は必ずしも〔いつ、どこで、だれが、何を、どうした〕という型にはまった書き方はしないと述べて、〈こういう違いがあるのは、こちらでは、記者の書き方の個性や独創性を尊重しようという考えが日本よりはうんと強いからなのだろう〉と締めくくった、〔太平洋の向こう側に視線をむけた〕(ほとんど引用だけで文章ができあがった、日もちのする)やつをね。

 

   編集長の〔事は、横田君、一度に一つずつ解決していけば、自ずとなんとかなるもんだよ〕という言葉はそのまま認めたくはなかったけども、そういう(安直な)手でいこうというアイディアが浮かぶまでには(不思議なことに)たいした時間はかからなかったんだよね。

 

   窮すれば通ず、だとかいうのは、実際にあるんだね。

 

          ※

 

   だけど、問題のきょうの[海流]は編集長がちゃんと書いたんだよ。きのう僕に無理を言って悪かったと、いくらかは反省してくれたんだろうか。…午前十一時ごろからほんの四十分間ほどで書きあげたものだったし、頭の方の準備も十分とはいえなかったみたいで、出来具合は、あの人のものとしてはあまりいいものじゃなかったと思うけど、けっこうおもしろいものだったよ。

 

   何を書いたのかって?

 

   タイトルは《失って知る…》。内容は、短くまとめてしまうと、〈南カリフォルニアに進出してきている日本の新興宗教団体をいくつか、数年前に取材したことがある。話を聞かせてもらおうと、ある団体のある若い女性信者とノースハリウッドのあるコーヒーショップで会ったのだが、コーヒーをすすっていたとき、以前からゆるんでいた前のさし歯が一本、ちょっとした弾みでぽろりと外れ、口の下五インチほどのところに構えていたカップの中にぽちゃんと音を立てて落ちてしまった。それを見てていたその女性信者の思いやりを欠いた、あざけるような、冷ややかな笑い方。この十数年間を振り返ってみても、あんなになさけない、不快な思いは、ほかにした覚えがない。すっかり嫌気がさし、新興宗教団体の取材は結局、全部中止してしまった。…それにしても、年は取りたくないものだ〉というもの。

 

   肩肘を張らない文章も書くんだよ、あの人。

 

          ※

 

   ところで、その〔この十数年間〕には、(法的な離婚に同意してくれない奥さんとの関係のもつれなんかも含まれているはずだけど、児島さんは、そちらの方ではあまり〔なさけない、不快な思い〕はしたことがないのかな。

 

   働いているのが『日報』じゃなくてもっと給料のいいところ(はっきり言ってしまえば、ほら、『日米新報』)だったら、歯医者にかかるカネもあっただろうから、あの人も、前のさし歯をゆるんだままにはしておかなかっただろうし、その女性信者にそんなふうに笑われることもなかっただろうにね。…気の毒に、というか、かわいそうに、というか。

 

   待てよ。そのコーヒーショップでそこまで嫌な思いをしたのは、もしかしたら、編集長、自分のいまの『日報』での境遇に、実は…。

 

   ちょっと唐突に響いたあの結び〔それにしても、年は取りたくないものだ〕というのは、文章を書く上でのある種の飾りで…。

 

   そうだとすると、なんだかつらい話だな、これ。

 

          ***

 

*** 8月18日 金曜日 ***



   経理担当者のグレイス・ヒラオさんがまた姿をくらませてしまった。

 

   グレイスさんが金曜日の午後に〔行方不明〕になるというか、〔雲隠れ〕するというか、とにかく、いなくなってしまうのは、二、三か月に一度か二度は必ず起こる(『南加日報』の社員たちにとっては)めずらしくもない事件なんだけど、〔あいだに二週間置いただけで〕というのは、これまでにはなかったことだそうだ。

 

   〔そうだ〕というのは…。コーヒーをつごうとたまたま〔工場〕に足を運んだだけの(働き始めてからまだ半年も経っていない)僕をつかまえて、(児島編集長がひどく嫌っている〔日本の報道で使われる安直な決まり文句〕をいくつか並べていえば)〔怒りをあらわに〕というか〔憤懣やり方ない表情で〕というか、〔唇を震わせながら〕というか、とにかく、すごく腹を立てて、「わたし、きょうは逃げちゃだめですよ、お給料、ちゃんと出してくださいよって、グレイスにけさ、三度も、三度もよ、頼んだのに…」とこぼした(もう一人のタイピスト)井上さんがついでにそう説明してくれた、ということだ。

 

   ああ、そうなんだ。…だから、グレイスさんは、(二週間ごとにやってくる)給料支払い日になると、(今回はつづけてだったわけだけど)ときどき、どこかに姿を消してしまうことがあるんだよね。

 

   もちろん、そうしなきゃならない理由がグレイスさんにはあるんだ。(何人かにならともかく)社員全員に給料を払うだけのカネが会社の銀行口座に入っていない、という実に分かりやすい理由がね。

 

          ※

 

   (日本語ページのレイアウト係の)江波さんがずっと前に、苦笑混じりで話してくれたところによると、以前は、口座が空っぽでも(あるいは、そうなってしまう惧れがあっても)とりあえずは社員に小切手を渡しておいて、『日報』の銀行にその小切手が戻ってくるまでになんとか金策する、というやり方だったそうだけど、不渡りになることがあまりにも多くなったもので、(長年取り引きをづけてきた日系の)その銀行が(たぶん、警告が主目的で)、自分のところではもうつきあいきれない、口座を閉鎖してくれ、といいだし、この手ばかり使うわけにはいかなくなり、それからは(カネ集めのための時間稼ぎをしようというので)経理担当者がときどき〔行方不明〕になるようになったんだって。

 

   社員たちに渡した小切手だけを見てもそれほど頻繁に不渡りになっているというのに、さらには、印刷所や事務用品店、電話会社など、社外へ振り出した小切手も少なからず不渡りになっているかもしれないのに、それでもまだ会社が倒産に追い込まれていないことについての江波さんの説明は、〈『南加日報』は〔曲がりなりにも〕数十年の歴史を持つ、一時は日系・日本人コミュニティーに熱く支持された新聞社だからね。できれば倒産・廃業には追い込みたくない、という思いが銀行の方にあったんじゃんじゃないかな〉というものだったよ。

 

          ※

 

   で、井上さんは、グレイスさんが給料日を二度つづけてすっぽかしたことにすごい(ここでも編集長の嫌いな常套句を使うと)〔危機感を抱いて〕いた。

 

   そうだろうな、と僕は思ったよ。

 

   というのは…。井上さんは三十歳を少し過ぎたぐらいの(まだ子供のいない)既婚女性で、もともとは、旦那さんの収入だけに頼って楽に暮らしていける人だったんだけど、いまは『日報』からもらう(たぶん、週二〇〇ドルにもなっていない)給料がばかにできない、というより、けっこう大事な、そんな暮らし向きらしいんだよね。

 

   一九八四年に『日報』が自社活版印刷をやめた際に、イマムラ社長に請われて、東京の小さな印刷会社から移ってきたという(日本語写植係の)相野さんから聞いた話によると…。

 

   井上さんが、知人にすすめられ、(ロサンジェルスからおよそ一〇マイル、一六キロメーターほど南に位置する)トーレンス市にある、ある日系不動産投資顧問会社でセールスマンとして働いていた人と(日本で見合いをしたあと)結婚したのは、いまから八年前の、一九八七年のことだった。当時は、日本がいわゆる〔バブル経済〕の繁栄に浮かれ始めていたころで、南カリフォルニアに投資の機会を求める日本人は引きもきらないという状況だったから、その会社もずいぶん儲かっていたし、旦那さんの収入もなかなかのものだったんだって。

 

   井上さんが『日報』で働くようになったのは、翌年、一九八八年。景気のよかったその不動産投資顧問会社が『日報』の正月特別号に(つきあい)広告を出した際に児島編集長とその旦那さんが知り合ったのがきっかけだったそうだ。…『日報』ではちょうど、八四年(の和文タイプ導入時)から働いていたタイピストの一人が出産するのを機に仕事をやめたがっていて、編集長としては、なんとしても新しいタイピストを見つけなければならないときだったので、(昼間は手が空いているものの、別に外で働く気もなかった)井上さんを編集長自身がじかに説得して、手伝ってもらうことにしたんだ。

 

   ところが、九〇年代になると、様子が変わった。南カリフォルニアの(特に、日本からの投資を当てにした)不動産ビジネスは、数年前のブームが嘘だったんじゃないかと思えるほどのひどい不況、というより、壊滅な状況に落ち込んでしまった。

 

   旦那さんは仕方なく、(やはり日系の、日本人客が多い、おなじくトーレンス市内にある)ある自動車販売店のセールスマンへと転身したんだけど、〔バブル経済〕のあいだにこちらに渡ってきていた日本人がぞくぞくと日本へ引き揚げるという現象にぶつかってしまったのに加え、(相野さんがいうには)〔おなじセールスでも、うんと細かいかけひきが求められる自動車は性に合わなかったものか〕その収入は、不動産投資顧問会社で働いていたときに比べると、激減してしまったそうだ。

 

   だから、グレイスさんが初めて二度つづけて給料日に〔行方不明〕になったことを知って、井上さんが、たとえば、〈ああ、この会社の経営状態はそこまで悪くなったのか〉〈じゃあ、もうすぐ倒産してしまうのかしら〉〈いまどき和文タイピストをほしがる会社はほかにないだろうし、『日報』がこのままなくなってしまったら、わたし、どうしよう〉〈いや、そんなことの前に、この二週間分のお給料、ちゃんともらえるのかしら〉〈人を働かせたら、お給料を払うの、当たり前なのに、前もって金策しておかないなんて、グレイスはわたしたちをなめているんじゃないかしら〉などとあれこれ心配したり怒ったりしたとしても、まあ、無理はなかったんだよね。

 

          ※

 

   オーナーのフレッド・イマムラ社長じゃなくて、経理担当者のグレイス・ヒラオさんが行方をくらませるのはなぜかって?

 

   社長はそのあいだ、何をしているのかって?

 

   あとの方の問いに先に答えると、社長は通常どおりにせっせと、英語セクションの記事書きと編集作業にいそしんでいるんだ。

 

   なぜグレイスさんが姿を隠すのかってことでは、『日報』の歴史を少し説明しておく必要があるだろうな。

 

   というのも…。『日報』の日々の資金繰りを、社長ではなく、経理担当者が見るのは、実は、フレッド社長の代になって始まったことではないんだ。背後の事情はそれぞれ異なっているようだけど、それは創業社長、今村徳松の時代に始まり、その長男、徳一が踏襲し、さらにはフレッド現社長が受け継いだ、『日報』の、三代つづいた伝統みたいなものなんだ。

 

   で、その三代の伝統を一九四〇年ごろから、グレイスさんが経理を担当するようになった一九八七年まで、四十七年間(日米戦争のあいだの数年間はとんでいるものの)ずっと支えてきたのは、グレイスさんの実の母親、ジャネット・マツヤマさんだったんだよね。

 

   といえば、あるいは察しがつくんじゃないかな。…ああ、そうなんだ。グレイスさんの〔行方不明〕あるいは〔雲隠れ〕戦術は、だから、グレイスさんが自ら考案したものではなくて、実は、〔母親譲り〕というわけなんだ。…言ってみれば、これは、長い伝統、深い由緒がある戦術なんだ。

 

          ※

 

   おりに触れて児島編集長や辻本さん、それにマツヤマさん親子などから聞いた話をメモし(あとで自分で整理しなおし)たノートのページをめくりながら、過去を大急ぎで振り返ると…。

 

          ※

 

   一八八六(明治十九)年に広島県で生まれた今村徳松がロサンジェルスで『南加日報』社を創立したのは、徳松が四十五歳のとき、一九三一(昭和六)年のことだ。

 

          ※

 

   徳松の家は代々の造り酒屋で、次男の徳松も、それこそ〔何不自由なく〕育てられ、県内の中学、高等学校へと進学させてもらっていたが、兄とは異なり、英語はできるものの、ほかの学科は(どうも好きじゃなかったようで)概してだめという(総じていえば)凡庸な学生だった。

 

   余計なことだけど、どこかのだれかに、ちょっと似ていると思わない?

 

   〈こんなふうでは、自分は一生芽を出すことができないのではないか〉〈日本にいたのでは、出世は無理ではないか〉と感じるようになっていた徳松がはっきりと〈アメリカに留学しよう〉と決意したのは十九歳のときだった。…広島県はハワイやアメリカ本土への移民を多く出したところだそうだから、目がそちらに向きやすかったのかもしれないね。

 

   父親を説得してカネを出してもらい、徳松は二十歳になった一九〇六(明治三十九)年に、サンフランシスコ行きの船に乗った。父親の(広島県出身の)知人宅に寄宿させてもらいながら、数年間かけて英語の力を高めたあと、スタンフォード大学に進むつもりだった。

 

   だが、事は徳松の計画どおりには進まなかった。着いたサンフランシスコはすさまじい大地震にみまわれたばかりで、ほとんど壊滅状態になっていたのだ。頼ることにしていたその知人も大きな被害を受けていた。徳松は、新たな就業や事業の機会を求める多くの日本人に混じって、南カリフォルニアに移動することにした。

 

          ※

 

   ロサンジェルスに着いた徳松は、当時の日本人〔留学生〕がたいがいそうしたように、(学校に通わせてもらうかわりに、庭作業や浴室清掃などといった家事を引き受ける)〔スクールボーイ〕として、(日本人町の〔口入れ屋〕が紹介してくれた)ある白人家庭に住み込んだ。

 

   ハイスクールを卒業し、大学への進学資格を取った徳松が法律を学ぶつもりでUSC(南カリフォルニア大学)に入学したのは一九一〇(明治四十三)年だった。徳松は二十四歳になっていた。

 

   そのころの連邦政府は日本人の帰化を認めていなかったし、カリフォルニア州アメリカ国籍のない者には弁護士資格を与えていなかったのに、それでも徳松が法学を専攻したのは、卒業後には、アメリカ国籍の学友の名を借りて、日本人移民を相手とする〔法律相談所のようなもの〕を開くつもりだったかららしい。…一九三七(昭和十二)年から徳松が死ぬまでの二十二年間、その徳松の下で(秘書、アシスタント、経理担当者などを兼任して)〔何でも屋〕として働いたジャネットさんは、徳松自身からそういうふうに聞いていたそうだよ。

 

          ※

 

   一九一七(大正六)年に法学部をけっこういい成績で修了した徳松は、しかし、その〔法律相談所のようなもの〕は開かなかった。人口がすでに一万以上になって(なおも増えつづけていた)ロサンジェルス一帯の日本人の、法律上の、ではなく、食生活上の需要にまずこたえようと考えたのだ。

 

   広島の親からまとまった額の資金を送ってもらい、徳松は翌年、(現在の)リトル東京の一角に、日本食品を中心にした食料雑貨店を開いた。…大学で学んだ法律知識にではなく、とりあえずは、今村家に人間に継承されているはずの商才の方にかけてみようというわけだった。

 

          ※

 

   ところで、徳松はまだ学生だった一九一六(大正五)年、三十歳になった年に、石田タミ(エミリー)という十九歳の、サンフランシスコ生まれの(つまりは二世の)女性と結婚している。長男、のちに『南加日報』の二代目オーナー社長となる徳一が生まれたのは、翌年だ。…タミの父親、重男が徳松の将来性を買って積極的に進めた結婚だったそうだ。

 

   重男は、一八八〇年代の中ごろに岩手県からモンタナ州に炭坑労働者として渡ってきた人だった。勤勉に働き、こつこつと資金をためて、世紀が変わる数年前からはサンフランシスコで理髪業を営んでいたのだが、一九〇六(明治三十九)年の大地震で被災し、(いくらかあった)資産のほとんどを失ってしまい、再出発するならこれからの土地、南カリフォルニアで、と翌年、家族を引き連れてロサンジェルスに移ってきていたのだった。

 

   徳松と重男は、ロサンジェルスダウンタウンの東方、ボイルハイツで重男が開いていた理髪店で知り合ったらしい。サンフランシスコの震災を自分も見てきた徳松が、いくらか同情する気もあって、その店をひいきにしていたのかもしれないね。

 

   で、大学での勉強を終えた徳松が〔法律相談所のようなもの〕ではなく、まずは食料雑貨店を営んでみようと考えたのは、いくらかは、日銭収入でしっかり暮らしを立てていた重男に影響されてのことだったらしいよ。

 

   つけ加えておくと、その重男は、孫の徳一が生まれてから二年後に病死したそうだ。          ※

 

   徳松の食料雑貨店はその後、主として農業に従事する日本人(とその子供たちである二世日系人)人口のロサンジェルス周辺での急速な増加に助けられて、あちこちに増えて行った。

 

   それにつれて、商人・徳松の名も日本人コミュニティーの中に広まって行った。

 

   徳松個人のアメリカでの人生は、そのころ、すこぶる順調に展開していたわけだ。

 

          ※

 

   だが、日本人移民全体の暮らしはそういうわけにはいかなかった。

 

   日本が(一八九四-九五年の日清戦争、一九〇四-〇五年の日露戦争、一九一〇年の〔韓国併合〕、一九一五年の対中国〔二十一か条要求〕などという形で)中国・朝鮮半島への〔進出〕を強めるに従って、アメリカ国内に反日感情が高まり、日本人移民たちの環境は、カリフォルニア州議会で一九〇七(明治四十)年に可決されたあといったんはルーズベルト大統領の拒否権発動で無効となっていた、日本人による土地所有と三年間以上の借地を禁じる[日本人土地所有禁止法]が一九一三(大正二)年に、また、日本人と(その子供たちである)日系アメリカ人から完全に土地の所有・借地権を奪ってしまうカリフォルニア州[外国人排斥土地法]が一九二一(大正十)年に、さらには、日本からの新たな移民をすべて禁止する、連邦[排日移民法]が一九二四(大正十三)年に、それぞれ成立するといった具合に、刻々と悪化していたのだった。

