横田等のロサンジェルス・ダイアリー (1995年)      =3~4=  

*** 8月17日 木曜日 ***



   昨夜はきりの悪いところで眠り込んでしまって…。(そこからはほんの四、五メーター先にある隣の大きな倉庫のレンガ壁しか見えない)窓のわきに備えてある六〇センチメーター四方ぐらいの小さなテーブルの上に投げ出した両腕に顔を埋めるようなかっこうで。

 

   きょうは真紀と話す日だから、あまり時間が取れないけど…。

 

   とにかく、話をつづけるよ。

 

          ※

 

   で、僕はきのう、編集長の態度がなんだかおもしろくなかった。

 

   だから、「実際、あちこちで読者が、野茂に関する君のストーリーはいい、興味深い、情報が多様で、統計も添えてあるから、話題のネタとしても使うことができる、などと評するのを耳にしてるよ」と重ねてほめられても、ほとんど嬉しくなかったよ。…場合が場合だったから、あの人は口からでまかせを言っているんじゃないかって疑う気持ちもあったしね。

 

   僕はこたえた。「実は、いま書いているのは野茂のことじゃないんです」

 

   たちまち編集長の表情が曇った。…バーが遠くなったように感じていたのかもしれない。

 

   「正直にいいますと」と僕はつづけた。「最初は、また野茂のことを書こうとしたんですけど、新しいストーリーが[海流]のスペースを埋めるほど見つからなくて…。だから、マイク・ピアッツアのことで何かを書くことに方針を変えて…」

 

   「それ、たしか…」。編集長は自信がなさそうだった。「野茂のキャッチャーね」

 

   「〔野茂の〕ってわけじゃないんですけど、ええ、[ドジャーズ]のキャッチャーです」

 

   「オーケー」。かすかにであれ自分が知っている野球選手の名前が野茂と関連して出てきたことに安心したのだろう、編集長の表情がさっと明るくなったよ。「それで行ってもらおう。…で、ピアッツアの何を書いてるの?」

 

   「そこなんですけど…」。今度は僕がいくじのない声を出す番だった。「ピアッツアは優秀なキャッチャー、というか、ホームランも打てる、いい打率もあげられる、大リーグ史上にまれな、何十年間に一人しか現れないだろうという、すごいキャッチャーで、その野球にかける意気込みがまた立派なんです。シーズン中はもちろん、オフ・シーズンの自己鍛錬も厳しくて、アメリカ人ならたいがい家族団欒を楽しむクリスマスにも一人で何時間もバットを振って過ごすぐらいなんだそうです。しかも、というとちょっと変ですが、このピアッツアは、実は、億万長者の息子なんだそうです。父親は、その価値が一億五千万ドルとも二億ドルともいわれる中古車販売チェーンだけでなく、ほかにも不動産会社とコンピューター・サービス会社をそれぞれ一つずつ所有しているということです」

 

   ピアッツアに、なんというか、そう、見当違いの嫉妬心でも抱いたのか、編集長が突然、<それがどうした〉といわんばかりの難しい顔つきになったものだから、僕は急いでつづけた。「僕が言いたいのは、編集長、ですから、ピアッツアは野球選手になる道を選ばなくてもよかった、ということです。そんなに厳しい鍛錬をしないで楽に生きていける立場にあったんです。どこかで気楽な仕事をしながら時を過ごして、そのうちに父親のビジネスを継ぐ、という生き方もあったんです。…でしょう?〔億万長者の息子で、大リーグを代表するすごいキャッチャー〕。おもしろいでしょう?何かと言っては、〔ハングリー〕でないといいスポーツ選手にはなれない、と主張するどこかのだれかにぜひ聞かせてやりたい、そんな話だと思いません?」

 

   「いや、まったくそのとおりだ」。僕にはそんなつもりはなかったんだけど、〔どこかのだれか〕というのが、ほら、現実に〔日本に住んでいる〕特定のだれかを指した皮肉なんだろう、とでも独り合点したものか、編集長はまた、あの〔お人好しのおじさん顔〕になった。…僕のことを、日本を批判しつづける[海流]の伝統継承者、とでも思ってか。

 

   「でも」。僕は言った。「編集長、話がそれで終わってしまったら、[海流]はいつもの半分ぐらいの長さになってしまいます。それに、この話は、[ロサンジェルス・タイムズ]なんかを読む人なら、たいがいはもう知っているはずなんです。いくら、『日報』の日本語ページは、そもそも、英語が読めない人たちのためにあるんだ、だとか、[タイムズ]などに英語で書かれていることを、日系・日本人の読者に日本語で読んでもらおうというのが『日報』の本来の役割なんだ、だとか言っても、それだけじゃ、つまんないじゃないですか」

 

   「だから?」。編集長はじれったそうだった。

 

   「だから、何かがつけ足せればいいなと思って、材料を探しているんですけど、それが、見つからないんですよね。過去の偉大なキャッチャー、たとえば、ヨギ・ベラジョニー・ベンチの終世打率やホームラン数なんかが分かれば、ピアッツアの成績と比べることができるから、少しはましになると考えたんですが、スペースを埋めるにはそれでもまだ足りません。…それに、ただ、〔ハングリー〕でなくたっていいスポーツ選手になれる、という結論じゃ、角度を変えたもう一つの精神論になってしまうだけで、おもしろくもなんともないし、まして、ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう、だけで終わってしまっては、なんだかなさけないでしょう?」

 

          ※

 

   僕は一瞬、〈ちょっとまずいことを言ってしまったかな〉と思ったよ。だって、編集長は、どちらかといえば、その〔ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう〕スタイルで、つまりは、情に訴えて、ものを書く人だからね。ほら、あの〔恥ずかしい。恥ずかしい〕がそうだったように。…純粋に仕事に関することに話が集中し始めているときだったから、あてこすりかなんかを言っているようには受け取られたくなかったんだよね、僕は。

 

