留学生・横田等のロサンジェルス・ダイアリー (1995) =10= 

8月25日 金曜日

 

この声の日記をつけ始めた日から数えて十一日目。
   今朝は、江波さんに不意打ちを食らわされてしまった。
   そもそも、いつもよりも遅く目を覚ましたのがいけなかったんだよね。あとの行動パターンがすっかりずれてしまって、あの人のところに顔を出したときも、まだ、気持ちがぴりっとしていなかったから。…そうじゃなきゃ、もうちょっとはましな対応ができていたはずだよ。
          ※
   またまた、ちょっと遠回りの説明。
   『南加日報』社があるのは、[ヤオハン・プラザ]があるサードとアラメダの交差点から少し東に行った、倉庫街って趣のある通りだ。…ユニオン・ステーションからあまり遠くないこの辺一帯は、数十年前に鉄道輸送が盛んだったころには、南カリフォルニアの物流基地だったんじゃないかな。使われなくなった線路が、撤去されないまま、まだ、あちこちの路上に残っているんだよ。
   元は倉庫だったと思われる大小の建物をいま使っているのは、(外から見て分かるものをいくつか挙げておくと)厨房器具卸小売業者や、広告看板製作所、インテリアデザイン工房、フィットネス・クラブなどだ。
   児島編集長が前に一度説明してくれたところによると、この一帯の企業は、たいがいは、事業を開始したばかりで、土地代や賃貸料の高い、発展中の地域や場所に会社を構えるに至っていない〔これから〕という企業か、まったく逆に、市場の競争から落ちこぼれそうになりながらも、賃貸料や人件費を削ってなんとか営業をつづけている〔そろそろ〕という企業かの、どちらかなんだそうだ。
          ※
   編集長が何を根拠にそう判断したのかは聞きもらしてしまったけど、通りで見かけるのは、なるほど、トゥエンティーあるいはサーティー・サムシングといった(はつらつとした歩き方の)若い世代か、中間が飛んで、どこか時間を持て余しているといった感じの五十代、六十代の人たちかの、どちらかだって気がするよ。建物の前に、高級ではないにしてもスポーツタイプの車が何台かとめてあるところ(インテリアデザイン工房やフィットネス・クラブなど)では若い世代が明るい将来を夢見ながら、一方、買った当時はステイタス・シンボルにもなっていたはずの大型の(古い)国産(つまり、アメリカ)車が並んでいるところ(厨房器具卸小売業者や広告看板製作所など)では高齢世代が見通しの暗さを嘆きながら、日々働いているんだろうか。
          ※
   そういえば…。編集長には、聞く人や読む人がつい〔なるほど〕と思わせられてしまうようなことを言ったり書いたりする、独特で貴重な才能があるんだよね。観察力が鋭いというのか、分析力に恵まれているというのか、とにかく、物事をうまく、ある型にはめて比べ論じる才能がね。
   そばで働いていて、〔もったいない〕って気がするときがたまにあるよ。だって、(偉そうなことをいうようだけど)あの人、バランスよく物事を見る、独断をさける、きちんと論拠を挙げる、そんな教育や訓練を若いころにちゃんと受けていたんだったら、たとえば『朝日新聞』ででも、いい新聞記者に、どころか、切れ者の論説員にだってなれていたかもしれないよ。たぶん、それぐらい鋭いところのある人だよ、児島さんは。…少なくとも、僕はそう思うよ。
   児島さん自身は〔オレは大新聞社で働きたがるような人間じゃないんだ〕、あるいは(そこまでは肩を張らずに)〔オレは『日報』程度が性に合っているんだ〕と言うかもしれないし、そもそも、論拠をいちいち気にしていたんじゃ、あんなふうにユニークな分析や意見は生まれてこないのかもしれないんだけど…。
           ※
   そんな場所に会社がある『日報』は、じゃあどうなんだって?