 

          ※

 

   花栽培用の農地を(ロサンジェルス郡の南どなり)オレンジ郡内に借りようとして徳松がカリフォルニア州[外国人排斥土地法]違反容疑で告発されたのは、一九二七(昭和二)年のことだ。

 

   徳松の借地の企ては、しかし、自分の事業を農業にまで拡大したいという思惑や野心から出たものではなかった。そうではなくて、商業活動である程度の成功を収め、心にもゆとりができた徳松は、日本人農家が置かれている法的に厳しい状況に改めて目を向け始め、日本人農家がそんな苦境から解き放たれるためには、やはり、だれかがじかに、その[排日土地法]に挑んでみるしかない、と考えるようになっていたのだ。…大学で勉強を終えたときからほぼ十年。法律家としての徳松の目が、そういう形で開いたんだろうね。

 

          ※

 

   徳松の借地それ自体は、長引いた裁判のあと、結局は失敗に終わった。けれども、徳松自身はその過程で、〔コミュニティーのために身を賭すことのできる、実行力のある、信頼できる人物〕〔日本人移民の不屈の精神をアメリカ人に示した勇敢な人物〕として、南カリフォルニアの日本人、日系人のあいだに広く知られるようになっていった。

 

   各種団体の代表や会長といった職を徳松が次から次へと引き受けなければならなかったのは、この時期だ。

 

          ※

 

   渡米してきたときの目標であった〔出世〕をそんなふうに果たした徳松はそのころまでに、〈日本人移民(特に農民)がアメリカで法的に不当に扱われているのは、そもそも本国である日本に国力・国威が足りないからだ〉〈日本人移民の地位を向上させるには、日本が力をつけ、諸外国に尊敬される国になる以外にない〉〈移民たちは一致団結して日本政府の国威高揚策を支持、応援しなければならない〉と固く信じるようになっていた。

 

   逆境の中にある日本人移民を奮い立たせ、彼らの日本精神を高めるような日本語新聞を南カリフォルニアで創刊しよう、という気持ちを徳松が固めたのは、〔満州事変〕の前年、一九三〇(昭和五)年だった。

 

   たちまちのうちに多くの賛同者が集まった。南カリフォルニアばかりか、フレスノなどの中央カリフォルニアからも大小の寄付金、協力金が徳松のもとに届けられた。日本語新聞の先進地、サンフランシスコからは記者や印刷工が駆けつけてきてくれた。

 

   徳松は翌(一九三一)年秋、創刊号を発行した。『南加日報』(サザーン・カリフォルニア・ジャーナル)の誕生だ。

 

          ※ 

 

   コミュニティーのオピニオン・リーダーとしての、徳松のもう一つの人生が始まった。

 

   徳松は、英文通信社の送信記事や英字新聞などから得た情報を日々、英語の読み書きがほとんどできなかった日本人移民たちのために翻訳、解説、分析しつづける一方、自分自身のコラムを持ち、そこで、当時日本が遂行していた対外〔進出〕を(中国での軍部の行動を含めて)すべて無条件、全面的に支持する意見を精力的に発表し始めた。…〔進出〕によって日本の国威が向上すれば、やがてアメリカでの日本人移民の地位もよくなる、と徳松は信じきっていたのだった。

 

   徳松は間もなく、英語でもコラムを書き始めた。こちらでは、アメリカ生まれの(ふだんはアメリカ人の子供たちとおなじ学校に通い、アメリカ人としての教育を受けながら育っている)二世たちを対象に、日本の文化や伝統(特に、親子の結びつき)の良さ、美しさを論じることが多かった。…子供たちの世代との意識のギャップに悩み始めていた一世たちがますます徳松を支持し、『南加日報』を購読した。

 

   日本の対外〔進出〕が進むにつれて、アメリカ政府の対日姿勢が硬化し、アメリカ国民の反日反日本人移民感情が高まる中で、日本への帰属意識をつのらせるしかなかった人たちを読者にして、『南加日報』は着実に発行部数を増やしていったのだった。

 

          ※

 

   児島編集長から聞いた話をもとに少し補足しておくと…。

 

   徳松は、中国大陸での日本軍の行動を(日本の通信社や新聞の報道を鵜呑みにして)全面的に支持していたから、日本軍の行動にことごとく反対するアメリカの政府と議会のことは快く思っていなかった(ようだ)けれども、何がなんでも、という反米主義者ではなかった。

 

   一連の[排日法]の成立・施行についても、一部のアメリカ人、特に(〔票を獲得するためなら何でもやってしまう〕)政治家たちの〔いかがわしい〕野心は責められるべきだけれども、一般のアメリカ人にまで敵意を抱くのは間違っている、と考えていた。反日・排日のムードが高まっているように見えていても、友情と親善を深めていけば、一般のアメリカ人は必ず(アメリカ同様の)一等国になろうと努力している日本と日本人、さらには、アメリカに住む日本人と日系人とを正しく理解してくれる、と信じていた。一般のアメリカ人は(〔一部白人勢力によって虐げられていた中国人を救おうと行動を起こした日本人とおなじように〕)正義や人道、同情の精神に満ちているから、日本とアメリカが戦争することはありえない、と思い込んでいた。

 

   いま振り返って見れば、徳松の認識と判断はとんでもないほど間違っていた、ということになるわけだけど…。

 

          ※

 

   グレイスさんの母親、ジャネットさんは徳松の長男、徳一とおなじ年、一九一七(大正六)年に、ウェスト・ロサンジェルスで生まれている。

 

   ジャネットさんの父親は、いったんハワイに移民したあと(一九〇七年にルーズベルト大統領が禁止令を出す直前に)本土に〔転航移民〕してきた一世で、ジャネットさんの母親とは(アメリカ政府から圧力を受けて一九一九年に日本政府が禁じた)いわゆる〔写真結婚〕で結ばれている。

 

   今年(一九九五年)七十八歳になる(八年前に、七十歳で引退した)ジャネットさんが『南加日報』で働きだしたのは、二十歳のとき、一九三七(昭和十二)年のことだ。

 

   そのころ、日本語と英語の両方が使える若者をアシスタントにしたいと適当な人物を探していた徳松にジャネットさんを紹介したのは(その昔、徳松が卒業した)USCの学生だった(自分の日本語力にはまったく自信がなかった)徳一だった。徳一とジャネットさんは、コミュニティーの仏教会の活動をとおして知り合っていたのだった。

 

   ジャネットさんは、小学生のころに和歌山県の祖父母のもとに送られ、そこで数年間日本の教育を受けたことがある、いわゆる〔帰米二世〕だ。〔帰米二世〕には、アメリカに戻ってきたあと英語力不足という問題に直面し、アメリカ社会への適応に手間取ったばかりではなく、日米戦争が始まってからは、教育を受けた日本への忠誠心と〔それでも自分はアメリカ人である〕という意識とにはさまれて、精神的には少なからず屈折した人生を歩ませられた人が多いそうだけど、ジャネットさんは、日本にいた時期が幼かったころの短い期間に限られていたこともあって、英語にもまったく不自由しない(つまり、アメリカ社会にうまく適応できないという負い目も感じない)一方、(書く方には限界があったものの、ロサンジェルスに数個所あった日本語学園のうちの一つに通いつづけていたこともあって)日本語もちゃんと読める(だから、日本式の発想も理解できる)、当時としてはめずらしい(徳松のアシスタントとしてはうってつけの)人物だったということだ。

 

         ※

 

   徳松が必要とするニュースの収集、整理から始まったジャネットさんの仕事に徳松の秘書としての役割が加わるまでに、時間は長くかからなかった。

 

   食料雑貨店の経営はもとより、コミュニティー団体の主要役員としての活動、新聞のコラムニストとしての時評書き、時局講演会での講演、日本軍を支援するための〔愛国献金〕運動などで忙しく動き回っていた徳松を支え、ジャネットさんは(私事を二の次にして)よく働いた。

 

   ひと月ほど前にふらりと『日報』にやってきたジャネットさんから直接聞いたところでは、そのころ日本人コミュニティーの(ある意味で)大スターになっていた徳松を助けて働くのは、ジャネットさんにとって〔ずいぶん楽しいこと〕だったそうだよ。

 

   そんなジャネットさんに徳松が(帳簿づけだけではなく)ちょっとした資金繰りまで任せるようになったのは、日本軍による(いわゆる)真珠湾奇襲の一年ほど前のことだった。…この仕事は、しかし、たいして難しくなかった。赤字が出ることはあっても、農家を中心とした支持団体からときどき寄付金があったし、いざとなれば、徳松自身が食料雑貨店の利益の一部を割いて、新聞社の運転資金に回してくれたからだった。

 

          ※

 

   一九四〇(昭和十五)年、日本はインドシナ半島に軍を進める一方で、ドイツ、イタリアと組み〔三国軍事同盟〕を結んだ。日米間の緊張がさらに高まり、カリフォルニア、オレゴンワシントン州の太平洋沿岸に住む日本人、日系人の暮らしはますます息苦しいものになっていった。

 

   そこへ、一九四一(昭和十六)年十二月七日(アメリカ時間)の日本軍による真珠湾奇襲。

 

   状況は悪い方へ急回転した。

 

   年が明けると間もなく(一月十五日)、〔敵性外国人〕の登録が始まり、すぐに、団体役員や宗教・教育関係者など、日系・日本人コミュニティーを指導していた人たちが〔予防拘束〕されるようになった。

 

   二月の半ば過ぎ、『日報』のコラムや講演会での論調、〔愛国献金〕運動などが反米的だとして、徳松がFBIに連行された。

 

   残った編集長や印刷工場長らと相談したうえで、ジャネットさんは新聞の休刊準備を始めた。社主の徳松が拘束されたのだから、新聞が発行できなくなる日も近い、と考えてのことだった。

 

          ※

 

   話がちょっとそれてしまうけど…。

 

   〔編集顧問〕の辻本さんが〔自主立ち退き〕したのはこのころだったそうだ。

 

   辻本さんは一九一九(大正八)年に山口県で生まれた人だ。中学を終えた年に、先に移民していた伯父に誘われ(養子縁組という形を取って)カリフォルニアにやってきたあと、いくつか仕事を変え、日米が開戦したときは、ロサンジェルス近郊のある日本語学園で教師として働いていたそうだ。…日系の二世、三世である生徒たちに日本語を教えること自体が反米的な行為とみなされた時期だったから、辻本さんもFBIの要注意人物リストに名前が挙がっていたかもしれないけど、(まだ若く、教育界の重要な地位についていたわけでもなかったので)拘束はされなかった。

 

   独身で気軽に動くことができた辻本さんは、自ら進んで太平洋沿岸部を脱出し、(日本からの農業移民がけっこう数多く住んでいた)コロラド州デンバーに移ることにした。…デンバーは、日米戦争の影響をあまり受けていなかったし、住民の反日感情も比較的に薄かったから、体を動かして働くことをいとわなかった辻本さんにとっては、けっして住みにくいところではなかったそうだ。

 

          ※

 

   日本人移民と日系人を太平洋沿岸部から立ち退かせはしたけれども(ナチがユダヤ人に対してやったよう〔強制収容〕をしたのではない、と主張するアメリカ人がいまでもいる(らしい)のは、連邦政府が早い時期に、短期間だけだったにしろ、(辻本さんの例に見られるように)いちおうは〔自主立ち退き〕のチャンスを与えたことがあるからなんだって。

 

   でも、いきなり〈さあ、自主的に、好きなところへ、どこへなりと〉といわれても、家族がうちそろって、何の憂いもなく移動していける場所なんか、そんな状況の中で、あるはずはなかったから、大多数の日本人、日系人は、住みなれた場所にそのままとどまるしかなかったし、その後に〔強制立ち退き〕命令が出されたときも、連邦政府が内陸部十三個所に急設した〔リロケーション・センター〕(という名の隔離施設)以外にすみかを見つけることなんかできはしなかったのだから、立ち退き命令は〔自主〕であろうと〔強制〕であろうと、結局は〔強制収容〕命令と同義だったそうだ。

 

          ※

 

   休刊準備を始めたジャネットさんたちが一番頭を悩ませたのは、日本語の活字をどう守り通すか、ということだった。休刊中ずっと社内に放置しておいては、第一には、FBIに押収されてしまう惧れがあったし、そんなことにはならなかったにしても、反日感情を抱く者が建物に押し入り、中を荒らし、活字のセットをばらばらにし、使い物にならなくしてしまうかもしれなかったからだ。それに、活字を盗み出し、溶かしたあとに換金してしまおうという者だって、出てこないとはいいきれなかった。

 

   ジャネットさんたちは、日米戦争が永久につづくとは思っていなかったし、新聞を再刊できる日、活字がまた必要になる日が必ずやってくる、と信じていたんだね。

 

          ※

 

   現実には、いっさいの印刷機材を社内に残して休刊した『日米新報』は、立ち退き命令が一九四五(昭和二十)年の夏に解除されたあと、活字も無事に回収できたというから、ジャネットさんたちは少し心配しすぎていたのかもしれないんだけど…。

 

          ※

 

   徳松が拘束されてからほぼ一か月後、『日報』は休刊宣言特別号を出した。

 

   活字は、結局、ドイツ系移民が経営していた印刷工場があずかってくれた。…ドイツはイタリア、日本と並んでアメリカの敵国だったわけだけど、ドイツ系移民は、イタリア系とおなじく(太平洋沿岸部からはもちろん、大西洋沿岸部からも)立ち退けとは命じられなかったんだね。

 

          ※

 

   太平洋沿岸部に住んでいた日本人と日系人およそ十二万人を対象についに〔強制〕立ち退き命令が出されたのは一九四二(昭和十七)年の三月二十三日だった。『日報』の社員とその家族たちも(ほかに行き場のなかった大多数の人たちとともに)それぞれ、ロサンジェルス近郊のサンタアニータ競馬場に(厩舎などを利用して)急ごしらえされた集合センターを経由して、各地の〔リロケーソン・センター(転住所)〕に送られていった。

 

          ※

 

   (日本でもかなり大きく報道されたというから、知っている人は多いのかもしれないけど、というか、あのころの僕は、いちおうは受験勉強に追われていて、テレビのニュースなんかもあまり見ていなかったし、新聞もほとんど読んでいなかったから、僕自身はまるで記憶がないわけだけど)アメリカ政府は五年ほど前に、あのときの収容政策は間違っていたとして、日本人移民、日系人に対して正式謝罪するとともに、かつて収容されたことがあり、その時点で生存していた人たち全員、六万人ほどに、一人二万ドルの補償金を払っているそうだ。

 

   そういうのって、たとえば、ほら、[大東亜戦争]として日本が行なった戦争で日本軍がコーリアンやフィリピーノの女性たちを〔従軍慰安婦〕として(七万人とも八万人ともいわれる規模で)強制徴用した問題に対する(歴代の)日本政府のぐずぐずした対応に比べると、(こちらも歳月はずいぶんかかったわけど)うんと潔いって感じがするよね。

 

          ※

 

   今夜はここまで。…疲れてしまった。

 

   きのう(木曜日)の夜のことにちょっとだけ触れておくと…。電話で二時間ぐらい真紀と話したよ。でも、特別なこと、つまり、僕の気持ちがぐらついていることは、おくびにも出さなかった。

 

   日曜日には、サンバナディーノ山脈の中にあるアローヘッド湖に二人で行くことにして…。

 
 

小説 「横田等のロサンジェルス・ダイアリー」(1995年)=1~2= 

 

   -----

(ストーリー中の人物、企業、団体などはすべて創作されたものです)

*参考著書*

アメリカの日本語新聞」田村紀雄(新潮選書)

「藤井整の言論活動 - 『加州毎日』創刊から日米開戦まで」関宏人(慶応大学卒業論文

-----

 

*** 1995年8月15日 火曜日  ***



   僕がほんの数か月後にこんなふうに気持ちを揺るがせていることを知ったら(ロサンジェルス市の東方五〇マイル、八〇キロメーターほどのところに位置する、人口二十二万人あまりの都市)リバーサイドの友人や知人たちはみんな、ずいぶん驚くだろうな。

 

   だって、当の本人である僕自身が、UCR(カリフォルニア大学リバーサイド校)のエクステンション・プログラムで英語を勉強していたころはもちろん、いよいよロサンジェルスに移ろうという三月中ごろになってからでも、自分が先で〈僕には可能性として二つの将来があるんじゃないだろうか〉と考え始め、その二つのうちのどちらを選ぶかで心がぐらつくことになろうなんて、夢にも思っていなかったんだから。まして、そのぐらつきがさらに進んで、九月半ばに予定していたアリゾナ州フィニックスへの移動はよしてしまおうか、フィニックスにある小さなプライベイトの大学でMBA(経営管理修士号)を取得(するために勉強)しようという計画なんか捨ててしまおうか、なんて大胆なことを考えるようになるかもしれないなんて…。

 

   いや、中には、「〈九月までひまがあるし、ちょっとおもしろそうだから〉って理由だけでそんなところに首を突っ込むの、まずいんじゃないの」みたいに注意してくれた友人が何人かいはしたんだよ。だけど、その友人たちにも、僕がいまみたいな状態になりはしないかとまでは予想できていなかった。〈まずい〉ような気がするといっても、彼らは〈そんなところ〉をじかに見たわけじゃなかったし、そこが実際にはどんなところなのかについては僕以上に分かっていなかったわけだから、それも当然だったんだけどね。

 

          ※

 

   その〈そんなところ〉ってどこのことかって?

 

   日本語欄四ページと英語欄二ページという体裁の日系コミュニティー新聞をロサンジェルスで発行している『南加日報』(サザーン・カリフォルニア・ジャーナル)社のこと。

 

   そこで働いているうちに、気持ちがしだいに揺れ始めて…。

 

          ※

 

   何でか、って?