   でも、心配することはなかった。編集長はむしろ、機嫌がますますよくなっていた。というか、そこまで僕の考えがまとまっていれば、書きあげるまでにはもうそれほど時間はかからないだろう、と読んでいるようだった。だからすぐに退社できる、と浮き足立っているようにさえ見えたよ。

 

   たしかにね。…考えてみれば、編集長は自分が書いたものに(とてつもないほど)自信を持っていて、自分の仕事についてだれかが〔あてこすり〕を言うかもしれない、などとは絶対に考えない人なんだよね。それに、実際、編集長がそんなふうに自信を持っているからこそ、(内容については問題があることもあるかもしれないけど)記事や[海流]がいきいきしたものになるんだ。…あの人、そのことが自分でもよく分かっているんだろうな。〔自信〕が自分の財産だってこと。

 

          ※

 

   僕はつづけた。「だからですね、〔ピアッツアってなんてすごいキャッチャーなんだろう〕と書かずにピアッツアのすごさを読者に読み取ってもらえるように書けないものか、と考えているわけですが、そこで行き詰まってしまって…」

 

   昨夜、編集長の(野茂に触れた)エッセイを批評したときには元気がよかった僕も、自分が何かを書くとなると、話は別。…ほら、他人が書いたものをいくらか分析することができるからといっても、自ら良いものが書けるとは限らないじゃない。

 

   というか、僕は、優秀な姉と兄を見ながら育ったものだから、(ひどくひがんでいたというわけじゃないんだけど)自然に(家族の中で精神的に楽に生きていくための知恵が働いて、つまりは、自己弁解のための一手段として)そういう人たちの欠点とかアラとかを見つけ出すことが、言ってみれば、変に得意になってしまっただけで、そもそも、創造性などというものはあまりない人間なんだよね。

 

   編集長は、(たぶん、僕に早く書き終えてもらおうというんで)ほめ言葉をいろいろ並べてくれたけど、僕のエッセイは、統計を引き写したり、他人にユニークな意見を(その人の名前を出して)引用し、最後にちょっとだけ自分の意見や感想を述べる、というのが基本の形になっていて、オリジナリティーは乏しいんだ。…この新聞社で働きだして間もないころ、編集長にいきなり、〈あさっての[海流]は君の担当だから、何か書いておくように、横田君〉といわれたとき、たちまち(文字どおり)青ざめてしまったぐらい、もの書きとは無縁に暮らしてきていたんだもんね。いや、翻訳の方は、まあ、努力すればなんとかなるんじゃないか、と思っていたわけだけども…。

 

          ※

 

   「そんなところで行き詰まっていたのか、君は」。編集長は少し失望したような口調で言った。でも、その目は、むしろ、輝いているように見えたよ。「横田君、ところで、日本にもそんな選手はいるの?」

 

   分かるよね。編集長はそこで僕に、例の〔筆が進まないときは太平洋の向こう側に視線を向けよ〕という金言を思い出させようとしたわけだ。

 

   なるほど、と思いながら僕はこたえた。「ピアッツアみたいな、大金持ちの息子で野球の大プレイヤーですか?」

 

   編集長は大きくうなずいた。

 

   「僕が知っている限りでは、あそこまでのプレイヤーはいませんし、過去にもいなかったんじゃないでしょうか」

 

   「そこだよ。そんな選手は日本にいない、となると、君のエッセイはもう書き終わったのも同然だ。そういう対比は、それ自体が読者に何かを伝えるものだからな。読者は、日本とアメリカの大きな違いを示され、あとは自分たちでさまざまに、そりゃあすごいことだ、と感じてしまう。君が〔こいつはすごい〕などと書くことはないんだ」。そういうと、編集長はすっくと立ち上がった。「横田君、ボクら急いだ方がいい。とにかく、それでまとめるといいな」

 

   僕はここでも〔ボクら〕という言い方があまりおもしろくなかったし、読者がそんなふうに〔感じてしまう〕 かどうかについても判断がつかなかったけど、(早く書きあげてしまいたい、という潜在的な思いに引きずられたのか)頬に笑みを浮かべ、〈そうか、たしかに、そういう締めくくり方もなるな〉と考え始めていたよ。

 

   僕の表情のそんな変化を読み取ったんだろう、編集長は「じゃあ、あとはよろしく」というと、出口に向かってさっと歩きだした。

 

   僕には、編集長が立ち去る前にはっきりさせておきたいことがもう一つあった。僕は編集長の背に向かって言った。「あすの[海流]はどうするんですか?書いていただけるんでしょうね」

 

   編集長はゆっくりふり返った。あの〔お人好しのおじさん顔〕をつくっていたことはいうまでもない。「事は、横田君、一度に一つずつ解決していけば、自ずとなんとかなるもんだよ」

 

          ※

 

   結局、僕は自分一人だけになった日本語編集室で、〈そうなんだよな。あの人がコップ酒をしだしたのに気づいたときすぐに、逃げ出しておけば良かったんだよな。ホテルの、あの息詰まるような小さい部屋ではあまり仕事はしたくないな、だとか、いや、たしかに小さい部屋だけど、いまは僕が持っているただ一個所のプライベイトな空間なんだから、そこでは会社の仕事はなるべくしたくないな、だとかぐずぐず考えていずに、さっとここを出ておくべきだったんだよな〉などと頭の片隅で思いながら、ワープロのキーを打ちつづけた。

 

   エッセイになんとか結末をつけ、原稿を(早い夕食から戻ってきていた)辻本さんに校正してもらったあと(タイピストの)田淵さんに渡したときには、時間はもう六時半近くになっていた。(日本語ページレイアウト係の)江波さんが版下を貼りあげ、貼り間違いがないことを(光子さんが外で取材しているから)辻本さんが確認し終えたのは、それからさらに一時間ほどあとだった。…江波さんによると、[海流]などのいわゆる〔囲み記事〕の大きさが決まらないと、ページ全体のレイアウトができないそうだから、きのうみたいな仕事の流れは、時間の使い方という点から見れば、最低なんだよね。編集長も当然、そのことは知っているんだけど…。

 

   できあがった版下を持って(いつもよりうんと遅く)印刷所に向かう辻本さんを僕は、〈遅れに何の責任もない辻本さんがウォンさんに嫌味をいわれたりしなきゃいいが〉と思いながら見送ったよ。

 

          ※

 

   で、そのエッセイの結末はどんなふうにしたのかって?