   企業としてはやっぱり、〔落ちこぼれそうになりながら〕組に属するんだろうけど、社員の車からは、そのことは分からないんじゃないかな。なぜかと言うと、フレッド社長が[アキュラ・リジェンド]、経理のグレイスさんが[リンカーン・タウンカー]、(無給で働いているタイピストの)伊那さんが[ビューイック・リーガル]、(もう一人のタイピスト)克子さんが[ボルボ850]でそれぞれ通ってくる一方、新聞社の前の路上には、ほら、光子さんの[ホンダ・シビック]や辻本さんの[フォード・エスコート]、田淵さんの[GMキャバリア]、前川さんの[フォルクスワーゲン・ビートル]などといった、かなり古い車もとめてあるわけだから。
   経済的な意味では何もこの新聞社で働かなくてもいいという人たちが、比較的に新しい高・中級車に、全収入をこの新聞社から得て暮らしている人たちが古びた大衆車に乗っているんだなんて、外からじゃ見えるわけがないだろうし…。
          ※
   で、元は倉庫街だったと思われるこの一帯には、僕が知っている限りでは、レストランはない。
   さほど遠くないところに[ヤオハン・プラザ]があって、中にはいくつもレストランがあるし、一階のマーケットでは出来合いの弁当を買うこともできるんだけど、『日報』の社員は、ふだんは、ランチのためにそこまで出かけることはない。みんな、自宅でつくったサンドウィッチなどを持ってきて、(食事用の部屋なんか別にないから)それぞれ自分の席でそれを食べるわけだ。
   工場の一角にあるキッチンでこしらえた(具が入っていない)インスタント・ラーメンをランチとして食べることがたまにはあるものの、僕も、まあ、サンドウィッチ派だ。朝、ホテルを出る前に(ホテルの共同キッチンで)さっとつくっておいたものを工場のキッチンの冷蔵庫に入れておき、ふつうは正午過ぎ、仕事が一段落したところで、急いで食べてしまう、というのがここ五か月間ほどの僕の習慣なんだ。
   だから、ホテルのキッチンの(一つしかない)冷蔵庫な中にはいつも、食パンとハム、チーズ、それにレタス、マヨネーズ、ケチャップが入れてある。選択の幅は、きょうはどの種類のハムにするか、どれぐらいの量のケチャップを使うか、といった程度に限られているわけだから、サンドウィッチをこしらえるのに時間はあまりかからない。…食べ物は、自分の名前を書いた紙を貼ったスーパーマーケットのプラスティック・バッグに入れておく、というのが宿泊客の習慣みたいだよ。小型冷蔵庫を買って自分の部屋に置いている(ガイドの)武井さんみたいな人もいはするけども。
          ※
   きょうは違った。
   昨夜は真紀と長く話し、いつもよりは夜更かしをしてしまったもので、今朝は目覚めが遅かった。だから、サンドウィッチをこしらえる時間がなかった。…いや、この時間までに出社してなきゃだめだ、という決まりなんかない会社だから、ちゃんとこしらえてからホテルを出てもよかったんだけど、ほら、〔午前七時に〕って自分が決めた時間があるじゃない。決めたことは、やっぱり、守りたいじゃない。
   サンドウィッチをつくる時間がなかった日のランチは、この元倉庫街を(土曜と日曜を除いて)毎日巡回しているランチサーヴィスのヴァンから買った何かを食べることになる。…ホットドッグや各種ハンバーガーのほか、ブリトーやタコなどのメキシカンフード、それにソーダやジュース、ミルクといった飲み物がメニューだ。
   新聞社から一番近いところにそのヴァンがやってくるのは、だいたい十一時ごろだ。ラッパみたいな音で合図して、やってきたことを辺りで働いている人たちに知らせるんだ。
   出来合いのコールド・サンドウィッチにしておけばよかったのに、きょう買ったのはホットドッグ。ふだんのランチタイムよりは一時間以上早い、いつもなら、まだ最初のニュースの翻訳に追われている時間だったんだけど、冷めてからよりはいまの方がおいしいだろう、という思いに負けて、僕はすぐに、それも、丸ごとのみ込むような勢いで、そのホットドッグを食べてしまった。…みなが仕事をしている編集室は避けたかったし、通りにただ突っ立ってでは様にならないって気がしたから、新聞社の外壁に背でもたれかかりながらね。
          ※