 

   それが、簡単には説明できないんだよね。

 

   とにかく、いまの僕は〈ロサンジェルスから立ち去りたくない〉って気分なんだ。…その新聞社での仕事をあっさりとは捨てたくないんだ。

 

   おかしいね。

 

   なぜって、それ…。

 

   おカネのことを真っ先にいうとちょっといやらしいんだろうけど、初めの三か月間の、いわゆる研修期間中には、一週間で一五〇ドル、四週間で六〇〇ドルにしかならなかった、そんな仕事なんだよ。…ちゃんとフルタイムで働いて。

 

   そんな(ひどい)条件の仕事がいまどきあるのかって?

 

   ああ,あったんだ。しかも、その仕事には〈八月に開かれる[リトル東京フェスティバル]が終わるまでは〔絶対に〕やめないように〉という、けっこう強い要求までついていたんだよ。

 

          ※

 

   〔絶対に〕は、まあ、分かるよね。でも、〔八月に開かれる[リトル東京フェスティバル]が終わるまでは〕というのは、なんだか変に短い、みょうに中途半端な〔要求〕だと思わない?だって、三月から〔八月まで〕なんだよ。

 

   でも、それ、事情が分かってみれば、そうでもなかったよ。というのは、その[リトル東京フェスティバル]というのは、ずっと昔、第二次世界大戦前からつづいている、南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティーの最大の年中行事で、地元の日系新聞社にとっては、〈参加団体の紹介記事やパフォーマンス報告を賑やかに書いて、見返り広告や協賛広告を大量に取る絶好の機会〉だということだったからね。…編集員を募る広告を二月に出したとき、『南加日報』社は(できれば、長く働いてくれる人物を採用したい、と考えていたんだろうけど)とりあえずは、そのフェスティバルに備えて編集員を確保しておく必要があったんだね。

 

          ※

 

   だけど、正直に言うと、面接を受けたときの僕は、南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティーと、『南加日報』社の両方にとってそのフェスティバルがどれほど大きな意味を持っているかなんて話には、ほとんど興味を引かれなかったんだよね。だって、あのときの僕は、何てったって、UCRで英語の勉強を終えたばかりの留学生で、ほら、さっき話したように、半年後の九月半ばにはアリゾナ州フィニックスに移るつもりでいたわけだから。

 

   たしかに、求人広告を見たときには〈雇ってもらえるのなら、この新聞社でしばらく働いてみるのも悪くなさそうだ〉と考えたし、だからこそ面接を受けにも行ったわけだけど、それは別に、地元の日系・日本人コミュニティーに大きな関心があったからでも、この日本語新聞社のために何か役立ってみたいと感じたからでもなかった。…そうじゃなくて、南カリフォルニアでそんなふうに時を過ごしていれば、UCRでいまも英語の勉強をつづけているガールフレンドの真紀と九月までずっと、それも時間を持て余す心配なしに、会いつづけることができるじゃないか、と考えたからだった。

 

          ※

 

   そんな調子だったから、実は、これからもらうことになる給料の額は、あのときの僕には、まあ、どうでもいいことだった。いくらと告げられても、他人事みたいに〈ここの社員たちはみんな、そんな低い給料で働いているのだろうか〉〈そんなので暮らしていけるのだろうか〉〈そういえば、机や書棚などもずいぶん古いものだな〉〈なんだ、新聞社だというのに(少なくとも日本語編集部のこの部屋には)一台のコンピューターも備わっていないよ〉などとあれこれ思いをめぐらせただけで…。

 

          ※

 

   あの日から、それこそ〔矢のような速さ〕で月日が過ぎてしまった。

 

   十日間ほどつづいたその夏のフェスティバルもおととい終わっている。

 

   ということは、僕は、二週間前に予告しさえすれば、いつでも仕事をやめることができるわけだ。…面接のときに了解してもらっていたとおりに、九月半ばにはフィニックスに移動することができるわけだ。

 

   にもかかわらず…。

 

   人が生きているあいだには思いもかけないような〔大転回〕が何度かはあるものだって言うよね。

 

   いや、もしかしたら、一般にはあまり言わないのかもしれないけれど、僕の父親は昔からよくそう言っていたよ。…特に、三人の子供たちの中で目立ってできの悪かった末っ子の僕をなんとかして励ましたいようなときにね。

 

   で、回りきるのか回りきらないのかまだよく分からない今度の僕の〔転回〕も、いま振り返ってみれば、やはり、 〔思いもかけないような〕ことがきっかけになっているんだよね。だって、真紀がある日唐突に「わたし、おいしいすき焼きが食べたい」とつぶやいたことから、これ、始まったわけだから。…すこぶる日常的だろう?〔人生の大転回〕なんかまるで感じさせないだろう?

 

   いや、真紀を責めているんじゃないんだよ。そうじゃなくて、人生はそんなことでだって、つまり、だれかがたまたますき焼きを食べたくなったことからだって変わってしまうこともあるんだなって、改めて感じ入っているだけなんだ。

 

   それに、真紀が〔おいしいすき焼き〕を食べたくなるのには、〈なるほど〉とうなずける、もっともな事情があったわけだし…。

 

          ※

 

   真紀がすき焼きを食べたくなった〔ある日〕というのは、僕がUCRで受けていた外国人向け英語コースのウィンタークォーターが終わりに近づいていた、二月の最後の木曜日(二十三日)だった。…翌日、夜八時に終わる講義を真紀が受けることになっていたから、曜日をちゃんと覚えているんだ。

 

   で、その木曜日は、あとで数えてみたら、阪神・淡路大震災から三十八日目に当たっていた。

 

   そうなんだ。突飛な組み合わせなんだけど、真紀の「わたし、おいしいすき焼きが食べたい」とあの大震災には関係があるんだ。それも、おおいにね。

 

   真紀はあの日、なんだかひどく思いつめたような口調で、僕にこう言ったんだ。「まだ四十九日が過ぎていないこと、わたし、分かってるけど…。自分からいいだしておいて、みっともないけど…。わたし、あした、どうしても、おいしいすき焼きが食べたい」

 

   これで関係が少し分かってきたんじゃないかな。

 

   ああ、僕たちは、大震災のことをテレビのニュースで知って以来、真紀の発案で、四十九日間の、なんというか、ちょっとした〔禁欲・精進〕生活に入っていたんだよね。

 

          ※

 

   ABC放送の[ワールドニュース・トゥナイト]で日本からのニュースを見ていた真紀が、画面の看板キャスター、ピーター・ジェニングスに向かって何度かうなずいたあと、「被災した人たち、ほんとうにかわいそう。お気の毒。太平洋を隔てているからって、わたし、知らないふりはできない。ね、わたしたちも何かしなくちゃ」と突然言いだしたのは、震災の被害の大きさがますます明らかになった一月十九日の夕方のことだった。

 

   僕は〈ああ、この子はやっぱりいい子だな〉って、たちまち感動してしまったよ。…だって、ふつうは、僕自身がそうだったように、そんなふうにはあんまり考えないじゃない。

 

   でも、僕のその感動は長くはつづかなかった。

 

   なぜって、その〔何かをする〕というのは、分かってみれば、たとえば、UCRの学生たちから義援金を集め、それを被災地に送る、みたいなアクティブだけども数日間限りの活動、というようなものではなくて、おもしろいことや楽しいこと、愉快なこと、心地よいことなど、とにかくそんなふうな、被災者が当分は味わえないたぐいのことは、僕たちも〔四十九日の喪があけるまでは〕いっさいしないでおこう、というずいぶんネガティブで継続的な、途方もなく気が疲れそうなことだったからね。

 

   僕の反応は、なんだか、かっこうの悪いものだったな。「そりゃあ、僕も気の毒だとは思うけど、二人とも東京生まれの東京育ちで、こんなときに〔幸い〕と言ってはなんだけど、被災した親類も友人もいないみたいだし、それに、ほら、東京じゃ大相撲の初場所だって〔満員御礼〕つきでつづいているっていうじゃない。つまり、日本でも、被災地以外では大方、みんなふつうに暮らしているんだよ。だから、僕らがそこまで…」

 

          ※

 

   真紀の善意の〔四十九日の喪があけるまでは〕提案に僕がそんなふうに(みっともなく)抵抗したのには、ちょっと口にしにくい(真紀の崇高な決意の前ではどうしても低次元に見えてしまう)理由があったんだよね。

 

   こんなこというの、恥ずかしいんだけど、僕はあのとき、ことのついでに真紀が「わたしたち、セックスもしないでいましょう」みたいなことをいいだすんじゃないかって(やたら先走って、それもそうとう深刻に)怯えていたんだ。だから、〔大相撲の満員御礼〕なんかはみんな、その(口にしにくい)怯えをおおい隠すための屁理屈の材料にすぎなかったわけ…。

 

   いや、真紀が望むのなら、たいがいのことは(いくらでも)よすことができる、と思ったんだよ。でも、あの方は…。ちょっと自信がなかった。

 

   だって、僕は若いんだし、真紀がそばにいるのに四十九日間もがまんしているなんて、とてもできそうになかったから。…ありがたかったことに、結局は、若いのは真紀もおなじだったからか、その件は僕の、いわば、とりこし苦労ということで終わったんだけど。

 

          ※

 

   で、その〔何かをする〕の中に、〈映画は、たとえトム・クルーズの新作が公開されても、見に行かない〉〈テレビのシチュエーション・コメディー(中でも、一番好きな[フレンズ])は見ない〉〈友だちが開くパーティーには出ないし、わたしも友だちを呼ばない〉〈デイヴィッド・コッパーフィールドのマジックショーは一度見てみたいけど、ラスベガスには遊びに行かない〉〈ケーキとハニーデューメロン、それに、やっぱり、ビーフとポーク、チキンは食べない〉などという、数多くの〔しない〕案と並んで「毎週金曜日の〔ちょっとぜいたくな外食〕もよしましょう」という案が含まれていた。

 

   つまり、真紀が言った「あした、どうしても」のその〔あした〕(二月二十四日金曜日)は、そんな禁欲宣言をしていなければ、その〔ちょっとぜいたくな外食〕をする日に当たっていたんだよね。だから、金曜日を前にして真紀が、何かおいしいものが食べたい、といいだしたのには、それなりの根拠があったわけなんだ。

 

          ※

 

   二月二十三日。真紀は密かに、大震災からその日までの日数を数えていたんだね。こうつづけたよ。「あしたが五週間と四日目だってこと、だから、まだ四十九日は過ぎていないってこと、わたし、分かってるんだけど…」

 

   僕はこのときも、〈ああ、この子はなんてかわいい子だろう〉と思ってしまった。…道徳上の大罪を告白しでもするかのような思いつめた表情がなかなかよかったしね。

 

   もともと仏教に格別の信心を抱いてるわけでもない真紀が唐突に〔四十九日〕などと言いだした動機があまり理解できていなかった僕には、〔すき焼きディナー〕に反対する理由は、もちろん、まったくなかった。というより、〔禁欲・精進〕あけは大歓迎ものだった。〈宣言どおりに、ケーキもメロンも、ビーフもポークも、チキンも食べなかった真紀は偉い!〉〈「白人と違ってアジア人の髪は毛が太くて重いから、うまくあんな形にはならないかもしれないけど、わたし、髪型を([フレンズ]の主役の一人である)レイチェル(ジェニファー・アニストン)とおなじにしてみようかな」と言っていたぐらいなのに、放送がある木曜日の夜は大学の図書館にこもって一度もテレビの前に座らなかった真紀は立派だ!〉とは思っていたけど、やっぱり、「どうしても、すき焼きが食べたい」という真紀の方が、無理がなくて、うんとすてきに見えたよ。

 

          ※

 

   もっとも、真紀が〔どうしても食べたい〕のが、なんで、ちょっと上品な感じがして、いかにも女の子が好みそうなケーキやメロンでなくて、少しおじさんっぽい〔すき焼き〕なのかは、僕にはすぐには見当がつかなかったけどね。

 

   いや、いまだって、ほんとうのことは分かっていないんだよ。でも、あえていうと、あれは、一か月あまり必死の思いで〔精進〕していた真紀の頭の中で、〔神戸を中心にした大震災〕―〔神戸牛〕―〔すき焼き〕という連想が、〔神戸牛―ステーキ、松坂牛―-すき焼き〕というポピュラーな関連をよじれさせた状態で、竜巻みたいにぐるぐる回りながら肥大しつづけていたからだったんじゃないかな。…そんな気がするよ。

 

   これって、なんだか変に生々しい想像だから、真紀にじかにたずねるのはためらってしまうけど、もしそうだったんだとしたら、こともあろうに、あの大震災とすき焼きを結びつけるんだから、食に対する人間の欲には、簡単には表現できない類のすごさがある、ということになると思うけど?

 

          ※

 

   だけど、まあ、そんなことはどうでもよかった。

 

   僕は勇んで真紀に、翌日三時に僕の(外国人に英語を教えるためのプログラム)ESLのクラスが終わったら、そのままロサンジェルスまで車を飛ばして、リトル東京にある[ヤオハン・プラザ]の中のスーパーマーケットで上等の(つまり、UCRの近くのスーパーマーケット[アルファ・ベータ]なんかで売っている脂身の少ない赤っぽい、ぱさぱさしたテリヤキ用の分厚いのとは違う、ちゃんとした〔しもふり〕の薄切り)牛肉を手に入れ、夜八時過ぎに真紀がアパートに帰ってきたときには、その〔おいしいすき焼き〕がすぐに食べられるようにしておく、と約束したよ。…金曜日なのに〔外食〕することにしなかったのは、リバーサイド市内とその周辺にある日本食レストランでその〔しもふり〕肉を出すところを二人とも知らなかったからだった。それに、すき焼きは、できあいを出されるよりは、自分たちでこしらえながら食べるほうが、やっぱり、おいしいじゃない。

 

          ※

 

   そのすき焼きを食べているあいだに真紀が話してくれたことだけど、あの子が〔四十九日〕などと言いだしたのには、こういうわけがあったんだ。

 

   真紀は、まだ小学校の低学年だったころ、ずいぶん可愛がっていたケンという名の子犬に交通事故で死なれたことがあるんだ。そのとき、母親にこんなふうなことをいわれたんだって。〈真紀、いい子にしてなきゃだめよ。わがままに、あれがほしい、これが食べたい、なんてことばかり言ってたら、ケンがそれを聞きつけて、〔ああ、真紀はこの世に不満があるんだ。自分の方に呼んでやろうかな〕って思うかもしれないわよ。死んだものの魂は〔四十九日間〕はこの世とあの世とのあいだをさまよっているっていうから、ケンもきっとそこからあなたを見ているわよ〉

 

   母親にそういわれたからといって、自分が死ぬということがどういうことだかよくは分かっていなかったし、真紀はすぐにわがままをやめたわけじゃなかったんだけど、高学年になって、今度は自分が交通事故に遭ってしまった。自転車に乗っていて、低速で走っている小型自動車の横側に自分の方からぶつかり、転倒して、左脚を骨折してしまったんだ。そのとき真紀は、母親に以前いわれたことを思い出したんだって。思い出して、〈そうか、あのときわがままをやめなかったから、わたし、こんな目に遭ったんだ。わたしを見ていたケンがいまになって、こんな形でわたしを呼ぼうとしたんだ〉 と考えたんだって。

 

   一月十七日、阪神・淡路大震災が発生したことを知ったとき、すぐに真紀の頭をかすめたのは(もちろん、被災者がかわいそうだ、気の毒だ、という思いが第一ではあったけれども)口から血を流して近所の路上に倒れていたケンの姿と自分の自転車事故のことだった。真紀は震えだしそうになりながら、こう考えたそうだ。 〈カリフォルニアは日本とおなじように地震の多いところなんだから、当分はわたし、何も不満に思っちゃいけない、わがままを言っちゃいけない、欲におぼれちゃいけない〉

 

   だから、その〔当分〕が二日後の十九日になって僕に〔禁欲・精進〕提案をした際に〔四十九日間〕という具体的な数字になったのには、(母親に昔聞かせられた話を真紀がいまでもそのまま信じているとは思えないけど)心理的には、まあ、自然なことだったわけだ。

 

          ※

 

   真紀のそんな話を聞き終えたとき、正直にいうと、僕は〈大地震で命をなくした数千の人たちとケンという名の飼い犬を対に並べて考えるのは、どうも釣り合いが取れていないんじゃないかな〉〈〔わがままを言わない〕 と〔欲におぼれない〕とをそんなふうに直線的に結びつけるのは、あまりも短絡的なんじゃないかな。その二つのあいだには言葉を千個重ねて説明しても埋め合わせることができないような、すごく大きな隔たりがあるような気がするな〉〈それに、ケーキやメロンを食べたからといって〔欲におぼれた〕とはいえないんじゃないかな〉〈地震の犠牲になった人たちにはそれぞれ、心を残す家族や恋人たちがいるだろうから、ケンとは違って、見ず知らずの真紀に目を向けたりはしないんじゃないかな〉 などと考えたけど、結局は黙っていた。…一歩間違えば死、というような事故に一度も遭ったことのない僕には、真紀が子供のころに味わった恐怖のほんとうの大きさが分かっていないはずだったから。

 

          ※

 

   すき焼きを食べ始めた真紀はもう、その日が三十九日目だなんてことはすっかり忘れているみたいだった。…自分が言いだしたことを守りきれなかったのは悔しいことだったんだろうけど、もともと固い信心から〔四十九日〕と言ったわけでもなかったのだし、ここではとりあえず、おいしいものを食べることができる満足感の方が勝っていたんだね。

 

   その方が自然でいい、と僕は思ったよ。

 

          ※

 

   というようなことで、僕は二月二十四日の午後、おいしい牛肉を真紀のために手に入れようと、片道一時間ほどかけて、リトル東京の[ヤオハン・プラザ]まで愛車の白い[ムスタング]を走らせたわけだ。…そのドライブの行き着く先に自分の運命の分かれ道があろうなんて、もちろん、

 

夢にも思わずに。

 

   なんて、表現が陳腐で、思わせぶりが過ぎているかな。

 

   でも、そんなふうにリトル東京に出かけていなければ、僕は、そのついでに立ち寄った(やはり[ヤオハン・プラザ]の中にある)[旭屋書店]で、日系・日本人コミュニティーで発行されている二つの新聞、『日米新報』と(問題の)『南加日報』を買うことはなかったんだよ。

 

   そして…。『南加日報』を買っていなければ、(『日米新報』と違って、文字が読みづらいうえに、なんだか変にうすっぺらな)この新聞の第三面の右下に〔囲み〕で出してあった〔編集員募集〕の広告も見なかっただろうし、見ていなければ、〔要英語力〕という文字に引かれてふと、〈これは自分の英語力を試してみるいいチャンスかもしれない〉なんて思うことはなかっただろうし、〈それに、フィニックスに移動するまでの時間つぶしにもなるじゃない〉なんて不遜なことを考えるようにもなっていなかったに違いないんだ。

 

   あの夜、UCRの近くのキャニオンクレスト・ドライブ沿いにある真紀のアパートで彼女と二人で食べたすき焼きは、いい牛肉を手に入れるためなら往復二時間ほどのドライブなんかどうってことはない、という熱意に十分報いて、というか、長い肉絶ちのあとの僕には、というか、とにかく、もう、文字どおり涙が出そうになるほどおいしかったんだけど…。願いどおりに〔おいしいすき焼き〕を食べることができてすっかり感動した真紀は、食事のあともずっとすごく優しくしてくれて、僕も最高に幸せだったんだけど…。

 

   なんだかおかしな〔人生の転回〕図だね、これ。

 

          ※

 

   『南加日報』でこのまま働きつづけてみようかな、というふうに僕の気持ちが揺れていることを、真紀はまだ知らない。

 

   いまの気持ちの傾きがもっと進めば、遅かれ早かれ、胸の中にあることをちゃんと真紀に話さなきゃならないことになるってことは、もちろん、分かっているんだよ。…だけど、どんなふうに?どんな機会に?