 

   〔ピアッツアみたいなスポーツプレイヤーは日本にはいない〕だけでは物足りないように感じたから、〔そういえば〕とつづけて、フットボールの[サンフランシスコ・フォーティーナイナーズ]のスティーヴ・ヤングはNFLを代表するクォーターバックでありながら、オフ・シーズンには大学の法学部で勉強をしつづけ、この夏そこを修了したから、近い将来に弁護士の資格を取るはずだし、おなじチームのオフェンス・ラインマンであるバート・オーツはとっくの昔から弁護士としてもちゃんと仕事をしているスター・プレイヤーだ、ということを読者に告げ、最後は〔アメリカのスポーツプレイヤーの仕事に対する考え方や取り組み方にはどこかゆとりがあるようだ。その道ひと筋、ということに多大の価値を見ることが多い日本人とのこの違いはどこからきているのだろう〕と締めくくってみたんだけど…。あれでよかったのかどうか。

 

          ※

 

   けさ出社してきた編集長は(やはり、スージーさんの昨夜のもてなしがよかったのか)すこぶる上機嫌で、一番に僕のエッセイを読み終えると、満面に笑みを浮かべて、「いやいや、よく書けているじゃない」とほめてくれたよ。でも、僕の胸の中には、ほら、〈この人、きょうの[海流]も僕に書かせようという魂胆があって、僕をほめているんじゃないか〉という警戒心があったから、すなおには喜べなかった。

 

          ※

 

   いや、ほんとうのことをいうと、編集長にきょうまた逃げられた場合に備えて、僕はきのう、最初のやつを書きあげたあと、さらに居残り、へとへとになりながらも、二つ目もなんとか書き終えていたんだけどね。…こちらの新聞から記事を二つ選び出し、その書きだしの部分を翻訳し、別に手許にあった『朝日新聞』のある記事の書きだし部分と比べて、(ほら、きのうしゃべったように)アメリカの新聞は必ずしも〔いつ、どこで、だれが、何を、どうした〕という型にはまった書き方はしないと述べて、〈こういう違いがあるのは、こちらでは、記者の書き方の個性や独創性を尊重しようという考えが日本よりはうんと強いからなのだろう〉と締めくくった、〔太平洋の向こう側に視線をむけた〕(ほとんど引用だけで文章ができあがった、日もちのする)やつをね。

 

   編集長の〔事は、横田君、一度に一つずつ解決していけば、自ずとなんとかなるもんだよ〕という言葉はそのまま認めたくはなかったけども、そういう(安直な)手でいこうというアイディアが浮かぶまでには(不思議なことに)たいした時間はかからなかったんだよね。

 

   窮すれば通ず、だとかいうのは、実際にあるんだね。

 

          ※

 

   だけど、問題のきょうの[海流]は編集長がちゃんと書いたんだよ。きのう僕に無理を言って悪かったと、いくらかは反省してくれたんだろうか。…午前十一時ごろからほんの四十分間ほどで書きあげたものだったし、頭の方の準備も十分とはいえなかったみたいで、出来具合は、あの人のものとしてはあまりいいものじゃなかったと思うけど、けっこうおもしろいものだったよ。

 

   何を書いたのかって?

 

   タイトルは《失って知る…》。内容は、短くまとめてしまうと、〈南カリフォルニアに進出してきている日本の新興宗教団体をいくつか、数年前に取材したことがある。話を聞かせてもらおうと、ある団体のある若い女性信者とノースハリウッドのあるコーヒーショップで会ったのだが、コーヒーをすすっていたとき、以前からゆるんでいた前のさし歯が一本、ちょっとした弾みでぽろりと外れ、口の下五インチほどのところに構えていたカップの中にぽちゃんと音を立てて落ちてしまった。それを見てていたその女性信者の思いやりを欠いた、あざけるような、冷ややかな笑い方。この十数年間を振り返ってみても、あんなになさけない、不快な思いは、ほかにした覚えがない。すっかり嫌気がさし、新興宗教団体の取材は結局、全部中止してしまった。…それにしても、年は取りたくないものだ〉というもの。

 

   肩肘を張らない文章も書くんだよ、あの人。

 

          ※

 

   ところで、その〔この十数年間〕には、(法的な離婚に同意してくれない奥さんとの関係のもつれなんかも含まれているはずだけど、児島さんは、そちらの方ではあまり〔なさけない、不快な思い〕はしたことがないのかな。

 

   働いているのが『日報』じゃなくてもっと給料のいいところ(はっきり言ってしまえば、ほら、『日米新報』)だったら、歯医者にかかるカネもあっただろうから、あの人も、前のさし歯をゆるんだままにはしておかなかっただろうし、その女性信者にそんなふうに笑われることもなかっただろうにね。…気の毒に、というか、かわいそうに、というか。

 

   待てよ。そのコーヒーショップでそこまで嫌な思いをしたのは、もしかしたら、編集長、自分のいまの『日報』での境遇に、実は…。

 

   ちょっと唐突に響いたあの結び〔それにしても、年は取りたくないものだ〕というのは、文章を書く上でのある種の飾りで…。

 

   そうだとすると、なんだかつらい話だな、これ。

 

          ***

 

*** 8月18日 金曜日 ***



   経理担当者のグレイス・ヒラオさんがまた姿をくらませてしまった。

 

   グレイスさんが金曜日の午後に〔行方不明〕になるというか、〔雲隠れ〕するというか、とにかく、いなくなってしまうのは、二、三か月に一度か二度は必ず起こる(『南加日報』の社員たちにとっては)めずらしくもない事件なんだけど、〔あいだに二週間置いただけで〕というのは、これまでにはなかったことだそうだ。

 