   (『日報』で働き始める前にはそういう習慣はなかったんだけど)食べ終わると僕は、いつもどおりにコーヒーが飲みたくなった。僕は、グレイスさんが電話をかけていた事務室を無言で通り抜け、『ウォールストリート・ジャーナル』の記事に赤のボールペンでアンダーラインを引いていた編集長にちらりと視線をやりながら、自分の机の上に置いてあったカップを取り上げると、そのまま編集室を通り過ぎて、コーヒーメーカーが置いてある工場のキッチンに向かった。
   工場に足を運んだついでにきょうの広告の量(つまりは、編集部が記事や写真で埋めなくてはならないスペースの大きさ)を確認しておこう、と思いついたのは、コーヒーをカップにつぎ終えた瞬間だったよ。
   僕は(レイアウト係の)江波さんの仕事台に近づいた。江波さんはその時間にはいつも、(写植係の)相野さんと打ち合わせながら、その日に掲載する(生け花教室の発表会の案内やコミュニティー団体の新役員就任報告、あるいは、そうそう、『日米新報』も含めて、いわゆる海外日本語新聞が読まれる最大の理由ともいわれる会葬・葬儀通知などといった)広告の版下づくりをやっているんだ。
          ※
   けれども、僕が近づいたときに江波さんが手にしていたのは、そんな広告の版下じゃなかった。
   「あ、横田君」。江波さんは、一八〇センチメーターほどの背の高さには似合わない、なんだか変に小さな声で言った。「ちょうどいま。これをどうしようかと考えていたところだよ」
   江波さんは、すでにできあがっている求人広告の版下を僕の方に差し出した。
   いや、どこかの企業が掲載してほしいと言ってきたものじゃなくて、『南加日報』社自体が出す、ほら、僕が二月に見たのとおなじ〔編集員募集〕ってやつ。
          ※
   食べたばかりのホットドッグが胃袋から食道に戻ってくるかと思ったよ。
   実際に、頭には血がどっとのぼってきたんだよ。…だって、僕の胸の中では、その広告が次に出されることがあるとすれば、それは、僕が編集長に〔予定どおりにやめさせていただきます〕って正式に伝えたあとのことになっていたし、当然、けさはそんなことを江波さんから聞く心の準備なんかできていなかったから。
   江波さんはつづけた。「月曜日からでも出すようにした方がいいかな、それとも…、なんてね」
   〔それとも〕のあとの空白がずいぶん長かったよ。たっぷり三秒間はあったんじゃないかな。…僕は考え込んでしまった。〈江波さん、〔それとも〕のあとに何が言いたかったんだろう〉って。
   その空白はいろんな言葉で埋めることができそうだったな。〈なるべく早く、きょうからでも?〉とか〈君がやめてしまってからでもいいかな〉とか、そうでなきゃ、一転して、〈ひょっとしたら、君は心変わりして、ここで働きつづける気になっているかもしれないから、この広告は出す必要はないのかな〉とかいった言葉でね。
          ※
   いや、ほんとうをいうと、僕は、江波さんが口にしなかったのは最後の〈ひょっとしたら、君は心変わりして…〉ってやつだったんじゃないかと、ほとんど決め込んでいたような気がする。
   なぜといって…。僕が感じていたことがひどい見当違いじゃなかったら、ときどきわがままを言ってだれかに無理やり[海流]を書かせたくなる児島編集長や、僕の英語力を実力以上に評価してくれている(らしい)辻本さんばかりじゃなく、会社のみんなが、僕ができるだけ長く『日報』で働くようにと願ってくれているみたいだったから。
   思うに、イマムラ社長やグレイスさんは、たぶん、僕が給料の額に不平をいわないという点を、タイピストの人たちや(英語欄レイアウト係の)前川さんは、(やる仕事の質はともかく、見かけによらず)僕がまじめで熱心に働くという点を、それぞれに評価してね。
   だから、僕の方から江波さんに〈その広告を出すの、しばらく待ってください〉だとか〈どうしようかと迷っている最中なんです〉だとか、あいまいなことをいうわけにはいかなかった。…いかないと思った。
   そうだよね?だって、いったん期待を高めさせておいて、あとであっさりやめていく、みたいなことになってはいけないじゃない。そういうのが一番まずいじゃない。…違う?