 

          ※

 

   父親が〈お前がMBAをちゃんと取得して日本に戻ってきたら、必ずそこそこの企業に入れてやる〉と請け合ってくれていなかったら、こんなことは初めから口にはできないんだけど…。たとえば、僕がいきなり〈〔フィニックスでの勉強を終えたあとは日本に戻って、ちょっとは名の知れた会社で働くんだ〕なんて考えは捨てることにしたよ、真紀〉 だとか、〈ロサンジェルスにある(月給が八〇〇ドルぐらいの、将来昇給したとしても一、〇〇〇ドルを大きく超えることはないはずの、うだつの上がらない、というよりは、正直にいうと、落ち目の)日系新聞社でしばらく働いてみることにするよ。だから君もそのつもりでいてくれないか〉だとか僕が言ったら、真紀はきっと、すごいショックを受けるよ。〈それはないんじゃないの〉 みたいな、まるで割り切れない、というか、ぜんぜん納得できない、というか、ひどく理不尽な、というか、とにかく、そんな気がするはずだよ。…裏切られた、と感じるかもしれないよ。

 

          ※

 

   そんなふうに決めつけなくてもいいんじゃないかって?話してみれば、僕の気持ちの傾きを真紀が理解してくれるかもしれないじゃないかって?

 

   〈分かったわ。それ、生き方として、美しくてすばらしいものだわ、等さん。そうしたら?あなたを必要としていてくれるその新聞社のために働いてあげたらどう?英語で話されたり書かれたりする報道からはちゃんとした情報が得られない日系・日本人コミュニティーの人たちに、日本語で書かれたいいニュースをあなたも提供してあげたら?そんな(条件の悪い)仕事に進んでつきたがる人、あまりいないでしょうけど、それ、なんだか、等さんにはぴったりしてるみたい。〔生涯カネに困りながら暮らすことになるんだぞ〕だって?何を言ってるのよ。おカネだけが人生の目的じゃないわ。それに、必要なら、わたしが少し助けてあげる。だから、そのままそこで働きつづけたらどう?〉 とでもいう具合に?

 

   違うんだよね。真紀はそんなふうにいうタイプじゃないんだ。つまり…。

 

          ※

 

   真紀は僕より二歳年下で、二十一歳。東京の、教育の高い家庭で(遅くとも、自転車に乗っていて事故にあった小学校高学年のころからは)しつけよく、しかものびのびと育ってきた、良くも悪くも、まだ無垢なところを残している、(僕が思うに)いまどきめずらしい子なんだ。英語教師に将来なろうとしている学生たちに英語を教える教師に日本でなりたい、と思って、東京の女子大で二年間勉強したあとこちらにきて、いまUCRで英語を勉強しているんだ。…UCRでの勉強を終えたら?おなじ女子大に復学して、そこを卒業し、それから大学院に進むつもりなんだって。

 

   偉いんだよね、あの子。

 

   とはいうものの、真紀は、一度決めたことはどうしてもやりとげるんだ、と思いつめている様子でもないんだ。…たぶん、日本の女子大学生の多くがそうであるようにね。

 

   そうなんだ。真紀は、自分も仕事をずっと持ちつづけようと(いまは)思っているわけだけど、それは、どちらかといえば、生き方に関する、そう、美意識上の問題で、(なんとなく、その方が現代的で格好がいいようだ、と感じているからで)、日本での英語教育に格別な使命感を抱いているわけでも、女も経済的に自立しなくちゃ、というふうに思想的に意気込んでいるわけでもないんだよね。それどころか、真紀は、僕がフィニックスにあるビジネス・スクールを修了して東京で(僕の父親がいう)〔そこそこの企業〕に就職したら、真紀に求婚し、(真紀自身が働きつづけるかどうかは別にして)ふつうよりはほんのちょっとはましでしっかりした暮らしを終世保証してくれるはずだ、と(こちらも、なんとなく)信じ込んでいるみたいなんだよね。

 

          ※

 

   そんなふうに思われていても、僕は、特に大きな負担だとは感じていなかった。

 

   というより、僕は、日本の女の子だったら、たいがいは似たように考えるだろうと思っていたし、MBAを取得しさえしたら、(就職の際には父親の助けがいりそうだけど)真紀に〔ふつうよりはほんのちょっとまし〕な将来を保証してやることが自分にもできるんじゃないかと、まあ、うぬぼれてもいたからね。

 

   だから、僕は、真紀が富や名声、地位、教育、身体・外見上の魅力などといったものを備えている人たちしか尊敬しない、というより、そんな人たちが多い環境で育ってきているから、そうじゃない人たちのことがあまり理解できない(つまり、そんなふうに〔無垢な〕)女の子だってことが分かってからも、危機感みたいなものは一度も抱いたことはなかった。だって…。

 

   いや、僕自身は、富や名声、地位などは当然持ち合わせていなかったし、これかも手に入れることはないだろうと感じていたけど、ほら、僕にはまだ〔教育〕が残っていたから…。MBAを取得すれば僕だっていまよりはちょっとはましになれるんじゃないか、と思えていたから…。

 

   真紀も、たぶん、そんなふうに考えていたはずだよ。

 

   そんな真紀にいきなり〈アリゾナには行かないことにしたよ〉なんていえば…。

 

          ※

 

   そこまで否定的に考えるのはやっぱり早すぎはしないかって?

 

   ほかにも選択肢がありはしないかって?ビジネス・スクールへの入学を一年間遅らせる、といったような選択肢が?

 

   〈一年間だけ、僕の好きにさせてくれないか、真紀。約束するよ。そのあとはちゃんとアリゾナに移って、猛烈に勉強して、できるだけ早くMBAを取って、日本に帰って、そして…〉みたいなことを真紀に言うことだってできるんじゃないかって?

 

   だめだよ、それは。

 

   そんなんじゃ状況がもっと悪くなるだけかもしれないじゃない。

 

   何より、来年の八月になったら、新聞社をちゃんとやめることができるわけ?いまとおなじように迷ったりは、絶対にしないわけ?

 

   そこだよね。…頭が痛いよ。

 

          ※

 

   真紀が僕のことを好きなんだったら…。僕がアリゾナ行きをやめれば、だから、フリーウェイを六時間も走りつづけなければたどり着けないようなところに行ってしまわなければ、つまり、ナショナル・ホリデイを加えて三日間になる〔ロング・ウィークエンド〕や春と夏の休み、クリスマス休暇にしか会えないなんてことにはならないんだから、真紀はかえって喜ぶんじゃないかって?

 

   違うんだよね。

 

   ほら、あの〔禁欲・精進〕事件。…そうなんだ。真紀は、どちらかというと、がまん強い女の子なんだ。僕がフィニックスに移ってしまえばもうまったく会えなくなる、という話だったら、たとえば、〈わたしも(フィニックス市のすぐ隣の市、テンピにある)アリゾナ州立大学に転校しようかな〉などといいだすといった具合に、ことは違って展開するかもしれないけども、ときどきは会える、というような状況には、あの子、けっこう耐えられるみたいなんだ。

 

   というより、真紀は、何かを果たすためには少しは何かに耐えなければならない、みたいに思い込んでいるようなところがあるんだよね。僕がアリゾナに行ってしまえば淋しくなる、だとか、そんなところには僕を行かせたくない、だとかいうふうには考えないようなんだよね。

 

   それに、真紀は、おカネに困る生活なんて考えてみたこともない子だから、経営の苦しい新聞社で働いて 〔清く美しく〕(実は、貧しく)生きる男なんかは、たぶん、初めから問題外。僕がロサンジェルスにとどまることになっても、MBAを取ろうという計画を捨てて、というんじゃ、あの子、喜んだりはしないはずだよ。

 

   じゃあ、その新聞社で働きながらそっちの勉強もすればいいじゃないかって?

 

   (あっさり一言でかたづけてしまうけど)無理だよ。…そんなこと、できっこないよ、僕には。

 

   そんな〔脳力〕と体力が僕に備わっているとは、とても思えないよ。

 

          ※

 

   そこでMBAコースを取ろうという大学の名前を僕がまだ口にしていないことからも想像できない?

 

   何をって?だから…。

 

   UCRのエクステンション・プログラムの進路相談サービスを通して願書を提出してあったいくつかの大学の中で、(テストと面接を受けさせてくれたのはほかにもう一校あったものの)僕を受け入れてくれたのは、結局、その大学だけだったんだよね。つまり、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)なんかは難しすぎると分かっていたから、最初から外していたんだけど、日本でも名を知られている(と僕が思う)ロサンジェルス地域の大学にはみな、入学を断られてしまっているわけ、僕は。

 

   しかも、僕を受け入れてくれたそのビジネス・スクールの勉強にちゃんとついていけるかどうかだって、ほんとうをいうと、まだ怪しい。いや、いったん入学したあとは懸命にがんばるつもりではいるんだよ。だけど、ついていけるという自信が一〇〇パーセントあるわけじゃない。

 

   そんな具合だからね。たとえ、ロサンジェルス地域のどこかの大学院が僕を受け入れてくれたとしても、自分が勉強と仕事とを両立させられるとはとても思えないよ。

 

          ※

 

   ということで、結局、『南加日報』で働きつづけようかなんていうのは、真紀との関係を優先させて考えれば、ずいぶんばかげた考えなんだよね。

 

          ※

 

   それに、仮に働きつづけるとしての話だけど、ビザはどうするんだ?

 

   まず、第一に…。新聞社で、どころか、(数種のちょっとしたアルバイトを除けば)日本の実社会で働いたことのない僕に〔顕著な資格または能力を持っているワーカー〕に対して発行されることになっているHビザが取得できるはずはない。それははっきりしている。

 

   次には…。もっと重要なことだけど、一九八六年[移民手続改正法]が施行されてからは、法的に許可を受けていない外国人を雇用していることが知れれば雇用主も罰金を課せられるようになり、(以前は常套手段だった)〔いったん雇ったあと雇用主がスポンサーになり従業員に永住権を申請させる〕という(違法ではあったけれどもいちおう黙認されていた)道が事実上閉ざされてしまっている。…いや、移民局に知られないようにと願いながら(背に腹はかえられず、あえて)違法な雇用に踏み切る企業はあるんだけど、雇った従業員のスポンサーにはなかなかなりたがらない(そうだ)。それはそうだよね。だって、従業員の永住権申請書類にスポンサーとしてサインするのは、移民局に〔うちでは外国人を不法に雇っています〕とわざわざ知らせているようなものだからね。

 

   『南加日報』でもおなじだと思うよ。…何年間働きつづけたところで、僕はここではグリーンカード(永住権取得者に発行されるカード)を手に入れることなんかできないはずだよ。不法就労者でずっといつづけることになると思うよ。

 

          ※

 

   働き始めてからほんの数週間後にはもう僕にも分かるようになっていたことなんだけど、『南加日報』社は(僕に出している給料の額からも察することができるように)赤字つづきで、ちゃんとした報酬は出せないのに、日本語セクションでは、どうしても、〔かなりの英語力と日本語力を有し、日本と世界、アメリカ、カリフォルニア、ロサンジェルスの政治や経済、社会に関する相当の知識を持ち、さらには、地元日系・日本人コミュニティーに対して少なからず関心を抱いている、アメリカ国籍か合法的に働くことができるビザ(ふつうは永住ビザ)を取得している人物〕が必要だという、大きな矛盾に悩まされながらなんとか新聞を発行しつづけている、そんな企業なんだ。

 

   大きな矛盾?

 

   ああ、そうだよ。だって、そんな条件を備えている人物が、給料がたとえ一週三〇〇ドル、いや、四〇〇ドルに上がったところで、『南加日報』のために喜んで働くわけはないじゃない。そう思わない?そういう人物だったら、ちゃんとした企業で働けるだろうし、働けば、月額三、〇〇〇ドル、いや四、〇〇〇ドルを求めても高望みだとは思われないいんじゃない?

 

   で、現実に、『南加日報』が掲載した求人広告を見て面接を受けても、僕のほかにはだれも〈働かせてもらいましょう〉とは言ってこなかったんだよね。だからこそ、妥協策として、(〔かなりの〕にはほど遠く、ある程度の英語・日本語力があるだけだけども)とにかく給料の額に不平をいわなかった僕が(有効な〔学生ビザ〕を持っているから、万が一移民局に調査されるようなことがあっても言い逃れができるのではないか、という法的にはずいぶん危なっかしい解釈のもとに)急場しのぎとして雇われたんだよね。

 

   なんでそんな事情を知っているのかって?英語セクションで八年間ほどレイアウト(貼り込み)係をやっている(三十一歳の)前川さんが、そんな裏話を僕にしてくれたことがあるんだ。

 

           ※

 

   そういう状況だから、この新聞社の三代目オーナー社長のフレッド・イマムラさんも、日本語セクションの編集長の児島さんも、(僕が働くのは、結局は九月まで、という頭もあるから)自分たちの方からは僕のビザのことに触れたことはない。触れないで、成り行きまかせにしておこう、という考えのようだ。

 

   実は、働き始めてから一か月ほど過ぎたころに一度(軽い好奇心から)、グリーンカードはどうやったら入手できるのかを児島編集長にたずねたことがあるんだよ。編集長はずいぶん簡単そうに、こう答えたよ。

 

   「ここ何年間か、国務省が毎年、五万五千人に〔抽選〕で永住権を与えているから、それに応募して当たることだな。でなきゃ、アメリカ国籍か永住権を持っている女性と結婚するんだな。横田君、君は若くてちょっとは男前だから、あとの方法がましかもしれんな」

 

   その〔抽選〕永住権についてもう少し詳しく説明してもらったら、当選確率は数百分の一だとかいうことで、まともには当てにできないことが分かったし、僕には真紀がいるから、だれかと結婚してグリーンカードを手に入れるという方法もないんだ、と思ったけど、あのときは、ほら、僕の中で〔働きつづけようかな〕って考えはまだ育っていなかったから、まあ、そんなことはどうでもよかった。数か月あとになってそのことをまた(今度はけっこう真剣に)考えてみることになろうなんて…。

 

   いや、考えてみたところで、どうにもならないんだけどね。

 

          ※

 

   僕がなんとかしなきゃならないのは、真紀とビザのことだけじゃないんだよね。

 

   『南加日報』に残るとしたら、僕の両親にはどう説明すればいいんだろう?両親はいったいどんな反応を見せるんだろう?

 

          ※

 

   僕には姉と兄が一人ずついる。で、二人とも、いろんな面で、というより、実は、ほとんどすべての面で、僕よりは優れているから、両親の目はいつもそちらの方に向けられている…。

 

   実際、姉の緑は日本女子大出で、通産省に勤務している有望な若い公務員と結婚していて、来年(一九九六年)の早い時期に初めての子(つまり、両親にとっては初孫)を生むことになっているし、兄の孝は一橋(大学の経済学部)を出たあと三菱商事に入っていて、(そこで働く父の友人が父に話すところによれば)同期の社員の中では目立って優秀だといわれているらしい。…両親の目がそっちの方に向かうのは自然だろう?