   〔そうだ〕というのは…。コーヒーをつごうとたまたま〔工場〕に足を運んだだけの(働き始めてからまだ半年も経っていない)僕をつかまえて、(児島編集長がひどく嫌っている〔日本の報道で使われる安直な決まり文句〕をいくつか並べていえば)〔怒りをあらわに〕というか〔憤懣やり方ない表情で〕というか、〔唇を震わせながら〕というか、とにかく、すごく腹を立てて、「わたし、きょうは逃げちゃだめですよ、お給料、ちゃんと出してくださいよって、グレイスにけさ、三度も、三度もよ、頼んだのに…」とこぼした(もう一人のタイピスト)井上さんがついでにそう説明してくれた、ということだ。

 

   ああ、そうなんだ。…だから、グレイスさんは、(二週間ごとにやってくる)給料支払い日になると、(今回はつづけてだったわけだけど)ときどき、どこかに姿を消してしまうことがあるんだよね。

 

   もちろん、そうしなきゃならない理由がグレイスさんにはあるんだ。(何人かにならともかく)社員全員に給料を払うだけのカネが会社の銀行口座に入っていない、という実に分かりやすい理由がね。

 

          ※

 

   (日本語ページのレイアウト係の)江波さんがずっと前に、苦笑混じりで話してくれたところによると、以前は、口座が空っぽでも(あるいは、そうなってしまう惧れがあっても)とりあえずは社員に小切手を渡しておいて、『日報』の銀行にその小切手が戻ってくるまでになんとか金策する、というやり方だったそうだけど、不渡りになることがあまりにも多くなったもので、(長年取り引きをづけてきた日系の)その銀行が(たぶん、警告が主目的で)、自分のところではもうつきあいきれない、口座を閉鎖してくれ、といいだし、この手ばかり使うわけにはいかなくなり、それからは(カネ集めのための時間稼ぎをしようというので)経理担当者がときどき〔行方不明〕になるようになったんだって。

 

   社員たちに渡した小切手だけを見てもそれほど頻繁に不渡りになっているというのに、さらには、印刷所や事務用品店、電話会社など、社外へ振り出した小切手も少なからず不渡りになっているかもしれないのに、それでもまだ会社が倒産に追い込まれていないことについての江波さんの説明は、〈『南加日報』は〔曲がりなりにも〕数十年の歴史を持つ、一時は日系・日本人コミュニティーに熱く支持された新聞社だからね。できれば倒産・廃業には追い込みたくない、という思いが銀行の方にあったんじゃんじゃないかな〉というものだったよ。

 

          ※

 

   で、井上さんは、グレイスさんが給料日を二度つづけてすっぽかしたことにすごい(ここでも編集長の嫌いな常套句を使うと)〔危機感を抱いて〕いた。

 

   そうだろうな、と僕は思ったよ。

 

   というのは…。井上さんは三十歳を少し過ぎたぐらいの(まだ子供のいない)既婚女性で、もともとは、旦那さんの収入だけに頼って楽に暮らしていける人だったんだけど、いまは『日報』からもらう(たぶん、週二〇〇ドルにもなっていない)給料がばかにできない、というより、けっこう大事な、そんな暮らし向きらしいんだよね。

 

   一九八四年に『日報』が自社活版印刷をやめた際に、イマムラ社長に請われて、東京の小さな印刷会社から移ってきたという(日本語写植係の)相野さんから聞いた話によると…。

 

   井上さんが、知人にすすめられ、(ロサンジェルスからおよそ一〇マイル、一六キロメーターほど南に位置する)トーレンス市にある、ある日系不動産投資顧問会社でセールスマンとして働いていた人と(日本で見合いをしたあと)結婚したのは、いまから八年前の、一九八七年のことだった。当時は、日本がいわゆる〔バブル経済〕の繁栄に浮かれ始めていたころで、南カリフォルニアに投資の機会を求める日本人は引きもきらないという状況だったから、その会社もずいぶん儲かっていたし、旦那さんの収入もなかなかのものだったんだって。

 

   井上さんが『日報』で働くようになったのは、翌年、一九八八年。景気のよかったその不動産投資顧問会社が『日報』の正月特別号に(つきあい)広告を出した際に児島編集長とその旦那さんが知り合ったのがきっかけだったそうだ。…『日報』ではちょうど、八四年(の和文タイプ導入時)から働いていたタイピストの一人が出産するのを機に仕事をやめたがっていて、編集長としては、なんとしても新しいタイピストを見つけなければならないときだったので、(昼間は手が空いているものの、別に外で働く気もなかった)井上さんを編集長自身がじかに説得して、手伝ってもらうことにしたんだ。

 

   ところが、九〇年代になると、様子が変わった。南カリフォルニアの(特に、日本からの投資を当てにした)不動産ビジネスは、数年前のブームが嘘だったんじゃないかと思えるほどのひどい不況、というより、壊滅な状況に落ち込んでしまった。

 

   旦那さんは仕方なく、(やはり日系の、日本人客が多い、おなじくトーレンス市内にある)ある自動車販売店のセールスマンへと転身したんだけど、〔バブル経済〕のあいだにこちらに渡ってきていた日本人がぞくぞくと日本へ引き揚げるという現象にぶつかってしまったのに加え、(相野さんがいうには)〔おなじセールスでも、うんと細かいかけひきが求められる自動車は性に合わなかったものか〕その収入は、不動産投資顧問会社で働いていたときに比べると、激減してしまったそうだ。

 

   だから、グレイスさんが初めて二度つづけて給料日に〔行方不明〕になったことを知って、井上さんが、たとえば、〈ああ、この会社の経営状態はそこまで悪くなったのか〉〈じゃあ、もうすぐ倒産してしまうのかしら〉〈いまどき和文タイピストをほしがる会社はほかにないだろうし、『日報』がこのままなくなってしまったら、わたし、どうしよう〉〈いや、そんなことの前に、この二週間分のお給料、ちゃんともらえるのかしら〉〈人を働かせたら、お給料を払うの、当たり前なのに、前もって金策しておかないなんて、グレイスはわたしたちをなめているんじゃないかしら〉などとあれこれ心配したり怒ったりしたとしても、まあ、無理はなかったんだよね。

 

          ※

 

   オーナーのフレッド・イマムラ社長じゃなくて、経理担当者のグレイス・ヒラオさんが行方をくらませるのはなぜかって?