          ※
   「さっき、ふと気がついたんだけど…」。江波さんは数度、首を横に振った。「もう半月ちょっとしかないんだよね、君がアリゾナへ行ってしまうまでには」
   「ああ、そうですね」。僕はそう言っただけで、あとをつづけることができなかった。
   「編集の方で次にどうしても人が必要なのは、クリスマス・正月特別号を出す十二月だから、まだ慌てなくてもいいような気もするけど、新聞の経験のない人だったら、君はそうじゃなかったけど、ふつうは、仕事を覚えるまでにけっこう時間がかかるみたいだし、何より、これを出しても…」。江波さんは指先でつまむように持っていたその広告版下を上下に数度振りながら苦笑した。「働いてくれる人、今度もすぐには決まらないだろうからね。広告を見てやってきて児島さんと〔委細面談〕した応募者は、ほとんど例外なく、給料の額を聞いた段階で腰を上げるそうだから…。君はたまたま、その〔例外〕だったわけだけど…」
   僕の顔にも(江波さんとは違う種類の、複雑な)苦笑が浮かんでいたはずだ。
   「ときどき、そんな例外の人間が現われて」と江波さんはつづけた。「編集員として働きだしても、若い人は長くつづいたためしがないんだ。少なくとも、僕が見てきたこの十七年間ほどはずっとそうだったよ。…無理もないけどね。『日報』には若い人を引きつけておく〔明るい未来〕みたいなものがどこにもないからね」
   心底からそう思っている、そのことを悔しがっているって感じがあっただけで、皮肉な調子は少しも含まれていなかったんだよ。でも、僕は、なんだか自分が責められているような気がして仕方がなかった。
   「児島さんは…」。江波さんはそこで小さく笑った。「たまたま長くなったよ。だけど、あの人は、ここにやってきたときには、もう四十歳を過ぎていたはずだし、日本でおくさんと別れてから間がなく、人生の先も見え始めていたころだったからね。それに、ここだと、言ってみれば、〔お山の大将〕でいることができたから、あの人、思いのほか居心地がよかったんじゃないかな。〔所を得た〕というのかな。…そうはいかなかったんじゃない、あの人、日本では?」
          ※
   編集長のことをそんなふうに評する江波さん自身はどういう人か、少し説明しておくね。
   国籍でいうとペルー人なんだ、江波さんは。太平洋戦争が始まる前にペルーに移民した日本人夫婦に生まれた六人兄弟姉妹の末っ子で、(ほら、一九八七年まで『日報』で働いていたジャネットさんが幼いころにそうされたように)小学校に上がる直前(一九六三年)に、父親の故郷、宮城県に住む祖父母のもとに送られ、高校を卒業するまでそこで暮らしたんだそうだ。
   「両親の暮らしが楽になってから生まれた子だから、〔口減らし〕のためとかいうんじゃなかったんだよ」と六月の初めごろ、江波さんに話を聞かせてもらったことがあるよ。「そうじゃなくて、ペルーでの暮らしが良くなってきて、心にもゆとりができた親父が〔日本人意識〕みたいなものを自分の胸の中に復活させて、〔子どものうちのせめて一人は日本で育てたい、日本人にしたい〕と考えるようになって、それで、末っ子の僕を日本に送ることにしたみたいなんだ。…いや、〔日本人にしたい〕というのは国籍のことじゃなくて、精神的に、ということね。ちょうど、東京オリンピックの前で、ペルーの日本人移民たちの目が日本に向いてもいたころでね」
   父親の希望どおりに、江波さんは(〔学校の勉強は好きな方じゃなかったけども〕)精神的にはりっぱに日本人として育った。というか、ペルーにいたころの記憶は薄れる一方だったし、日本人以外には、もうなりようがなかったんだね。…そういえば、(ロサンジェルスの日本語テレビ局が南カリフォルニアで毎週土曜日の夜に放映している、NHK製作の)[八代将軍吉宗]を欠かさずに見るほどの時代劇好きに江波さんがなったのは、日本で祖父母といっしょに、ほら、[水戸黄門]や[大岡越前]みたいなドラマを見ながら育ったせいかもしれないね。
          ※
   ところが…。高校を卒業した年(一九七六年)にいったんペルーに戻った江波さんは、たちまち、いわゆる〔アイデンティティー・クライシス〕ってやつに襲われてしまった。
   何より、スペイン語がほとんど話せないことが(〔覚悟していた以上に〕)大問題だった。ちゃんとした日本語が使えるというのは、一方でスペイン語が自由だというのでなければ、大学に進むにしろ、職に就くにしろ、何の助けにもならなかったんだ。…江波さんは〔自分の日本での十数年間はいったい何だったんだろう〕と考えずにはいられなかったそうだ。