 

   そういうのに比べて僕は、(やはり名を隠しておきたいような)二流の大学の経済学部(経営学科)を(卒業成績は悪くなかったものの)なんとなく出た、英語の適性がたまたまいくらかあったというだけの、親と親戚、世間の注目度が低い、そんな子なんだよね。

 

   だから、僕は、家族の中ではいまでも、(良くいえば)好きなことが一番やりやすい、気楽な子ではあるんだけど…。

 

          ※

 

   でも、僕には分かっていたよ。ほんとうは、両親は努めて僕に視線を向けないようにしてきたんだよね。僕に余計なプレッシャーをかけないようにね。

 

   二人は胸の中でずっと、〈等は努力が少し足りないだけで、やればできる子なのだ〉と思いつづけてきたんだ。見せかけよりはうんと僕に期待してきたんだ。

 

   そもそも、僕が〔等〕という名なのは、(ずいぶん当てつけの強い名じゃないか、と嫌った時期もあったけど)姉の緑と兄の孝に負けないで(賢い子に)育ってくれるように、と両親が願ってつけたからに違いないじゃない。その願いは密かにきょうまでつづいていると思うよ。だからこそ、ほら、アメリカに送り出す形で僕に、姉と兄に追いつくために、いわゆるセカンド・チャンスをくれもしたわけだ。

 

   〔トーフル〕(アメリカの大学への進学を望む外国人向けに実施される英語力テスト)で五七〇を超えることを目標にUCRで勉強していた僕が、その目標を初めの予定より一クォーター短い計二クォーターで達成した際に、(そのことを電話で知らせた僕に)僕がそれまで聞いたことがなかったような、心底から嬉しいといった声で「おめどう」と二人が交互に言ってくれたとき、改めてそう感じたよ。…だから、〈ああ、両親は僕のことをすっかりあきらめていたわけじゃなかったんだ。そうか、これは両親が僕に与えてくれた〔セカンド・チャンス〕だったんだな〉って。

 

   皮肉なことに、そんなふうに早く目標を達成していなきゃ、九月までの余った時間を『南加日報』で働きながら過ごそうなんて考えてはいなかったはずだから、僕はいまみたいにあれこれ思い悩むことにはなっていなかったわけだけど…。

 

          ※

 

   とにかく、そういう事情なんだから、アリゾナに行きもしないうちに僕が、MBAを取るのはよすことにした、なんて言いだせば、いったいどんなことになるやら。

 

   計画どおりにMBAが取得できなかったら、僕は、姉や兄よりは日当たりの悪い人生を送ることが決まったも同然だもんね。…ああ、両親は怒るよ。すごく落胆するよ。愛想を尽かすよ。愛想を尽かして、そうだな、何より先に、すぐに日本に引き揚げて来いっていうよ。そうさせようというんで、僕への送金をとめるはずだよ。

 

   恐ろしい筋書きだよ、これ。

 

          ※

 

   送金をとめられた、としての話だけど…。

 

   いまの一週間二〇〇ドルなんて給料で、僕はやっていけるんだろうか。

 

   一方で、このホテルに毎週六五ドルの部屋代を払いながら?

 

   残りの一三五ドルで、食べて着て?

 

   それに、去年の十一月に(勉学・生活費とは別枠で両親に送ってもらったカネで)買った一九九五年モデルの純白の[フォード・ムスタング]をちゃんと維持しながら?(僕は若いし、カリフォルニア州のライセンスを取ったばかりだったし、車種もスポーツタイプだったから、年間三、〇〇〇ドル近くになった)保険料や(日本の値段に比べればうんと安いけれども、生活空間が広く、動かなきゃならない距離も長いから、結局はけっこうな額になる)ガソリン代を払い、定期点検に出しながら?

 

          ※

 

   ついでに言っておくと、僕がこの(リトル東京のちょっと南、スタンフォード・アベニューのフォース・ストリートとフィフス・ストリートの中間にある)ちっぽけなホテル[エスメラルド]に住もうと決めた理由の一つは、この古い三階建てのホテルが、建物にすぐ隣接する、高いフェンスで囲まれた、監視カメラつきの客用駐車場を持っていたからなんだ。…だって、僕はあの[ムスタング]を自分の宝物だと思っていたし、いまもそう思っているからね。

 

   だから、あいつを手放さなきゃならなくなると…。

 

          ※

 

   それが〔理由の一つ〕ということなら、このホテルを選んだ理由はほかにもあるんだなって?

 

   ああ。…宿泊料が安い。それだね。

 

   いや、実際には、両親の配慮のおかげで、僕の銀行口座にはおカネがたくさん入っていたし、(いまもそうだけど)両親は僕への送金をつづけてくれていたわけだから、部屋代・家賃の高い、もっと安全な場所に住むことだってできたんだけど、あのときの僕はなぜか、自分が学生じゃないあいだは(できることなら)自分の収入だけでやってみよう、と決意しちゃったんだよね。

 

   一種の〔巣立ち願望〕だったんじゃないかな、あのあたりの僕の心の動き方は。…ずいぶん中途半端なものだったにしてもね。

 

   いや、いまでも中途半端のままだから、こんなふうにぐずぐず考えているわけなんだけど。

 

          ※

 

   そうそう、これも忘れるわけにはいかない。というより、一番大事なことかもしれない。…そんな収入で、いままでどおりに真紀とつきあっていけるんだろうか?

 

   できないよね。

 

   すき焼きの牛肉に何十ドルも平気で使ったことが、きっと、遠い昔の夢の栄華物語みたいに思えるようになるはずだよ。週末のリバーサイド通いはつづけるだろうけど、ガソリン代なんかをできるだけ節約しようというので、ラスベガスだとかグランドキャニオンだとかへの長距離ドライブはしだいに避けたがるようになるはずだよ。

 

   なんだか、ぱっとしない未来像だね。

 

          ※

 

   というわけで、初めの計画を放り出して『南加日報』で働きつづけるとなると、(さっき言ったように)両親は僕への送金をとめるだろうから、僕の将来は経済的に途方もないほど暗いものになるわけだ。…たぶん、真紀との関係がつづけられなくなるぐらいに。

 

          ※

 

   いや、だからこそ、ここは慎重にことを考えなきゃならないんだ。…そうなんだ。

 

   おおげさに聞こえるかもしれないけど、僕はいま、人生の岐路に立っているんだから。これは、僕の人生の、最初で最大のターニング・ポイントなんだから。

 

          ※

 

   というふうに少し気負いこみながら、僕は今夜、唐突に、こんなふうに日記をつけ始めた。…というか、先でちゃんとした文章にするつもりで、(急きょ買い求めた)小型テープレコーダーに向かって、言ってみれば、声のメモを取り始めたわけだ。…書いたものにしておけば、(僕が適当だと思う部分を)真紀(それに、もし必要なら、両親)に読んでもらえるし、読んでもらえば、(最後に僕がどう決意するにしろ)僕の心の動きを理解してもらいやすいだろう、と思ったからね。

 

   三月からこれまでに僕の周辺で起こった、いまでも起こりつづけている、さまざまな出来事を(真紀と会うことに決めている週末の二日間は無理だろうけど)毎晩こんなふうに振り返りながら、これからどんなふうに生きていくのがいいかについて、きょうからしばらく、僕はじっくりと考えてみるつもりだ。

 

   フィニックスに移動することにしていた日まで、あと四週間あまり。

 

   『南加日報』をやめるとしたら、その意思を児島編集長に伝えなきゃならない日まで、二週間とちょっと。

 

   -

 

   ALL RIGHTS RESERVED

          ***

 

 

=第2話= 8月16日 水曜日




    くたくたで死にそうだよ。

 

    何てったって、昨夜はこの日記の第一日目だったからね。つい精を出しすぎ、夜更かしをしてしまったし、いったん寝入ってからも、脳の興奮が冷めず、眠りがすごく浅かった。

 

    しかも、きょうはきょうで…。

 

          ※

 

   他人に読んでもらう文章など(学校で教師に提出しなきゃならなかったものを除けば)四か月前まで、この世のどこででも、まるで書いたことのなかった人間に、エッセイでも評論でも解説でも何でもいい、とにかく、まとまった形のものを数時間のうちに、それも、二つも書きあげろなんて、だいたい、むちゃだよね。しかも、書いたものを、購読者の数は知れているとはいえ、ちゃんと新聞と名のつくものに掲載しようというのだから…。

 

          ※

 

   その〔人間〕というのは、もちろん僕のこと…。いくらかは英語を読むことができて、いくらかは英語を日本語に書き換えることができるかもしれないけども、新聞の記者や論説員になるような訓練など一度も受けたことのない僕のこと。日本や世界で起こっていることは少しは理解できるかもしれないけれど、英語を勉強するために一年ほど前に南カリフォルニアにきただけで、まだ地元の政治や経済、社会のできごとなどについては、事実上、何も知らない、ましてや、ロサンジェルス一帯の日系・日本人コミュニティーのことについてはまるきり無知な、僕のこと。

 

   だから、僕は、そんな僕に一日のうちにコラムを二本書かせようなんて考えは、むちゃだ、読者のためにもいいことじゃないと思うって、そう言ったんだけど…。

 

          ※

 

   だけど、編集長の児島さんはそうは思わなかった。僕が〔むちゃだ〕と言い張るのに対して、児島さんはこうこたえたよ。「もっと物分かりがよくなってくれなくちゃ、横田君。ボクが〈いまは何も書く気がしない〉と言ったら、ほんとうに何も書けないんだってこと、もう知っててくれなくっちゃ」

 

   〈またきたぞ〉。僕は胸の中でつぶやいたよ。〈編集長に対して〔物分かり〕をよくしていられるような状況じゃないんです、いまの僕は。三時過ぎから書き始めたコラム[海流]の、明日の自分の担当分さえ、まだ書き終えることができずにいて、ほんとうに困りきっているんですから〉

 

   編集長が〔書く気がしない〕といいだしたのはあれが初めてじゃなかったし、実際に、いったんそう口に出してしまえば、もう、何があっても絶対に何も書かない人だってことは、とっくに分かっていたんだよ。だけど、きょうはなぜか、みょうに、おとなしく譲りたくなかったんだ、僕は。

 

          ※

 

   編集長はなんで書く気がしなかったのかって?

 

   だから、そういいだすときはいつも、あの人はすでに(少なからず)アルコールに酔っていて、気持ちがすっかり〈さあて、いつものバーでもう何杯かひっかけようか〉という方に飛んでしまっているんだ。

 

   児島さんはつづけた。「それに、きょうの新聞、あのコラムなしで出すわけにはいかないし…。そうだろう?だって、戦争が終わった年の翌年、一九四六年に『南加日報』が再刊され、[海流]欄が創設されて以来、あのコラムが抜けたことは一度もないんだよ。ほぼ五十年ものあいだ、だよ。だから、常に、だれかが進み出て『日報』の偉大な伝統を守らなきゃいけないんだ。分かるよね」

 

   僕は分かりたくなんかなかった。…いや、〔『日報』の偉大な伝統〕はできれば守りつづけたいものだ、とは思っていたんだよ。だけど、〔だれかが〕、つまりは、きょうは僕が、というところが僕にはどうも納得できなかった。

 

   だから僕は、大学でリポート・ペーパーを書かなきゃならないときに役立つだろうというので日本から持ってきていた、日英両語が書ける(この新聞社で日本語の文章を毎日書くようになってからは、その便利さに心底から感謝するようにさえなっていた)自分のワープロのスクリーンを、(演じられる限り)かたくな(そうに)に見据えつづけていた。

 

          ※

 

   児島編集長は、前に酔ってていたときもそうだったけど、みょうにがまん強く、饒舌だった。「それに、辻本さんも光子ももういないし…。どこかへ行っちゃって…。どこか?…ああ、そうだったな。この時間だから、辻本さんはいつものように、日本人町のどこかのレストランで早めの夕飯を食べているに違いないな。で、光子はというと…。そうか、日本舞踊のなんとか流のなんとか一派の年次総会か何かがあるというんで、そいつを取材してくるようにって、ボクがいいつけたんだったな。…だったよね?」

 

          ※

 

   そうだな…。話をそらせて、辻本さんと光子さんのことをちょっと説明しておくよ。辻本さんというのは、(いまは、コミュニティーの行事予定を記事にすること、編集員が書いた原稿を校正すること、その二つが日本語編集室での主な仕事になっている)〔編集顧問〕と呼ばれている、『日報』で四十五年間働きつづけてきた、七十六歳の温厚な紳士で、光子さんは、ときどき急に学生みたいな変に軽薄な話し方をするのでほんとうの年齢が判然としない(目じりのしわのより具合などから判断すると、たぶん、三十五歳前後の)ベテラン取材・翻訳記者だ。

 

          ※

 

   ついでに、状況が想像しやすいように、日本語セクションの編集室がどんなふうになっているかについても、少し触れておくね。

 

   日本語編集室には机が六つ備えてある。そのうち、西側の窓のない壁に向けてある二つは、上に本棚が乗せてあって、事典や本が(旧漢字で印刷されたずいぶん古いものも含めて)何百冊か雑然と積まれたり置かれたりしているだけで、いまはだれも使っていない。部員たちは残りの四つを部屋の中ほどに〔田の字〕型に並べ、編集長と辻本さん、光子さんと僕がそれぞれ向かい合う、つまり、編集長と光子さん、辻本さんと僕が隣同士になるような形で使っている。

 

   ちなみに、もう一方の、おなじく窓のない(編集長と光子さんが背を向けている)東側の壁沿いには、黒く塗装された年代物のスチール製の大きなキャビネットが三つ置いてある。中には、一九四六年の復刊後の数年間に読者から寄せられた投稿や投書などが、貴重と思われるほかの資料といっしょに保管してある、ということだけど、僕は、中の資料をだれかが手に取っているところを見たことがないし、僕自身も扉を開けてみたことはまだない。

 

   いや、中から少し資料を引っ張り出して、そいつを読んでみようか、と思ったことは(特に、この一か月ほどのあいだに)何度もあるんだよ。でも、そういう資料って、〔禁断の木の実〕というとちょっと違ってしまうかもしれないけど、ついふらふらと触れてしまった人間を、思いもしていなかった方向へぐいぐい引きずり込んでしまう、そんな魔力があるんじゃないかって気がするものだから…。

 

   もし、この新聞社で働きつづけることに決めたら、すぐにもキャビネットの中を覗いてみるよ。

 

   東側の壁の向こうは英語セクションの編集室だ。ただし、壁にはドアがないから、行き来する際には、南側の〔工場〕か、北側の受付兼事務室、新聞発送室を経由することになる。

 

   で、あのとき、編集長は自分の机を離れて、光子さんの机まで、つまりは、僕の表情を真正面からうかがうことができるところまで、出張ってきていたんだよね。

 

          ※

 

   話をもとに戻すと…。

 

   僕はワープロのスクリーンから視線を離して、編集長の顔を(ほとんど)にらみつけるように見返してしまったよ。〈〔だったよね?〕はないんじゃないですか〉と思いながら。

 

   編集長は顔を大きく崩してにたりと笑った。たちまち嘘と分かるようないいかげんなことを僕に言ってしまったことを、少しは恥ずかしいと思ってのことだったと思うよ。だって、その〔年次総会か何か〕というのは、ここ数年間編集長が(社内のほかの人たちがいうには)〔ずいぶん親しくしている〕師匠が開いたもので、あの人がそれを忘れるはずはなかったのだから。

 

   なんて遠回しにいうことはないんだよね。これは僕の私的な日記なんだから、はっきりと、〔編集長の愛人である三十八歳の日本舞踊の師匠、スージー・ナカザキさんの一派が開いたものだった〕と言っても、どこからも苦情は出ないんだよね。

 

   愛人?…そうなんだ。社内のほかの人たちは、この五十五歳の編集長は、まだ日本にいた十五年ほど前に日本人のおくさんと離婚していて、いまはともかく独身なんだから、〔不釣合いに若い〕ガールフレンドを何人持とうとあの人の勝手だ、と思っているみたいだけど、ほんとうはそうじゃないんだ。法的にはあの人はまだ、その奥さんと離婚してはいないんだ。というより、いま神奈川県に住んでいるその奥さんが離婚届にどうしても判を押してくれないんだ。だから、スージー師匠は、編集長にとっては、言葉のニュアンスを大事にして言えば、〔愛人〕ということになるはずなんだ。

 

   そんなことをなんで(〔社内のほかの人たち〕じゃなくて)僕が知っているのかって?

 

   師匠が直接僕に話してくれたからなんだけど、そのことはまた別の機会にしゃべることにするよ。それはそれで、けっこう長い話になりそうだから。

 

   そういえば…。あんなふうにしらばくれたところを見ると、僕がそこまで知っていることを、編集長は知らないんだね。スージーさんは、そんな話を僕にしたってことを、編集長にはまだ告げていなかったんだね、きっと。

 

          ※

 

   もう一度、話をもとに戻し直すと…。〔書く気がしない〕と言いだしたときの編集長は(アルコールにあおられもして)、数時間後にはスージーさんに会う、会えば、〔年次総会か何か〕に記者を派遣してくれた(つまりは、明日には自分のことが記事なり、写真つきで新聞に掲載される)ことに感謝するスージーさんが自分を夜通し熱くもてなしてくれるはずだ、などと胸を高鳴らせていたんだと思うよ。

 

   え、下司の勘ぐり?

 

   でも、スージー師匠は、(ほかの流派の師匠たちの数倍の頻度で)『日報』に記事が出るたびに、(いつも光子さんと決まっている)担当記者に(ふつうは二〇ドル札一枚みたいだけど、ほら、僕と大きくは異ならない、あの程度の給料しかもらっていないはずの光子さんにとってはけっして小さな額ではない)〔お祝儀〕を渡すだけではなく、二、三日後には、[三河屋]で買った和菓子の大きな折りを自分で新聞社に持ってきては、「どうぞみなさんでお食べになって」などといいながら、〔工場〕の人たちにまで最大級の愛想を振りまき回るほどの、というのが十分じゃなかったら、端的に、そもそも(僕の目には、男としての魅力なんかあまりなさそうに見える、身長が一七〇センチメーターほどで、半分白髪頭、着るものや履くものに無頓着で趣味もよくない、タバコとコーヒーで歯がきいろくなっている)児島編集長とそんな仲になるぐらいの、大変なメディア好きなんだ。だから、自分のことが記事になる前の晩となると…。

 

   やっぱり、下司かな?あのときの編集長の表情はどうしてもそんなふうに見えたんだけどね。

 

          ※

 

   スージー師匠が新聞社にやってくるのは、だけど、みんなに礼をいうためだけじゃないんだよ。社内をひとめぐりしたあと師匠は、自分のことが書かれた記事が載っている新聞を五〇部ばかりちゃんと持って帰るんだ。そのほとんどは弟子たちに渡してそれぞれ保存させるらしいけど、五部だけは決まって、日本にある一派の家元に郵送するんだって。…なかなか現実的だろう?しっかりしてるだろう?