 

   社長はそのあいだ、何をしているのかって?

 

   あとの方の問いに先に答えると、社長は通常どおりにせっせと、英語セクションの記事書きと編集作業にいそしんでいるんだ。

 

   なぜグレイスさんが姿を隠すのかってことでは、『日報』の歴史を少し説明しておく必要があるだろうな。

 

   というのも…。『日報』の日々の資金繰りを、社長ではなく、経理担当者が見るのは、実は、フレッド社長の代になって始まったことではないんだ。背後の事情はそれぞれ異なっているようだけど、それは創業社長、今村徳松の時代に始まり、その長男、徳一が踏襲し、さらにはフレッド現社長が受け継いだ、『日報』の、三代つづいた伝統みたいなものなんだ。

 

   で、その三代の伝統を一九四〇年ごろから、グレイスさんが経理を担当するようになった一九八七年まで、四十七年間(日米戦争のあいだの数年間はとんでいるものの)ずっと支えてきたのは、グレイスさんの実の母親、ジャネット・マツヤマさんだったんだよね。

 

   といえば、あるいは察しがつくんじゃないかな。…ああ、そうなんだ。グレイスさんの〔行方不明〕あるいは〔雲隠れ〕戦術は、だから、グレイスさんが自ら考案したものではなくて、実は、〔母親譲り〕というわけなんだ。…言ってみれば、これは、長い伝統、深い由緒がある戦術なんだ。

 

          ※

 

   おりに触れて児島編集長や辻本さん、それにマツヤマさん親子などから聞いた話をメモし(あとで自分で整理しなおし)たノートのページをめくりながら、過去を大急ぎで振り返ると…。

 

          ※

 

   一八八六(明治十九)年に広島県で生まれた今村徳松がロサンジェルスで『南加日報』社を創立したのは、徳松が四十五歳のとき、一九三一(昭和六)年のことだ。

 

          ※

 

   徳松の家は代々の造り酒屋で、次男の徳松も、それこそ〔何不自由なく〕育てられ、県内の中学、高等学校へと進学させてもらっていたが、兄とは異なり、英語はできるものの、ほかの学科は(どうも好きじゃなかったようで)概してだめという(総じていえば)凡庸な学生だった。

 

   余計なことだけど、どこかのだれかに、ちょっと似ていると思わない?

 

   〈こんなふうでは、自分は一生芽を出すことができないのではないか〉〈日本にいたのでは、出世は無理ではないか〉と感じるようになっていた徳松がはっきりと〈アメリカに留学しよう〉と決意したのは十九歳のときだった。…広島県はハワイやアメリカ本土への移民を多く出したところだそうだから、目がそちらに向きやすかったのかもしれないね。

 

   父親を説得してカネを出してもらい、徳松は二十歳になった一九〇六(明治三十九)年に、サンフランシスコ行きの船に乗った。父親の(広島県出身の)知人宅に寄宿させてもらいながら、数年間かけて英語の力を高めたあと、スタンフォード大学に進むつもりだった。

 

   だが、事は徳松の計画どおりには進まなかった。着いたサンフランシスコはすさまじい大地震にみまわれたばかりで、ほとんど壊滅状態になっていたのだ。頼ることにしていたその知人も大きな被害を受けていた。徳松は、新たな就業や事業の機会を求める多くの日本人に混じって、南カリフォルニアに移動することにした。

 

          ※

 

   ロサンジェルスに着いた徳松は、当時の日本人〔留学生〕がたいがいそうしたように、(学校に通わせてもらうかわりに、庭作業や浴室清掃などといった家事を引き受ける)〔スクールボーイ〕として、(日本人町の〔口入れ屋〕が紹介してくれた)ある白人家庭に住み込んだ。

 

   ハイスクールを卒業し、大学への進学資格を取った徳松が法律を学ぶつもりでUSC(南カリフォルニア大学)に入学したのは一九一〇(明治四十三)年だった。徳松は二十四歳になっていた。

 

   そのころの連邦政府は日本人の帰化を認めていなかったし、カリフォルニア州アメリカ国籍のない者には弁護士資格を与えていなかったのに、それでも徳松が法学を専攻したのは、卒業後には、アメリカ国籍の学友の名を借りて、日本人移民を相手とする〔法律相談所のようなもの〕を開くつもりだったかららしい。…一九三七(昭和十二)年から徳松が死ぬまでの二十二年間、その徳松の下で(秘書、アシスタント、経理担当者などを兼任して)〔何でも屋〕として働いたジャネットさんは、徳松自身からそういうふうに聞いていたそうだよ。

 

          ※

 

   一九一七(大正六)年に法学部をけっこういい成績で修了した徳松は、しかし、その〔法律相談所のようなもの〕は開かなかった。人口がすでに一万以上になって(なおも増えつづけていた)ロサンジェルス一帯の日本人の、法律上の、ではなく、食生活上の需要にまずこたえようと考えたのだ。

 

   広島の親からまとまった額の資金を送ってもらい、徳松は翌年、(現在の)リトル東京の一角に、日本食品を中心にした食料雑貨店を開いた。…大学で学んだ法律知識にではなく、とりあえずは、今村家に人間に継承されているはずの商才の方にかけてみようというわけだった。

 

          ※

 

   ところで、徳松はまだ学生だった一九一六(大正五)年、三十歳になった年に、石田タミ(エミリー)という十九歳の、サンフランシスコ生まれの(つまりは二世の)女性と結婚している。長男、のちに『南加日報』の二代目オーナー社長となる徳一が生まれたのは、翌年だ。…タミの父親、重男が徳松の将来性を買って積極的に進めた結婚だったそうだ。

 