   ペルー社会に根を張り、少しずつ地位を向上させている(兄や姉たちを含めた)日系人たちに比べると、自分があまりにも〔ふつうの日本人〕であることも、江波さんには大きなショックだった。兄や姉たちがペルー社会で、一人は医者、他の一人は食品輸入会社の経営者といったふうに手にしていた地位が、江波さんの目には、自分が日本で努力してなんとか行き着けそうな地位よりも何倍も高いところにあるように見えたそうだ。…いや、日本に戻れば、〔ふつうの日本人〕である江波さんにも、物質的には兄や姉たちにはそれほど劣らない暮らしができるかもしれなかったけれども、(〔兄たちがペルーでどんな社会的な地位にあるかを自分の目で見たあとだったからね〕)日本でのそうした暮らしに自分が満足していられるかどうか、江波さんは分からなかった。
   江波さんは、とにかく、ペルーを去ることにした。…事実上日本語しか知らない江波さんはペルーでは、ほら、〔ふつうのペルー人〕にさえなれそうになかったから。
          ※
   「僕を日本へ送り出したとき、親父はどうやら、〔一等〕の国で育てれば自分の子も 〔一等〕の人間になれるのではないか、と考えていたようだけど」と江波さんは言った。「そうはいかなかった。僕は、発展しつづける日本のことを自分自身のことのように誇らしく思うように育っていたんだよ。でも、よく考えてみると、その僕自身は何者でもなかった。…ペルーに戻った僕は、自分が何なのか、どうしたらいいのか、分からなくなってしまっていたよ。だからと言って、そのことで親父に不服を言ったりはしなかったけど…。あの人が僕のために良かれと思ってしたことだからね」
   江波さんは第三の道を選ぶことにした。ペルーと日本はどちらとも避け、アメリカで(英語を勉強して)出直す、というものだった。
   二十歳になる少し前に、江波さんは南カリフォルニアにやってきた。ガーデナ市にある日本食レストランで下働きをしながらアダルトスクールに通って英語を勉強し始めた。…けれども、勉強は長くはつづかなかった。
   江波さんの説明はこうだったよ。「だって、ここじゃ、英語ができなくてもちゃんと暮らせそうだったからね。ペルーと違って、ここには日本人がぞくぞくとやってきていたし、そういう人たちが常に、新しい自分たちの社会を築きつづけていたから、日本語しかできない〔ふつうの日本人〕でしかない僕でもちゃんとやっていけそうだった。…『日報』で〔日本語欄割付係求む〕って広告を見たのはそんなころだったよ。僕はそれに飛びついた。…いや、その仕事に就いたからといって、兄たちとおなじ〔社会的地位〕を手に入れることは望めそうになかったけれど、日本にいたんでは、僕なんかが簡単には就けない類の、けっこう〔社会的意義〕のある仕事のように思えたからね。日本で身につけた日本語の読み書き能力がじかに役立つ、つまり、日本語は会話がいくらかできるだけの兄や姉たちには勤まりそうにない、だれに知られても恥ずかしくない、そんな仕事じゃないかと僕には思えたわけだ」
          ※
   あ、そうだったかもしれないな。…いや、僕自身のこと。
   そんな話を江波さんから聞いた六月初めごろの僕は、この新聞社での仕事が案外おもしろいものになりそうだと感じ始めてはいたものの、まだ半分ぐらいは、ほら、〔時間つぶし〕気分で働いていたわけだから、話を聞いても、江波さんと僕自身を比べてみるようなことはしなかったんだけど…。
   あのあとも、はっきりとこんなふうに意識したことはなかったように思うけど…。
   僕の気持ちが七月に入ったころから少しずつ〈『日報』でこのまま働きつづけてみようかな〉というふうに揺れ動き始めたのは、もしかしたら、この仕事が僕にも、ほら、〔兄や姉たちには勤まりそうにない〕ものに見えてきたから、だったかもしれないな。収入だとか働く環境だとかは、どう見てもいいとはいえないけれども、この仕事だと〔だれに知られても恥ずかしくない〕のじゃないかと僕にも思えてきたから、だったかもしれないな。
   もちろん、それだけが〔揺れ動き〕の理由ではなかったはずだけど。
          ※
   そんな江波さんが『日報』で働きだしてから十七年以上が過ぎている。
   あの人も(児島編集長とは事情が違うにしても)ここに〔所を得た〕一人なんだろうね。
          ※
   「光子も…」。〔編集員募集〕の版下を手にしたまま、江波さんは言った。「編集長と似たところがあるな。もう若いって年齢ではないし、あんな調子で、何を考えて生きているのか分かりにくい女だからこそ、ここで働いていられる、みたいなところ…」