 

   スージーさんが社内を駆けめぐっているあいだ編集長はどうしているかといえば、たいがいは、[AP](アソシエイティッド・プレス)が刻々送ってくるニュースなんかを、「日本関係のニュースがきょうはまったく入ってこないじゃないか」などとつぶやきながら、やたら難しげな表情で読んだりしているわけだ。

 

          ※

 

   そんな調子だから、ほかの流派の師匠たちはスージーさんに対して、けっこう大きな反感、というのでなければ、嫉妬心を抱いているみたいだよ。光子さんがほかへ取材に出かけていたために僕が行かせられたある流派の名取祝いの会では、「招待状は出してはみたけど…。おたく、うちにきてくれることもあるのね」なんて、新米記者の僕が、だよ、面と向かって嫌味をいわれたことがあるぐらいにね。

 

   僕は「〔コミュニティーに奉仕する〕が『日報』のモットーだって児島編集長がいつも言っています」といささか的外れな返事をするのが精一杯だったよ。…型どおりの取材をすませ、(それでも、コミュニティーの習慣どおりに、いちおうは用意されていた)〔南加日報記者様〕という名札つきの席につき、たいがいは和装だった老若の婦人たちに混じって、出された中華料理をもくもくと食べ始めてからも、僕は、『日報』の(どう考えても)公平だとはいいがたい取材姿勢をひたすら反省するばかりで…。

 

   つけ加えておくと、隣に用意してあった〔日米新報記者様〕の席にはあの日、最後までだれも座らなかったよ。

 

          ※

 

   でも、そんな嫉妬があることからも察しがつかない?

 

   『南加日報』は、三十年ほど早く創業した(いわゆる)老舗でなかなか商売じょうずの、発行部数が二万五〇〇〇といわれている『日米新報』と比べると、ずいぶん見劣りがする、読者数が一万ぐらいの小さな新聞なんだけど、(少なくとも)日系・日本人コミュニティー内の一部の人たちには、けっこう大事なメディアだと思われているんだよね。もっとも、それも、英語セクションのレイアウト係の前川さんによると、「『日米新報』は〔公正を期するため〕とかなんとか言って、私的な団体の私的な行事などにはほとんど紙面を提供しないし、ローカルの日本語テレビ局二社にはそんな(名取祝いの会みたいな)小さな出来事に割く時間帯などないから、自然に、一部の人たちが『日報』を当てにするようになるだけだよ」ということになるんだけどね。

 

   そうそう、その『日米新報』が長く〔中立〕(前川さんがいうには〔無難第一〕)を新聞の性格にしてきたのに対して、『南加日報』は創業以来、コミュニティー内で(〔奉仕の〕ではなく)〔論説の〕『日報』と呼ばれてきたんだそうだ。…編集長が一度、「カンバンは時によりさまざまに移り変わってきたけれども、[海流]などのコラムを主な舞台にしてだな、初代社長の今村徳松や代々の論説員たちが紙上で張ってきた、優れた論陣が評価された結果の、これは、実に名誉のある呼び名なんだ」という具合に僕に説明してくれたことがあるよ。

 

   そんな〔名誉のある呼び名〕ときょうの〔書く気がしない〕騒ぎはまるで対応していない、と僕は思うんだけどね。

 

          ※

 

   ということで…。

 

   編集長が仕事中のあんなに早い時間にグラス酒をしないでいられなかったのは、つまり、そういうわけだったんだ。あの人の頭の中はすでに、スージーさんのことで、というより、数時間後にスージーさんと過ごす一夜のことで、いっぱいになっていたに違いないんだ。そんな一夜が楽しめる自分の幸運をアルコールで祝わずにはいられなかったんだ。

 

   なんでそんなふうに決めつけるのかって?

 

   余計な世話というものなんだろうけど…。あの師匠は実は、(もう一度いうと、冴えない日本語新聞社の、五十五歳にもなる)編集長なんかを相手にしているのがはたの者には理解できないぐらい(というか、さっきも名前を出した前川さんが、ほかの六つには触れないままだったけど、二人の関係を〔日系・日本人社会の七不思議の一つ〕と言ったことがあるぐらい)の、なかなかの美人なんだ。

 

   いや、もしかしたら、飛び切りの美人というのじゃないかもしれないけれど、色が白くて、離婚した夫とのあいだに十三歳と十一歳の娘がいるというのに、肌に良いつやがあって、みょうに体の形がよくて、〈離婚しているからには、この人、いまは独り身なんだ〉というような見方で見ると、何かを訴えるようなかげが目つきに見えたりして、そう、ひと言で言ってしまえば、すごくセクシーな女性で、(もちろん、真紀がいるから、僕自身はそうは思わないけど)男だったらだれだって夜をいっしょに過ごしたくなりそうな、そんな雰囲気をいつもたたえているんだ。

 

   それに、父親が第二次世界大戦後に(台風の被害を受けた鹿児島県から特例〔難民ビザ〕で)移民してきた人で、母親の方も、父親の親戚がおなじ鹿児島からアメリカへ、なんというか、送り届けた人だそうだから、師匠も見かけはすっかり日本人なんだけど、しゃべる日本語はいわゆる片言で、そのバランスの取れていないところにへんな愛嬌があって…。

 

   で、そんな女性だから、もうすぐそんなふうに会えるとなると、だれだって早手回しに興奮するんじゃないかと、まあ、僕はそう考えたわけだ。…しかも、児島編集長は、かなり、というよりは、むしろ、新聞人としては豊かすぎる類の、つまりは、使いみちを誤るとちょっと危ないことになりそうだなって僕が感じるぐらい、強烈な想像力、空想力を持った人だから。

 

   いや、スージー師匠については、僕もかなりの〔想像力〕を働かせてしまったようだけど…。

 

          ※

 

   「流派のことは、まあ、わきに置いておいて」と編集長はつづけた。「とにかくそういうわけだから…。辻本さんも光子もいないわけだから、いまコラムを救うために起ちあがらなければならないのは、ほかのだれでもない、君だよ、横田君。いいね?」

 

   〔いい〕わけはなかった。〔なければならない〕とはなんて言いぐさなんだろうと思った。しかも、編集長はまだ、あす君が担当することになっているコラムは代わりに自分が書くから、とは言っていなかった。そいうことをいう人じゃないってことも、僕は分かっていた。だから、僕はこういい返したよ。「そんなふうには、僕、起ちあがれませんよ、編集長。いますぐ何か一つ書きあげるなんて、無理ですよ。僕の能力以上のことは求めないでください。僕自身のあすの分に何をどう書いたらいいかさえまだ分からないでいて、いま、ほんとうに弱りきっているところなんですから…。あすの自分のことだって怪しいのに、編集長の代わりにいますぐ何か書きあげる余裕なんか、僕にあるはずないじゃないですか」

 

   編集長の顔にまた、あの〔にたり〕が浮かんだ。

 

   僕は(表情には出さなかったと思うけど)ちょっとひるんでしまったよ。…実をいうと、僕はこの〔にたり〕が苦手なんだよね。なぜといって、この笑いには、周囲の者たちを催眠術にかけてしまうような、不思議な魅力があるからね。日本語編集室でふだん見せる、どちらかというと、そう、ちょっと権威主義的な、高飛車なもののいい方はもっぱら仕事用で、もともとの自分はお人好しのおじさんなんだよ、とでも言っているような感じで…。ずるい、という気がしないでもないけど、その〔お人好し〕な感じが全部つくりものだとも思えないんだよね。

 

          ※

 

   で、その〔お人よしのおじさん〕顔で編集長は言った。「そこだよ。君のいいところは。ボクは好きだな、君のそんなところが」

 

   僕は、どんなところであれ、そんな状況のときに、そんなふうな編集長には、あまり好かれたくはなかった。

 

   あの人はこうつづけた。「君はこれまであのコラムを一度もミスったことがない。偉いよ。君はほんとうに責任感の強い青年だ。その責任感は君の宝だな。おおいに誇っていい宝だ。いや実際に、数か月前に君が面接を受けにきたときすでに、ボクは一目でそのことを察知したものだったよ。なにしろ、君は、ボクがそれまで見てきた多くの若者たちとはかなり違っていたからね。…その、なんというか」

 

   「そう言っていただいて悪い気はしませんが…」。その面接の際に編集長に〈このカリフォルニアにやってきて、ちゃんとした目的もなしにただぶらぶらしているだけの多くの若い連中とは、君はいくらか違うみたいだな〉といわれたことを、ずいぶん遠い過去のことのように思い返しながら、僕はつづけた。「でも、責任感だけでは、一度に二本のコラムは書けませんよ、編集長。いえ、二日間に二本だって無理ですよ。準備に時間がかかるし…。一本書きあげるのに何時間もかかるんですから。僕は、とにかく、書くのが遅いんですから。そのことは、編集長、とっくにご存じじゃないですか。遅いのが自分で分かっているからこそ、いまからあすのコラムに備えようとしているんです。もう一本なんて、書けるわけがありませんよ。アイディアもストーリーも、何も持ち合わせがないんですから。それに…」。つづければきょうの編集長への嫌味か皮肉になってしまうな、と感じながらも、僕は言った。「それに、あしたの分をきょう書きあげておけば、あしたは新聞が早くできあがって、〔工場〕で働く(タイピストの)田淵さんや(日本語セクションのレイアウト係)江波さんたちが助かるわけでしょう?」

 

          ※

 

   僕があすのコラムの準備をしていたのには、正直にいうと、編集長に言ったことにほかに、もう一つ理由があったんだよね。

 

   それは、僕がロサンジェルスに移ってからはずっと、真紀と僕は、木曜日を電話で長話をする日にしていたこと。…ほら、真紀の好きな(NBCが夜八時から三十分間放送している)[フレンズ]をそれぞれ自分の部屋のテレビで見ながら、笑い合ったり、ちゃんと聞き取れなかった会話の中身を〈ね、いま何を言ったの?〉〈何がおかしかったの?〉などとたずね合ったり、もっと大事なこととしては、そう、次の週末にはどこで何をして過ごそうかと話し合ったりして過ごす日に…。

 

   だから、僕は、あすはできるだけ早くホテルに帰って、([ヤオハン・プラザ]のスーパーマーケットで買った弁当か何かで)早めに夕食をすませ、早めにシャワーを浴び、そのあと(僕が真紀に電話をかけることになっている八時少し前まで)、三日目になるこの声の日記をできるだけつけておきたかったわけ。

 

          ※

 

   ついでにしゃべっておくと、僕は毎日、午前七時までには出社することにしているんだよ。

 

   出社し、日本語編集室の自分の机の上にワープロを下ろすと、すぐに、英語編集室の前に設置してある[AP]のプリントアウト・マシーンを覗く。[AP]の記事と写真は二十四時間電送されつづけているから、前夜から早朝にかけて入ってきたものの中に、何はともあれ、まず、日米・日本・日本人・日系人・ローカル自治体関係のものがありはしないかと探すためだ。

 

   写真はふつう、全部で数十枚になっている。でも、チェックし終えるのにそれほど時間はかからない。…特に、日米・日本関係の写真となると、(阪神・淡路大震災の際にはすごい数で入ってきたそうだけど、[ドジャーズ]の野茂が格別にいい投球をした日や日本の国会や永田町で何か特別のことがあった日、有力政治家が訪米しているあいだなどを除けば)ふだんは、そう数多くは入ってこない。

 

   これに対して、紙の長い帯となって入ってきた記事のチェックは簡単じゃない。第一にはニュースの発信地に、第二には記事の中の人名と地名に気を配りながら、大急ぎで、いわゆる斜め読みをして、『日報』で使えそうな記事を探し、見つかれば、その部分を切り取るんだけど、なにしろ、ひと晩に(たぶん)数百という数のニュースが全米、全世界から送られてくるわけだから、けっこう時間がかかってしまう。見落としにあとで気づくことも多い。…児島編集長や、自ら英語セクションの編集長でもあるフレッド・イマムラ社長、英語編集員のデイブ・イワタニさん、英語欄レイアウト係の前川さんがあとで見なおしてくれるから、実害はほとんどないんだけど、見落としが分かると、やっぱり、ちょっとしょげてしまうよ。

 

   使える写真と切り取った記事は、習慣を尊重して、児島編集長の机の上に置くことにしている。

 

   でも、それ、たいていは、編集長より早く出社してくるイマムラ社長が、英語欄で使えるものがあるだろうから先に目を通しておこう、というんで、いったん英語編集室の方に持ち去っていくことになるんだけどね。

 

   英語セクションがほしいのは、何より先に、日系人関係のニュース。…公的人事、事件、事故。内容は問わない。日系人の名前が出てくるニュースなら、どんなものでもかまわない。…英語欄の読者たちはたいがいは[ロサンジェルス・タイムズ]なんかも読んでいるはずだから、そういった新聞が無視したか、ごく小さくしか扱わなかった記事が見つかれば、それがちょっとした〔特ダネ〕ということになる。英語欄の読者に日系新聞の存在価値を知ってもらえるいいチャンスでもあるわけだ。

 

          ※

 

   そんなことをしているうちに、[共同通信社]から日本語のニュースがファックスで入り始める。

 

   僕はその中から『日報』の日本語欄でその日使えそうな記事を選び出し、その部分をはさみで切り取り、これも児島編集長の机の上に置く。…あとで出社してきた編集長がまず目を通し、掲載する記事を最終的に選び出して、それぞれの記事に見合った見出しをつけ、記事の方は田淵さんたちタイピストに、見出しの方は写植係の相野さんに渡す。

 

   この切り取りが終わるころまでには、出勤途中にある[セブン・イレブン]で買ってきた[ロサンジェルス・タイムズ][ロサンジェルス・デイリーニュース][USAトゥデイ][ウォールストリート・ジャーナル]を社長が僕の机まで持ってきてくれるから、僕は、やはり発信地や人名などに気を配りながら、見出しと(それがついていれば)リードを拾い読みする。[AP]のときとおなじように、『日報』の日本語欄で使えそうな記事を探すわけだけど、ここでは(特に、[ロサンジェルス・タイムズ]と[ロサンジェルス・デイリーニュース]の中のカリフォルニア州ロサンジェルス郡、ロサンジェルス市、さらにはその周辺諸都市に関係した(この二社が独自に取材した)ニュースが重要な対象だ。南カリフォルニアに住む日系・日本人にも関わりのある、たとえば、法律・交通規則・税制などの改正、社会的事件、事故、災害などについてのニュースをあとで、〔[ロサンジェルス・タイムズ]が報じたところによると〕というような形で『日報』の記事にさせてもらおうというわけだ。

 

   これも簡単ではないよ。見出しには、(英語の新聞を読みなれている人たちにとっては〔改まって何を言っているんだ?〕という類の常識なんだろうけど、〔過去形のかわりに現在形を使う〕〔過去形に見えるものは受け身の過去分詞〕〔be動詞はめったに使わない〕〔冠詞はほとんど省略する〕などの)独特の書き方があるし、短い言葉に出来事の核心が集約されているわけだから、僕程度の英語力や社会知識じゃ本文の内容が推定できないことがしょっちゅうなんだ。

 

         ※

 

   僕が新聞を読んでいるころに、辻本さんがやってきて、日系コミュニティーの団体や教会・寺院などから郵送されてきた行事予定などを記事の形に手直しし始める。…これは、昔からの定期購読者を確保しつづけるための重要な仕事なんだよ。

 

   日本からきている(いわゆる)駐在員の奥さんで、ちょっとは頭と体を動かしていたいからと、なんと無給で働いている(らしい)和文タイピストの伊那さんが、コーヒーがはいったと辻本さんと僕に知らせてくれるのもそのころだ。…だけど、ほんとうに無給だとしたら、他人の好意というか善意というか、そういったものにそんなふうに平気で甘えていられるイマムラ社長は(ある意味では)すごい人だよね。

 

   編集長が顔を出すのは、だいたい九時ごろになる。…二日酔いがひどすぎて、正午すぎになるようなこともけっしてまれではないけどね。

 

   編集長がそんなふうにひどく遅れる朝は、(以前はその役をしていた辻本さんに強くすすめられて、このごろでは)僕が、[共同通信]が送ってきた記事の中からその日の『日報』に掲載したいものを選び出し、それを〔工場〕に渡している。…タイピストの田淵さんや伊那さんたちをただ待たせておくわけにはいかないからね。

 

   あとで出てきた編集長が、僕が選んだ記事を〔『日報』向きではない〕と言ってボツにしたことはまだ一度もない。

 

   もう一人の編集員、光子さんは(編集長が二日酔いじゃない日には)たいがい編集長よりも遅くやってくる。コミュニティーの行事取材が前夜にあった朝などは、いよいよ遅くなる。編集長は、ふだん光子さんを自分の都合に合わせて便利に使っているからだろう、光子さんの遅い出勤を(僕が知っている限りでは)叱ったことがない。…いや、前夜の仕事について残業手当が支給されるわけではないことや、会社が光子さんに払っている基本給が(たぶん)あきれるほど少ないことを思えば、編集長でもあまり強い態度には出られない、という面もあるのかもしれないな。

 

          ※

 

   〔工場〕について少し説明しておくね。

 