   重男は、一八八〇年代の中ごろに岩手県からモンタナ州に炭坑労働者として渡ってきた人だった。勤勉に働き、こつこつと資金をためて、世紀が変わる数年前からはサンフランシスコで理髪業を営んでいたのだが、一九〇六(明治三十九)年の大地震で被災し、(いくらかあった)資産のほとんどを失ってしまい、再出発するならこれからの土地、南カリフォルニアで、と翌年、家族を引き連れてロサンジェルスに移ってきていたのだった。

 

   徳松と重男は、ロサンジェルスダウンタウンの東方、ボイルハイツで重男が開いていた理髪店で知り合ったらしい。サンフランシスコの震災を自分も見てきた徳松が、いくらか同情する気もあって、その店をひいきにしていたのかもしれないね。

 

   で、大学での勉強を終えた徳松が〔法律相談所のようなもの〕ではなく、まずは食料雑貨店を営んでみようと考えたのは、いくらかは、日銭収入でしっかり暮らしを立てていた重男に影響されてのことだったらしいよ。

 

   つけ加えておくと、その重男は、孫の徳一が生まれてから二年後に病死したそうだ。          ※

 

   徳松の食料雑貨店はその後、主として農業に従事する日本人(とその子供たちである二世日系人)人口のロサンジェルス周辺での急速な増加に助けられて、あちこちに増えて行った。

 

   それにつれて、商人・徳松の名も日本人コミュニティーの中に広まって行った。

 

   徳松個人のアメリカでの人生は、そのころ、すこぶる順調に展開していたわけだ。

 

          ※

 

   だが、日本人移民全体の暮らしはそういうわけにはいかなかった。

 

   日本が(一八九四-九五年の日清戦争、一九〇四-〇五年の日露戦争、一九一〇年の〔韓国併合〕、一九一五年の対中国〔二十一か条要求〕などという形で)中国・朝鮮半島への〔進出〕を強めるに従って、アメリカ国内に反日感情が高まり、日本人移民たちの環境は、カリフォルニア州議会で一九〇七(明治四十)年に可決されたあといったんはルーズベルト大統領の拒否権発動で無効となっていた、日本人による土地所有と三年間以上の借地を禁じる[日本人土地所有禁止法]が一九一三(大正二)年に、また、日本人と(その子供たちである)日系アメリカ人から完全に土地の所有・借地権を奪ってしまうカリフォルニア州[外国人排斥土地法]が一九二一(大正十)年に、さらには、日本からの新たな移民をすべて禁止する、連邦[排日移民法]が一九二四(大正十三)年に、それぞれ成立するといった具合に、刻々と悪化していたのだった。

 

          ※

 

   花栽培用の農地を(ロサンジェルス郡の南どなり)オレンジ郡内に借りようとして徳松がカリフォルニア州[外国人排斥土地法]違反容疑で告発されたのは、一九二七(昭和二)年のことだ。

 

   徳松の借地の企ては、しかし、自分の事業を農業にまで拡大したいという思惑や野心から出たものではなかった。そうではなくて、商業活動である程度の成功を収め、心にもゆとりができた徳松は、日本人農家が置かれている法的に厳しい状況に改めて目を向け始め、日本人農家がそんな苦境から解き放たれるためには、やはり、だれかがじかに、その[排日土地法]に挑んでみるしかない、と考えるようになっていたのだ。…大学で勉強を終えたときからほぼ十年。法律家としての徳松の目が、そういう形で開いたんだろうね。

 

          ※

 

   徳松の借地それ自体は、長引いた裁判のあと、結局は失敗に終わった。けれども、徳松自身はその過程で、〔コミュニティーのために身を賭すことのできる、実行力のある、信頼できる人物〕〔日本人移民の不屈の精神をアメリカ人に示した勇敢な人物〕として、南カリフォルニアの日本人、日系人のあいだに広く知られるようになっていった。

 

   各種団体の代表や会長といった職を徳松が次から次へと引き受けなければならなかったのは、この時期だ。

 

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   渡米してきたときの目標であった〔出世〕をそんなふうに果たした徳松はそのころまでに、〈日本人移民(特に農民)がアメリカで法的に不当に扱われているのは、そもそも本国である日本に国力・国威が足りないからだ〉〈日本人移民の地位を向上させるには、日本が力をつけ、諸外国に尊敬される国になる以外にない〉〈移民たちは一致団結して日本政府の国威高揚策を支持、応援しなければならない〉と固く信じるようになっていた。

 

   逆境の中にある日本人移民を奮い立たせ、彼らの日本精神を高めるような日本語新聞を南カリフォルニアで創刊しよう、という気持ちを徳松が固めたのは、〔満州事変〕の前年、一九三〇(昭和五)年だった。

 

   たちまちのうちに多くの賛同者が集まった。南カリフォルニアばかりか、フレスノなどの中央カリフォルニアからも大小の寄付金、協力金が徳松のもとに届けられた。日本語新聞の先進地、サンフランシスコからは記者や印刷工が駆けつけてきてくれた。

 

   徳松は翌(一九三一)年秋、創刊号を発行した。『南加日報』(サザーン・カリフォルニア・ジャーナル)の誕生だ。

 

          ※ 

 

   コミュニティーのオピニオン・リーダーとしての、徳松のもう一つの人生が始まった。

 

   徳松は、英文通信社の送信記事や英字新聞などから得た情報を日々、英語の読み書きがほとんどできなかった日本人移民たちのために翻訳、解説、分析しつづける一方、自分自身のコラムを持ち、そこで、当時日本が遂行していた対外〔進出〕を(中国での軍部の行動を含めて)すべて無条件、全面的に支持する意見を精力的に発表し始めた。…〔進出〕によって日本の国威が向上すれば、やがてアメリカでの日本人移民の地位もよくなる、と徳松は信じきっていたのだった。

 

   徳松は間もなく、英語でもコラムを書き始めた。こちらでは、アメリカ生まれの(ふだんはアメリカ人の子供たちとおなじ学校に通い、アメリカ人としての教育を受けながら育っている)二世たちを対象に、日本の文化や伝統(特に、親子の結びつき)の良さ、美しさを論じることが多かった。…子供たちの世代との意識のギャップに悩み始めていた一世たちがますます徳松を支持し、『南加日報』を購読した。

 

   日本の対外〔進出〕が進むにつれて、アメリカ政府の対日姿勢が硬化し、アメリカ国民の反日反日本人移民感情が高まる中で、日本への帰属意識をつのらせるしかなかった人たちを読者にして、『南加日報』は着実に発行部数を増やしていったのだった。

 

          ※

 

   児島編集長から聞いた話をもとに少し補足しておくと…。

 

   徳松は、中国大陸での日本軍の行動を(日本の通信社や新聞の報道を鵜呑みにして)全面的に支持していたから、日本軍の行動にことごとく反対するアメリカの政府と議会のことは快く思っていなかった(ようだ)けれども、何がなんでも、という反米主義者ではなかった。

 

   一連の[排日法]の成立・施行についても、一部のアメリカ人、特に(〔票を獲得するためなら何でもやってしまう〕)政治家たちの〔いかがわしい〕野心は責められるべきだけれども、一般のアメリカ人にまで敵意を抱くのは間違っている、と考えていた。反日・排日のムードが高まっているように見えていても、友情と親善を深めていけば、一般のアメリカ人は必ず(アメリカ同様の)一等国になろうと努力している日本と日本人、さらには、アメリカに住む日本人と日系人とを正しく理解してくれる、と信じていた。一般のアメリカ人は(〔一部白人勢力によって虐げられていた中国人を救おうと行動を起こした日本人とおなじように〕)正義や人道、同情の精神に満ちているから、日本とアメリカが戦争することはありえない、と思い込んでいた。

 

   いま振り返って見れば、徳松の認識と判断はとんでもないほど間違っていた、ということになるわけだけど…。

 

          ※

 

   グレイスさんの母親、ジャネットさんは徳松の長男、徳一とおなじ年、一九一七(大正六)年に、ウェスト・ロサンジェルスで生まれている。

 

   ジャネットさんの父親は、いったんハワイに移民したあと(一九〇七年にルーズベルト大統領が禁止令を出す直前に)本土に〔転航移民〕してきた一世で、ジャネットさんの母親とは(アメリカ政府から圧力を受けて一九一九年に日本政府が禁じた)いわゆる〔写真結婚〕で結ばれている。

 

   今年(一九九五年)七十八歳になる(八年前に、七十歳で引退した)ジャネットさんが『南加日報』で働きだしたのは、二十歳のとき、一九三七(昭和十二)年のことだ。

 

   そのころ、日本語と英語の両方が使える若者をアシスタントにしたいと適当な人物を探していた徳松にジャネットさんを紹介したのは(その昔、徳松が卒業した)USCの学生だった(自分の日本語力にはまったく自信がなかった)徳一だった。徳一とジャネットさんは、コミュニティーの仏教会の活動をとおして知り合っていたのだった。

 

   ジャネットさんは、小学生のころに和歌山県の祖父母のもとに送られ、そこで数年間日本の教育を受けたことがある、いわゆる〔帰米二世〕だ。〔帰米二世〕には、アメリカに戻ってきたあと英語力不足という問題に直面し、アメリカ社会への適応に手間取ったばかりではなく、日米戦争が始まってからは、教育を受けた日本への忠誠心と〔それでも自分はアメリカ人である〕という意識とにはさまれて、精神的には少なからず屈折した人生を歩ませられた人が多いそうだけど、ジャネットさんは、日本にいた時期が幼かったころの短い期間に限られていたこともあって、英語にもまったく不自由しない(つまり、アメリカ社会にうまく適応できないという負い目も感じない)一方、(書く方には限界があったものの、ロサンジェルスに数個所あった日本語学園のうちの一つに通いつづけていたこともあって)日本語もちゃんと読める(だから、日本式の発想も理解できる)、当時としてはめずらしい(徳松のアシスタントとしてはうってつけの)人物だったということだ。

 

         ※

 

   徳松が必要とするニュースの収集、整理から始まったジャネットさんの仕事に徳松の秘書としての役割が加わるまでに、時間は長くかからなかった。

 

   食料雑貨店の経営はもとより、コミュニティー団体の主要役員としての活動、新聞のコラムニストとしての時評書き、時局講演会での講演、日本軍を支援するための〔愛国献金〕運動などで忙しく動き回っていた徳松を支え、ジャネットさんは(私事を二の次にして)よく働いた。

 

   ひと月ほど前にふらりと『日報』にやってきたジャネットさんから直接聞いたところでは、そのころ日本人コミュニティーの(ある意味で)大スターになっていた徳松を助けて働くのは、ジャネットさんにとって〔ずいぶん楽しいこと〕だったそうだよ。

 

   そんなジャネットさんに徳松が(帳簿づけだけではなく)ちょっとした資金繰りまで任せるようになったのは、日本軍による(いわゆる)真珠湾奇襲の一年ほど前のことだった。…この仕事は、しかし、たいして難しくなかった。赤字が出ることはあっても、農家を中心とした支持団体からときどき寄付金があったし、いざとなれば、徳松自身が食料雑貨店の利益の一部を割いて、新聞社の運転資金に回してくれたからだった。

 

          ※

 

   一九四〇(昭和十五)年、日本はインドシナ半島に軍を進める一方で、ドイツ、イタリアと組み〔三国軍事同盟〕を結んだ。日米間の緊張がさらに高まり、カリフォルニア、オレゴンワシントン州の太平洋沿岸に住む日本人、日系人の暮らしはますます息苦しいものになっていった。

 

   そこへ、一九四一(昭和十六)年十二月七日(アメリカ時間)の日本軍による真珠湾奇襲。

 

   状況は悪い方へ急回転した。

 

   年が明けると間もなく(一月十五日)、〔敵性外国人〕の登録が始まり、すぐに、団体役員や宗教・教育関係者など、日系・日本人コミュニティーを指導していた人たちが〔予防拘束〕されるようになった。

 

   二月の半ば過ぎ、『日報』のコラムや講演会での論調、〔愛国献金〕運動などが反米的だとして、徳松がFBIに連行された。

 