   『南加日報』社には実は、(『日米新報』社と違って)もう印刷工場はないんだ。文選(活字拾い)作業も輪転機のうなる音もないんだ。いまとは別の場所に社屋があった一九八四年までは、社内に印刷機を備えて自社印刷をしていたんだけど、老朽化した輪転機がしばしば故障するようになったし、高齢になって引退した文選植字工のあとを若い人で埋めることも(発行部数、つまりは、広告収入が伸びないから十分な賃金が出せないという事情もあって)難しくなる一方だったので、この際、発行工程を一気に〔軽量化〕してしまおうというので、版下づくりは和文タイプライターと写植機を使って社内でやるものの、印刷は外注することにし、ことのついでに、オフィスも(リトル東京をちょっと東に外れた)いまの場所に移したんだそうだ。

 

   もっとも、(六十二歳のタイピスト)田淵さんから一度聞いた話によると、この説明はいわば〔表向き〕で、ほんとうは、運転資金を調達するために会社の土地と建物を売却する必要に迫られたという事情がさきにあって、それでは、社屋をよそに借りることになるのを機に、輪転機も放棄し、費用と人手のかかる活版印刷はいっさいやめてしまおうということになったんだって。

 

   もうワープロの時代に入っていたし、和文タイプができるという人はなかなか見つからなかったけれども、それでも、活版印刷とは違ってインクに汚れるわけではなし、教えてもらえるのならタイピストとして働いてもいい、とい人はなんとか数人集めることができたんだそうだ。…文選植字工から転身してタイピストになったのは田淵さんだけだったらしいよ。

 

   田淵さんたちが働く部屋をいまでも〔工場〕と呼んでいるのは、だから、和文タイピストの人たちを植字工に見たててのことなんだよね。

 

          ※

 

   英語セクションのことにも触れておくと、こちらでは、フレッド・イマムラ社長と(先代今村徳一社長のころから編集の仕事をつづけている、無口な二世の老人)デイブ・イワタニさんの二人が、(オフィス移転の際に中古で導入した、いまではすっかり旧式となっている)コンピューター二台を使って、記事を打ち出し、見出しをつくっているから、〔工場〕に当たるものは別にないんだ。

 

   そういえば…。三月に面接を受けにきたとき、僕は英語編集室には案内されなかったんだよね。だから、この新聞社にはコンピューターなんか一台も備わっていないんだって、思い込んでしまって…。

 

          ※

 

   田淵さんや伊那さんたちが和文タイプライターで打ち上げた記事と相野さんが写植した見出しを台紙にレイアウトし貼りつけるのは(三十八歳の)江波さんだ。

 

   日本語ページの割りつけに間違いがないかどうかは、(夕方に取材がない限りは)朝遅く出社してくるかわりに夜はけっこう遅くまで働いているらしい光子さんが見る。(やっぱり超過勤務手当なしで)残業して、翌日(や土曜日)用に記事を書きためている僕や、いつもどおりに早い夕食を終えて戻ってきた辻本さんが手伝うことも少なくはない。…この段階になってタイプや写植の間違いに気づくことがあるから、それに備えて、田淵さんと相野さんもまだ残っている。用意した記事や写真だけでは紙面が埋まらなくて、だれかが急きょ短い記事を書き足すこともある。

 

   日本語セクションでも英語セクションでも、版下は(早ければ五時半)たいがいは六時半ごろまでにはできあがっている。

 

   (僕の仕事はここまでだから、あとのことは自分の目では見たことがないけど)そろった六ページの版下は辻本さんが毎日、リトル東京から遠くないチャイナタウンの少し北にある中国語新聞社に運び、そこの工場で写真製版してもらい、(その新聞社自体の新聞印刷が始まる前に)印刷を終えてもらう。刷りあがった新聞を受け取りにいくのは、発送係として雇われているメキシコ系の青年たちだ。新聞は夜十時ごろには会社に届いている。…版下製作までの過程がとっくにコンピューター化され、印刷も自社内でやっている『日米新報』が毎日、午後三時ごろにはできあがっているのに比べると、ずいぶんのんびりしたやり方だけど、イマムラ社長はずっとこのままでいくつもりのようだ。

 

   『新報』とおなじように、『日報』も発行部数のうちの大半を郵送で読者に届けている。で、その十時ごろから、(新聞のふちに宛先をプリントし、新聞を宛先の郵便番号ごとにそれぞれ違った布袋に詰め分けるという)発送作業が始まる。メキシコ系の青年たち数人を使いながらこの仕事をやるのはジミー・スギさんという(そんな夜の仕事をしてもらうのが気の毒に思えるぐらい)かなり年輩の日系二世だ。昔、イマムラ社長の祖父である『南加日報』の創業者、今村徳松に〔助けてもらったことがあるので、恩返しのつもりで〕(不動産取扱業から引退したあと)この仕事を引き受けたということだ。…もしかしたら、タイピストの伊那さんとおなじように、スギさんもただ働きしているのかもしれない。

 

   袋詰めにされた新聞は郵便局に運ばれ、ロサンジェルスとその周辺だと翌日には読者のところに配達される。…僕が二月にたまたま『日報』を見つけた[旭屋書店]などには翌朝、(僕がまだ声を交わしたことのない)佐藤という(やはり高齢の)人が届けている。この人は、太平洋戦争開始前にこちらに渡ってきた一世だそうだ。

 

          ※

 

   時間を朝のことに戻すと…。

 

   出社してきた児島編集長は(僕が切り取っておいた)[AP]のニュースと(イマムラ社長が買ってきてくれていた)新聞数紙の記事の中から、その日はどれを翻訳するかを(ここは、いかにも経験豊かな編集人らしく、実にすばやく手際よく)決める。(日系・日本人向けの)いいニュースがほとんど見つからないという日も少なくないけど、僕にはだいたい二つのニュースが回ってくる。(二日酔いなどが原因で)編集長が遅れる日は、僕が自分で選んだものを(辻本さんの意見を聞いたうえで)とりあえず翻訳し始める。光子さんが受け持つ数は、その日にコミュニティー取材があるかどうか、前夜あったかどうかで決まる。

 

   それからの僕は(ふつうは午後三時ごろまで)〔頭の中が戦争〕といった状態で時間を過ごすことになる。

 

   なにしろ、こちらでは特大ニュースだった、たとえば、三年前の〔ロサンジェルス暴動〕のきっかけになった、LAPD(ロサンジェルス市警察)の警官たちによるロドニー・キング氏殴打事件のことでさえ、僕の知識はないに等しいようなものなんだから、ことが小さいものになると、僕は、背景事情を何も知らないまま翻訳にとりかかることになるわけだ。それでは、表面の英語はある程度読むことができても、具体的に何がいわれているのかが分からない。分からないから、結局は日本語にできない。…ことに、働き始めてから間もないころは、数分おきに何かを質問するといった状態で、編集長と辻本さんにはずいぶん迷惑をかけてしまった。

 

   そういえば、(もうだいぶ慣れたけど)記事の書き方が日本とアメリカとではおなじじゃないことにも、初めのうちはひどく悩ませられたな。だって、こちらの記事は必ずしも(というよりは、ほとんどが)例の〔いつ・どこで・だれが・何を・どうした〕方式で始まらないんだから。…日本式に書きなおすためには、まず、オリジナルの記事の中からその五つに要素を探し出さなきゃならないんだけど、それだけのためにだって、ずいぶん時間がかかったんだよ、初めのころは。

 

          ※

 

   ところで、『日報』が([海流]のほかに)すごく力を入れているのは、第三面の〔コミュニティーもの〕と〔翻訳もの〕だ。ここだけは、どんなことがあっても(つまり、発行部数やページ数、広告の量、刷りあがりの時間の早さなんかでは勝てないにしても)『日米新報』には負けたくない、という雰囲気が〔工場〕にいたるまで漂っているほどなんだ。

 

   というのも、世界とアメリカ関係の記事を第一面に、日本関係の記事を第二面に、というページ構成は原則として『新報』とおなじだし、この二ページは(『新報』の方は時事通信社の記事も使うところが違っているけど)だいたいは[共同通信社]が送ってくるニュースで埋めることができるから、見出しのつけ方や扱いの大きさ、レイアウトなどを工夫する余地はあるものの、『日報』としては特には腕のふるいようがないわけだ。[AP]が朝から午後にかけて送ってきたニュースを緊急に翻訳して入れ込むこともなくはないけど、そういうのは、あまり頻繁に起こるわけではないんだよね。

 

   そういうのに対して、第三面は([共同]や[時事]がカバーしない)ローカルニュースのためのスペースだから、『日報』と『新報』がそれぞれに〔持てる力〕を発揮して見せなければならないところだ。編集長の真価が問われる(と編集長自身も思い込んでいるらしい)ところなんだ。だから、第三面の〔トップ記事〕を書くのは(よほどのことがない限り)児島編集長になる。

 

          ※

 

   〔翻訳もの〕というのは、[AP]などから得た英語のニュースを日本語に翻訳して掲載する記事のことだ。(日本の通信社が目を向けないような)アメリカ、カリフォルニア州ロサンジェルス郡、ロサンジェルス市、さらにはその周辺都市に関係のある政治・経済・社会的事件などのニュースの中から、南カリフォルニアに住む日系人と日本人が知って(あるいは興味と関心を持って)いた方がいいと思われるものを選び出し、日本語にするわけだけど、多くのニュースの中から特に日系・日本人に向いていそうなものを〔トップ記事〕用に一つ選び出し、(背後の状況に関する情報があまり入っていないかもしれない)読者に分かりやすい記事にするのは、(少なくとも、僕の目には)簡単じゃないようだよ。第一には、日系・日本人の意識の持ちようや暮らしぶりをよく知っていなければならないし、第二には、翻訳者自身が(大は世界のことから小は地元の日系・日本人コミュニティーのことにいたるまでの)社会の動きに精通してなきゃならないからね。

 

   一見したところよりも勉強家なのか、『日報』で長く記事を書いているから自然にそうなったのかは僕には判断がつかないけど、編集長はなかなかいい仕事をしていると思うよ。『新報』と読み比べてみて、(ニュースの選び方や焦点の当て方などで)〈第三面の〔トップ記事〕はきょうもうちの勝ちだな〉と思う日がずいぶんあるからね。

 

          ※

 

   一方、〔コミュニティーもの〕というのは、南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティー内での出来事、行事、事件などに関する記事のことだ。この方面はふつう、光子さんが受け持つことになっているわけだけど、〔トップ〕にする値打ちがある(と編集長が判断した)ものは、編集長が自ら取材をして記事を書くんだ。

 

   あの人が真価を発揮するのは、実をいうと、こちらの方なんだよね。

 

   そうだな…。僕が知っている範囲では、四月の[ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]の〔内紛〕事件の記事が代表例だな。熱の入れ方といい、記事のでき具合といい、あのときの編集長の働きはとにかくめざましいもので、第三面の〔トップ〕は数日間、『新報』を圧倒しつづけたよ。…記事の内容を支持する電話が読者からたくさんかかってきたぐらい、コミュニティー内で注目された記事だったんだよ。

 

   もっとも、編集長個人の主観や主義、好みを核にしてまとめられた、かなり不公平な記事でもあったから、[会議所]の一方の側には(あとで編集長の机の下に酒瓶が何本も並ぶほど)大歓迎されたものの、コミュニティー全体からはあまり高い評価は受けなかったかもしれないけど…。

 

   この件についても、またいつか触れることにするよ。僕が『日報』で働きだして間もなかったころの、けっこう刺激的な(南カリフォルニア日系人と日本人、それに小実業家や商売人といった人たちについてずいぶん勉強させてもらった)事件だったからね。

 

          ※

 

   僕自身のことに戻ると…。

 

   突発的に大きなニュースが入ってきたりしなければ、午後三時過ぎからは翌日や土曜日のための仕事になる。ふつうは、日時が緊要ではないニュースの中に『日報』で使えるものはないかと、朝からそのときまでに[AP]が送ってきたニュースに目を通し、[ロサンジェルス・タイムズ]などを読みなおしてみて、いい記事を見つけ出したら、その翻訳にとりかかるんだけど、きょうみたいに、僕が週に一度、木曜日に担当することになっている[海流]のための原稿書きに入ることもあるわけだ。

 

          ※

 

   『日報』は(『日米新報』とおなじく)週六日(日曜日休刊)の日刊紙で、[海流]も(編集長が〈あのコラムが抜けたことは、一九四六年の欄創設以来、一度もない〉と言っているように)毎日欠かさず掲載されることになっている。筆者は現在(いちおう)六人いて、それぞれが週に一度書く仕組みだ。社内の書き手は編集長と光子さん、それに、僕だ。ほかに、〔論説顧問〕が社外に三人いて、それぞれが原稿を毎週一度郵送してくれることになっている。

 

          ※

 

   〔顧問〕のうちの一人は、名古屋に住んでいる中学校の先生だ。名古屋はロサンジェルス姉妹都市だから、生徒たちに両市の関わりを学ばせようとあれこれ調べているうちに『南加日報』の存在を知り、自分にも何か書かせてもらえないか、と言ってきたことがきっかけだそうだ。 …いまでは、日本の教育事情を(じょうずな文章で、というわけにはいかないみたいだけど)現場からいきいきと報告してくれる、[海流]の重要な書き手の一人だ。数年前に十回ほどつづいた〔帰国子女〕に関するストーリーは、編集長がいうには、(駐在員のような形で南カリフォルニアにきているものの)いつかは日本に戻るつもりだという人たちを多く読者にしている『日米新報』と違い、おなじ日本人でもアメリカに永住することをすでに決めている(つまりは、〔子女〕の〔帰国〕後のことについては心配する必要がとうになくなっている)人たちが多く読んでいる『日報』にはもったいないぐらいの、(だから、『新報』に掲載されていたのだったら、もっと関心を集め、もっと高い評価を受けていたはずだ、と思わないわけにはいかないぐらいの)〔すばらしい〕内容だったんだって。

 

   〔だって〕と言ったのは、僕自身はまだ、保管してあるその当時の新聞を引っ張り出して読みなおしてはいない、ということなんだけど…。

 

   というのは、その話を編集長から聞いたころの僕はもう、編集長の〔すばらしい〕と僕の〔すばらしい〕はいつもどこかでちょっとずれている、ということに気がついていたし、編集長の日ごろの言動から、名古屋の先生のそのストーリーは、編集長の好きな〔日本=悪玉〕セオリーに沿う形で、ということは、日本の教育者の無関心や無能、教育行政の怠慢を厳しく批判する視点で書かれていたはずだ、と容易に想像できたものだから…。別に、先生のその仕事の出来の良さを疑ったから読まなかった、というんじゃないんだよ。

 

   この先生の執筆に対する謝礼は、先生が書き送ってくれた評論やエッセイが掲載された『日報』が十部。それだけなんだって。

 

          ※

 

   もう一人の〔顧問〕は([ディズニーランド]がある)オレンジ郡アナハイム市に住む、日本から派遣されてきた現役の商社駐在員だ。この人は、記事がロサンジェルス郡中心になりがちな『日報』に、地元の新聞などから拾ったオレンジ郡情報をあれこれ届けてくれるんだよ。

 

   〈ものを書くのが好きで、もともとは新聞記者になりたかったんですけど、当時のわたしにはどうも一般常識が欠けていたようで、新聞社の入社試験はしくじってしまいましたよ〉と編集長に話したことがある、というだけのことはあって、というとちょっと変だけど、この人は、文章を実になめらかで、几帳面で、知的に書くんだよ。『海流』に品をそえることができるのは、この人だけだと思うよ。

 

   〈カリフォルニアにきて新聞にエッセイが書けるようになるなんて、思ってもいませんでしたよ〉と、自分の幸運を喜んでいるそうだから、やっぱり(名古屋の先生とおなじように)原稿料はもらっていないんじゃないかな。

 

          ※

 

   最後の一人は…。どういえばいいんだろう?

 

   〔難物〕だな。…アリゾナ州トゥーソンに住んでいる八十歳に近い老人だそうだけど、とにかく、文章のスタイルが古めかしい。詠嘆が先走って、論理が追いつかない。掲載する前に、(論旨を変えないように気を配りながら、編集長が)かなり手直しをしなければならない。

 

   〈戦前は日本で右翼青年として少しは知られていた〉と自称している(という)ことからも察しがつくように、大変な皇国史観の持ち主で、いまでも平気で〔賢所におかれては〕みたいな文を書いてくる。編集長が〔日本=悪玉〕セオリーなら、この老人は、何がなんでも〔日本=善玉〕論を押し通す人だ。

 

   編集長から聞いた話だと…。この人は、日本が太平洋戦争を始める前に一度、〈スパイをするつもりで〉アメリカに渡ってきたんだけど、カリフォルニア中部の農場で〈資金稼ぎ〉に精を出していているあいだに、〈いよいよこれからスパイ活動にとりかかろうというところで〉体を悪くしてしまい、あえなく日本に逆戻りし、戦後十数年経ってから、今度は〈日本がアメリカに手ひどく負けてしまった原因を知ろうと〉(どういうわけか)メキシコ経由で陸路でアメリカへ密入国してきて、日本人庭園業者の下働きをはじめとして、ありとあらゆる手仕事をしながら、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アリゾナの諸州を転々としているうちに、戦後に〔進駐軍〕の一員として広島だかにいたことがあるという白人と友だちになり、その白人のすすめでトゥーソンで日本語を教えるようになり、そのうちに永住権を取得して、そこに住みついてしまったという(ひと息ではしゃべりきれないような)とんでもない経歴の持ち主だ。

 

   編集長が「十数年前までは(戦前、日本に住む祖父母たちのもとに送られて、そこで日本の軍国主義教育を受け、日本人意識を頭に深く染み込ませたあと、アメリカに戻ってきた日系アメリカ人である)〔帰米二世〕がまだ数多く生きていて、元気もよかったから、その人たちを愛読者にして、あの人、〔なかなかの論客〕で通っていたようだ」と話してくれたことがあるよ。

 

   この人には、〔ご老人のプライドを傷つけない程度の〕謝礼が払われているそうだ。

 

   『南加日報』は、編集長とこの老人が共存しているあたりの、そう、ずさんさが、一つの特色でもあるのかもしれないね。

 

          ※

 

   という具合に、三人の社外〔論説顧問〕が『日報』にはいるんだけど、三人にもそれぞれ事情があるだろうし、まあ当然、毎週決まった日に原稿が届くわけではない。

 

   先生は、どこかの中学校で〔いじめ〕による自殺事件があったというようなときには、その事件を材料にして精力的に書きあげた原稿を数日間に何本も送ってくるほど熱心な人だけど、(この夏がそうだったように)毎年決まって〔学校が夏休みになるとスランプにおちいってしまうという困った難点〕があるんだそうだ。

 

   商社員は、ニューヨークやアトランタ、東京などに急に出張させられることがあるし、日本から訪ねてきた客の接待に追われることも多いから、(いかにもこの人らしく、予備の原稿がいつも用意されてはいるものの)何も書けない週が予期以上につづくこともある。

 

   老人は、(〈トゥーソンには、ロサンジェルスやサンフランシスコみたいには多く日本の情報が入ってこないから〉)日本やロサンジェルス(に住む友人や知人など)から送ってもらう週刊誌や月刊誌を読んで、論題を見つけ出し、一つの論題で数週分を埋めるようにしているんだけど、いつもいいネタが見つかるとは限らないし、雑誌が長いあいだ届かないこともあるんだそうだ。…老人がいまでも皇国史観みたいなものを持ちつづけているのは、日本に関する情報が比較的に少ないそんな場所で長く(たぶん、ほかの日本人たちとはあまり接触せず、そのために、精神が純粋培養されるみたいに)暮らしてきたからじゃないかな。

 

          ※

 

   そういうわけだから、月曜日の光子さんから順に、名古屋の先生、編集長、僕、商社員、老人と、いちおうは決めてあるローテーションが狂うことも多いわけだ。穴埋めに僕が原稿を書いたのも一度や二度ではないんだよ。

 

   でも、きょうの事情は違っていた。問題は、編集長の、言ってみれば、そう、〔わがまま〕だったわけだから。

 

   それに、僕は、あす掲載されることになっている僕自身の[海流]をどうしてもきょう中に書きあげておきたかった。書きあげておいて、(さっきしゃべったように)あすは残業せずに早めに新聞社を出て、早めに食事とシャワーをすませ、この日記をちょっとつけて、電話での真紀との会話を気分よく楽しみたかった。…そう考えていったん書き始めたものの、なかなか書き進めないので、ほんとうに弱りきっていた。だから、編集長の肩代わりをするゆとりなんか、僕にはまったくなかったんだ。

 

          ※

 

   〔ついでに〕がずいぶん長くなってしまったね。でも、とにかく、きょう編集長が話しかけてきたときの僕は、その〔三時過ぎ〕からのルーティーンの一つである[海流]の原稿書きに入っていたわけなんだ。

 

   真紀のことは何も知らない編集長は(まあ、たぶん、知っていたとしてもおなじだったろうけど)僕のその程度の抵抗にたじろいだりはしなかった。「君が書くのが遅いことはボクも知っているけど、それでも、もう書き始めてはいるんだろう?」。あの〔にたり〕笑いがいちだんと大きくなっていた。

 

   僕はつられて、思わず笑い返しそうになってしまった。

 

   「ということは」と編集長はつづけた。「少なくとも、ある程度はもう書き終えているということだよね。…最初の原稿」

 

   〈最初で〔最後の〕ですよ、編集長。今夜はこれ一つしか書くつもりはありませんし、あすは何も書きません。編集長の代役は今回はオコトワリです〉。胸の中ではそうつぶやいたんだけど、それは声にはならず、僕は代わりに、こうつぶやいていた。「これまでに何時間かかけたんですから、そりゃあ、いくらかは書いてますけど、その線で書き終えられるかどうか…」

 

   僕の言葉が切れる前に、編集長は自分の両手を打ち合わせた。「それはいいや。だったら、それを書きつづけてもらってだな、できあがったら、きょうの分として(タイピストの)田淵さんに渡してもらおうか。そうすると、読者はあしたもいつもどおりに[海流]を読むことができる。うん、それがいい。だけど、ボクら、急いだ方がいいな。版下を(中国語新聞社の)印刷所に遅れて持ち込むと、また(印刷責任者の)ウォンさんが苦情を言ってくるだろうし…。いや、そんなことの前に、原稿の出が遅いというんで、田淵さんの機嫌がちょっと悪くなりかかっているようなんだ。編集部で働く者として、ボクら、〔工場〕の人たちに嫌われない方がいいからね。…だろう?」

 

   〈そんな理屈はないんじゃないですか、編集長〉と僕は思った。〈〔ボクら〕ってことはないでしょう。原稿の出を遅れさせたのはだれなんです?田淵さんの機嫌が悪くなりかかっているとしたら、それ、だれのせいなんです?〉

 

   でも、僕がどんな表情になっているかなんて、あの人は気にしてはいなかった。「で、いま、何を書いているの?」

 

   この辺りが編集長の(たぶん、ずるくて)すごいところなんだよね。あの人は突然、編集長としての威厳を回復して、というか、僕に有無をいわせない、ちょっと居丈高な口調になって、そうたずねてきたんだ。

 

   そういう質問には僕は抵抗できないじゃない。だって、編集長は僕の原稿を手直ししたり、場合によっては、僕に初めから書き直しさせたりすることができる立場にある人だからね。僕は正直に答えるしかなかった。「恥ずかしいんですけど、また、[ドジャーズ]の野球のことを…」

 

   「恥ずかしがることは何もないじゃないか」。編集長の顔がまたほころんだ。…安堵したんだ。「おなじ話題に何度取り組んでもかまわないんだよ。むしろ、それが君の特徴、ということになって、読者に親しまれるんだから」

 

          ※

 

   編集長が〔安堵した〕のには理由があったんだよね。…ローカルの出来事にはまだ疎いけれども、題材が野球となると、(これまでがそうだったように)僕がまずまずのエッセイを書きあげるだろうってことが編集長には分かっていたし、僕が無難に書きあげるとなれば、自分は手直しする必要もないだろうし、僕が書きあげるまで残っていなくても(つまりは、ファースト・ストリートにあるバーにすぐに駆けつけても)いいということになるわけだから。

 

   「それを書きつづけるといいな」。編集長は言った。「だいたい、君は、野茂投手についてはいつも、おもしろいものを書くからな。野茂を見るときの見方が…。なかなかいいし…」

 

   編集長は〈見方が…〉と言ったあと、しばらく言葉が継げなかったんだよね。僕が気をよくするような、何か気のきいたことをつづけたかったんだろうけど、何をどう言ったらいいかがすぐには分からなかったんだ。…というのも、あの人は(日本人の男性としてはめずらしく)野球に関する知識の乏しい人で、たとえば、[ジャイアンツ]がセントラル・リーグに属しているぐらいのことまでなら知っているけど、[バッファローズ]がどこを本拠地にしている球団かは、もう知らないんだ。

 

          ※

 

   そんな人なのに、編集長は(野茂が絶好調だった六月の終わりごろに)一度、野茂に触れたエッセイを[海流]に書いたことがあるんだ。それも、(これじゃまずいんじゃないか、と僕が思った個所がずいぶんあったにもかかわらず)なかなかいい(というのが矛盾して聞こえるなら、そう、かなり興味深い)内容だったんだよ。

 

   僕のファイルの中から取り出して読んでおくと…。

 

   ≪*筆者はこういうのが嫌いだ。こういうのとは、日本人の態度のことだ。どんな態度かといえば…。*今年の一月、二月ごろ、彼らは何と言っていただろうか。彼らとは誰のことか。言わずと知れたこと。日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちのことだ。*あのころ彼らは、野茂は肩(肘だったかもしれない)に故障を抱えているからアメリカで成功するわけはないと言っていたはずだ。だが、彼らの冷血な悪口をものともせず、野茂は大リーグの偉大なプレイヤーたちに混じって大成功を収めつつある。彼らの予見はものの見事に外れてしまったのだ。*予見が外れたのはなぜか。答えは簡単だ。彼らが自分たちの劣等感を土台にして野茂の将来を見てしまったからだ。*劣等感?何に対する劣等感か。*アメリカに住み、アメリカを動かしている人間に対する劣等感だ。彼らはいつも、潜在意識の中で、この国の人間に劣等感を抱いているのだ。*日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちは、実は、野球を含めた多くの分野で日本人はアメリカ人には太刀打ちできない、したがって、(皮肉なことに、台湾系日本人なわけだが)日本の偉大なプレイヤーである王貞治氏が日本で何本ホームランを打っていようと、野茂はやはりアメリカで失敗する、と心の奥底で思い込んでいたのだ。*そうなのだ。彼らは、世界のホームラン記録保持者は王氏だとこれまで主張してきたし、いまもそう言い張っているくせに、心の底では、王氏の本拠地であった後楽園球場は、アメリカの球場に比べると、盆栽ほどの大きさでしかなかった、それゆえ、王氏の記録も世界記録であるとは言えないのではないか、と疑っているのだ。*それが筆者のいう劣等感だ。*間違いない。日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちは、自分たち自身が日本人の力量に自信が持てないものだから、事が現実にどうなるかを見極める前に、野茂も結局は失敗するはずだ、と決めつけていたのだ。そもそも、彼らにとって、野茂の故障は重大な問題ではなかったのだ。というより、野茂の力量がどんなものかが彼らには理解できていなかったのだ。理解できていなかったから、彼らは、一度は日本で最高の投手といわれたプレイヤーでもアメリカではしくじるに違いない、そうなれば、日本人全員が面目を失う、と考えるしかなかったのだ。*野茂の実力を冷静に分析して、この投手は日本では一、二を争うほど優秀なのだが、大リーグでやっていく力はやはりない、と判断するのはしゃくだから、肩だか肘高だかが悪いから通用しないということにしておこう、としたあたりにも、彼らのゆがんだ劣等感がよく表れているではないか。*恥ずかしい。恥ずかしい。*しかも、不幸なことに、そんなふうに考えるのはスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちだけではない。日本に住んでいる他の日本人もみなそうなのだ。*日本人は事実を見ない。物事をあるがままには見ない。外国が絡む場合は特にそうだ。日本に住んでいる日本人たちは、自分の基準に合うように、自分たちの劣等感がそれ以上深くならないように、すべてをゆがめて見てしまうのだ。*それだけではない。野茂の成功が明らかになってから彼らが取った態度はどうだ。失敗するに決まっているとなじったこと、日本の野球を捨てる裏切り者と呼んだことについては詫びも言わず、恥じもせず、この投手にこぞって〔日本人の誇りだ〕と大声援を送り始めたのだ。*恥ずかしい。恥ずかしい。*以って学ぶべし≫

 

   独善的で高飛車すぎるよね。あんまり論理的じゃないよね。

 

   (生意気なのをかまわずに言うと)技術的には、このエッセイは欠陥が多すぎると思うよ。

 

   少し読めば、編集長が正確さを重視しない人だってことが、だれにだって分かるし…。

 

          ※

 

   第一に、野茂の故障が肩にあったのか肘にあったのかを編集長は知らない。はっきりさせようとは考えてもいない。〔肩(肘だったかもしれない)〕では無責任じゃない?

 

   いや、そもそもその前に、編集長は、このエッセイの読者の中には野茂の名前にいきなりであって〈野茂ってだれ?〉といぶかる人もいるんじゃないか、というふうに、まず、考えるべきだと思うよ。初めて野茂の名前を出したところで、たとえば、〔野茂英雄、その独特の投球フォームからトーネード(竜巻)と呼ばれている[ロサンジェルスドジャーズ]の日本人投手〕ぐらいなことは書いておいた方がいいと思うよ、僕は。…いや、すでによく知られている人物のことをあんまりていねいに説明すると、かえって変になってしまうものだけど、編集長はそれまで、野球をネタに何かを書いたことがなかったようだし、自分のエッセイの中で野茂のことに触れるのもあれがまったくの最初だったんだから。

 

   第二に、たまたま知っていたから〔日本の偉大なプレイヤー〕の王の名は出すけども、知識がないから〔大リーグの偉大なプレイヤーたち〕の名前は一人も書かないというのも、なんだかおかしいよね。バランスが取れていないじゃない。それに、〔王貞治氏が日本で何本ホームランを打っていようと〕と〔野茂はやはりアメリカで失敗する〕とのあいだには(理解はできるけれども)論理に大きな飛躍があると思わない?荒っぽい書き方だと思うけどな。…王氏の〔氏〕もなんだか浮いてしまっている感じだよね。

 

   後楽園球場を〔盆栽ほどの大きさでしかなかった〕と決めつけているのに、両翼が何メーターあったかなどを数字ではっきりさせてはいないし、アメリカの球場の大きさも書かない、というのもまずいよね。これでは比較になっていないじゃない。読者に不親切だよ。

 

   そうそう、ホームランの記録が問題になっているんだったら、公平さを保つために、大リーグの年間試合数は、日本のプロ野球より(昔だったら、たしか、二十四、いまでも)二十七も多いんだってことも、読者に知らせるべきだよ。…いや、それだけではないな。王の〔世界〕記録とヘンリー(ハンク)・アーロンの〔アメリカ〕記録も、両方、数字で正確に書いておく方がいいと思うよ。僕が書くんだったら、そういう数字(王が八六八本でアーロンが七五五本だったっけ?)は全部調べ出すよ。調べ出せなかったら、そのことには触れないよ。

 

          ※

 

   ところで、〔彼らの冷血な悪口〕というのは、なんだか落ち着きの悪い表現だよね。これで、筆者である編集長が、大多数の意見に(いわば)逆らって日本を飛び出してきた野茂投手に同情していることは、たしかに、よく分かるけど、[海流]は(いちおう)センセイショナリズムで売っている週刊誌やタブロイド新聞のコラムではないんだから、こういう表現はどうも…。

 

   エッセイ中でくり返された〔恥ずかしい。恥ずかしい〕にも、筆者自身をいきなり高所に持ち上げようとしているみたいな、(なんというか)いやらしさを感じない?

 

   編集長の目には、〔日本に住んでいる日本人〕は全員がおなじに見えているらしいけど、もちろん、そんなことはありえない。…決めつけが過ぎるよね。日本にもいろいろな日本人がいるんだから。それに、非難する相手を〔日本に住んでいる日本人〕に限定しているところも、僕はあんまり好きになれないな。だって、なんだか、海外、特にロサンジェルス地域に住む日本人にへつらっているみたいにも聞こえるじゃない。

 

   〔以って学ぶべし〕もよく分からない言い方だよ。学ばなきゃならないのは、いったいだれなんだろう?〔日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たち〕のこと?それとも、読者?筆者自身?

 

   いやいや、そんなこと以前に、編集長はそもそも、〔筆者はこういうのが嫌いだ〕と書きだしたとき、自分がこれから何を書くつもりなのかがちゃんと分かっていたんだろうか?〔どんな態度かといえば〕と原稿用紙に書きとめたとき、すでに野茂のことが頭にあったんだろうか。…怪しい、と思うな。

 

          ※

 

   というのは(タネ明かしみたいになるけど)、編集長は〔筆が進まないときは太平洋の向こう側に視線を向けよ〕という自ら学び出した金言を頼りにして物を書く人で、〈アメリカから日本を見れば、言いたいこと、論じなければならないことが必ず見えてくる〉と信じているんだよね。だから、これを書いたときも、〔どんな態度かといえば〕でペンをとめ、さて何を書こうか、批判(あるいは非難)しようかというんで、編集長の視線はその〔太平洋の向こう側〕に向いていたという気がするよ。〔日本のスポーツ新聞の記者たちと野球評論家たち〕をターゲットにしようというのは、たぶん、偶然の思いつきみたいなものだったんじゃないかな。〔言わずと知れたこと〕という(ずいぶんむちゃな)いい方の中に、ほら、そのことが見えていない?

 

   違うかな。いかにもそんなことが読めてくるような、危なっかしい書きだしだと思うけどな。

 

          ※

 

   にもかかわらず…。つまり、そんなふうに穴だらけの(『朝日』や『読売』にはけっして掲載されないような)論評だけど、編集長のこの文にはどこか、なんともいえないような魅力があるんだよね。

 

   少なくとも、編集長は、日本の新聞の論説員たちだったらまず気づかないか気づけないだろうことに気づいているし、そういう人たちだったらけっして書かないか書けないだろうことを正面きって、大胆に書いているじゃない。

 

   それに、僕にはもっと大事だと思えること。それは、編集長は〈自分の読者たちは、呼べばたちまち返事をしてくれるような近いところにいるんだ〉あるいは〈ほんものの生きた読者がすぐそこにいて、自分の文章を熱心に読んでくれているんだ〉と信じて書いている、ということ。高飛車なスタイルにもかかわらず、編集長は、そう信じて書いているよ。…そうそう、ファースト・ストリートの行きつけのバーで顔見知りを相手に持論を声高にしゃべっているような、そんな感じがあるよ、このエッセイには。

 

   そういうのって、いいよね。   日本のマスメディアでは、きっと、そうはいかないよ。   ここには、新聞と読者をそんなふうに親しく結びつける、体裁のいらない、温かい、ある意味では生臭い、そんなコミュニティーがまだ残っているんだよね。

 

   そんなふうに感じたよ、僕は。          ※

 

   で、話をもう一度戻しなおすと…。編集長にそんなふうに(だから、下心を丸出しにして)〈野茂を見るときの見方が…。なかなかいいし…〉とほめられても、僕はちっとも嬉しくはなかったし、〈ようし、張りきって書きあげるぞ〉とも思わなかった。