   残った編集長や印刷工場長らと相談したうえで、ジャネットさんは新聞の休刊準備を始めた。社主の徳松が拘束されたのだから、新聞が発行できなくなる日も近い、と考えてのことだった。

 

          ※

 

   話がちょっとそれてしまうけど…。

 

   〔編集顧問〕の辻本さんが〔自主立ち退き〕したのはこのころだったそうだ。

 

   辻本さんは一九一九(大正八)年に山口県で生まれた人だ。中学を終えた年に、先に移民していた伯父に誘われ(養子縁組という形を取って)カリフォルニアにやってきたあと、いくつか仕事を変え、日米が開戦したときは、ロサンジェルス近郊のある日本語学園で教師として働いていたそうだ。…日系の二世、三世である生徒たちに日本語を教えること自体が反米的な行為とみなされた時期だったから、辻本さんもFBIの要注意人物リストに名前が挙がっていたかもしれないけど、(まだ若く、教育界の重要な地位についていたわけでもなかったので)拘束はされなかった。

 

   独身で気軽に動くことができた辻本さんは、自ら進んで太平洋沿岸部を脱出し、(日本からの農業移民がけっこう数多く住んでいた)コロラド州デンバーに移ることにした。…デンバーは、日米戦争の影響をあまり受けていなかったし、住民の反日感情も比較的に薄かったから、体を動かして働くことをいとわなかった辻本さんにとっては、けっして住みにくいところではなかったそうだ。

 

          ※

 

   日本人移民と日系人を太平洋沿岸部から立ち退かせはしたけれども(ナチがユダヤ人に対してやったよう〔強制収容〕をしたのではない、と主張するアメリカ人がいまでもいる(らしい)のは、連邦政府が早い時期に、短期間だけだったにしろ、(辻本さんの例に見られるように)いちおうは〔自主立ち退き〕のチャンスを与えたことがあるからなんだって。

 

   でも、いきなり〈さあ、自主的に、好きなところへ、どこへなりと〉といわれても、家族がうちそろって、何の憂いもなく移動していける場所なんか、そんな状況の中で、あるはずはなかったから、大多数の日本人、日系人は、住みなれた場所にそのままとどまるしかなかったし、その後に〔強制立ち退き〕命令が出されたときも、連邦政府が内陸部十三個所に急設した〔リロケーション・センター〕(という名の隔離施設)以外にすみかを見つけることなんかできはしなかったのだから、立ち退き命令は〔自主〕であろうと〔強制〕であろうと、結局は〔強制収容〕命令と同義だったそうだ。

 

          ※

 

   休刊準備を始めたジャネットさんたちが一番頭を悩ませたのは、日本語の活字をどう守り通すか、ということだった。休刊中ずっと社内に放置しておいては、第一には、FBIに押収されてしまう惧れがあったし、そんなことにはならなかったにしても、反日感情を抱く者が建物に押し入り、中を荒らし、活字のセットをばらばらにし、使い物にならなくしてしまうかもしれなかったからだ。それに、活字を盗み出し、溶かしたあとに換金してしまおうという者だって、出てこないとはいいきれなかった。

 

   ジャネットさんたちは、日米戦争が永久につづくとは思っていなかったし、新聞を再刊できる日、活字がまた必要になる日が必ずやってくる、と信じていたんだね。

 

          ※

 

   現実には、いっさいの印刷機材を社内に残して休刊した『日米新報』は、立ち退き命令が一九四五(昭和二十)年の夏に解除されたあと、活字も無事に回収できたというから、ジャネットさんたちは少し心配しすぎていたのかもしれないんだけど…。

 

          ※

 

   徳松が拘束されてからほぼ一か月後、『日報』は休刊宣言特別号を出した。

 

   活字は、結局、ドイツ系移民が経営していた印刷工場があずかってくれた。…ドイツはイタリア、日本と並んでアメリカの敵国だったわけだけど、ドイツ系移民は、イタリア系とおなじく(太平洋沿岸部からはもちろん、大西洋沿岸部からも)立ち退けとは命じられなかったんだね。

 

          ※

 

   太平洋沿岸部に住んでいた日本人と日系人およそ十二万人を対象についに〔強制〕立ち退き命令が出されたのは一九四二(昭和十七)年の三月二十三日だった。『日報』の社員とその家族たちも(ほかに行き場のなかった大多数の人たちとともに)それぞれ、ロサンジェルス近郊のサンタアニータ競馬場に(厩舎などを利用して)急ごしらえされた集合センターを経由して、各地の〔リロケーソン・センター(転住所)〕に送られていった。

 

          ※

 

   (日本でもかなり大きく報道されたというから、知っている人は多いのかもしれないけど、というか、あのころの僕は、いちおうは受験勉強に追われていて、テレビのニュースなんかもあまり見ていなかったし、新聞もほとんど読んでいなかったから、僕自身はまるで記憶がないわけだけど)アメリカ政府は五年ほど前に、あのときの収容政策は間違っていたとして、日本人移民、日系人に対して正式謝罪するとともに、かつて収容されたことがあり、その時点で生存していた人たち全員、六万人ほどに、一人二万ドルの補償金を払っているそうだ。

 

   そういうのって、たとえば、ほら、[大東亜戦争]として日本が行なった戦争で日本軍がコーリアンやフィリピーノの女性たちを〔従軍慰安婦〕として(七万人とも八万人ともいわれる規模で)強制徴用した問題に対する(歴代の)日本政府のぐずぐずした対応に比べると、(こちらも歳月はずいぶんかかったわけど)うんと潔いって感じがするよね。

 

          ※

 

   今夜はここまで。…疲れてしまった。

 

   きのう(木曜日)の夜のことにちょっとだけ触れておくと…。電話で二時間ぐらい真紀と話したよ。でも、特別なこと、つまり、僕の気持ちがぐらついていることは、おくびにも出さなかった。

 

   日曜日には、サンバナディーノ山脈の中にあるアローヘッド湖に二人で行くことにして…。