   〔あんな調子〕というのは、もし〔時間に厳しくなれない人だ〕とか〔古い車に乗っているからといって、そんなことを恥ずかしがりはしない人だ〕とか言っているんじゃなかったら、何を指してのことか、僕には見当がつかなかったけど、あのときの僕には、まあ、どうでもよかった。…江波さんがいいたかったことは、たぶん、僕には、『日報』で〔お山の大将〕になる気も、(それが何であれ)〔あんな調子〕で生きていくつもりもないだろうから、僕が去っていくのは当然だ、ということだったんじゃないかな。
          ※
   「いや、実際、若い人が何人も、来てはまた去って行ったよ」。そういいながら、江波さんは高々と視線を上げた。…次々と去っていく〔若い人たち〕を見ながら十七年間黙々と働きつづけてきた自分自身のことを思って、ある種の感慨にふけっていたのかもしれないね。
   「君は学生で…」。江波さんは僕の方に向き直った。「初めから半年間ぐらいだという話だったけど、彼らはたいがいは一、二年。長くても三年。…つまり、ほとんどの場合は、〔『日報』にスポンサーになってもらって永住権が取れたら間もなく〕ね。…しょうがないね」
   この〔しょうがないね〕も僕には意味がよくは分からなかった。江波さんが〔しょうがない〕と思ったのは、あっさりと(『日報』はただの踏み台だった、といわんばかりに)やめていった若い人たちのことのようでもあったし、その人たちを引きとめることができなかった『日報』のことのようでもあった。
   僕はレイアウト台の前に立ち、年間の通し広告以外は、まだ何も貼られていない版下台紙を黙って見下ろしていた。そうしているしかなかった。…江波さんの〔これをどうしようか〕にはまだ結論が出ていなかったからね。
          ※
   幸いなことにというか、思いのほかというか、僕の立ち往生は長くはつづかなかった。
   ちょっと感慨にふけったあとの江波さんは、あっけないほど事務的だったよ。「まあ、いいか。東本願寺の講話の会の広告があとで入ってくるかもしれないとさっきグレイスさんが言っていたから、しばらく待ってみて、これをどうするかは、そのときのスペースの空き具合を見て決めることにするか」
   そういうと、江波さんは、問題の〔編集員募集〕の広告版下をレイアウト台の横の机の上に(ラスベガスのカシノのディーラーがカードを客の前に投げ出すときみたいに)さっと放った。
   僕は何より先に、やれやれ、と思ったんだよ。だけど、一方では、自分の運命がみょうに軽く扱われたような気がして…。
   いや、僕の運命なんて、もともと、そんなふうに軽く扱われても仕方がないぐらい軽いものなのかもしれないんだけど…。
          ※
   とにかく…。アリゾナに移動しなきゃならない日までに僕がどう決断するかは別にして、きょうからだろうと月曜日からだろうと、やっぱり、〔編集員募集〕広告は出してもらうしかないようだった。出すのは待ってください、というわけにはいかなかった。
   広告が出れば、江波さんの読みが外れて、たちまち、〔その条件でけっこう。働かせてもらいましょう〕という人物が出てくるってことも、つまりは、僕の気持ちが去るとも残るとも決まらないうちに次の編集員が見つかって、『日報』に僕の居場所がなくなってしまうってことも、ないとはいえなかったけども、そうなれば、〔それも運命〕だと考えるしかないようだったよ。
   『日報』が急に遠のいたようだったな。
   働きだしてから五か月間ほど。初めてだったよ、あんなふうに感じたのは。
   僕にそんな〔不意打ち〕を食らわせたことに、もちろん、当の江波さんは気がついていなかった。
          ※
   というような具合で、きょうの午前中は最低だったよ。そのあと自分の机に戻ってからでも、〈ああ、決断しなきゃならない日が迫っている〉と思うと、気持ちが乱れてしまって、仕事がまるではかどらなかった。
          ※
   突然だけど、ここでテープレコーダーを置いて、真紀に電話をかけることにするよ。…この週末はリバーサイドには行けないって。
   進路のことで考えなきゃならないことがたくさんあるから、とはいえないから、何か嘘をつくことになってしまうけど…。
          ※
   (十五分後)
   結局、児島さんを悪者にしてしまった。また[海流]のエッセイ書きを急に押しつけられ、原稿を月曜日の朝に提出するよう命じられた、ということにしたんだ。「何を書こうかってさっき考え始めたところだけど、頭の中が空っぽで、こんな調子じゃ、書きあげるまでにうんと時間がかかりそうだから」って。
   何も疑わないんだよね、あの子。
   たとえば、(こんなところでいきなり例に出して悪いけど)遼子さんだったら、〈それ、今夜のうちになんとかならないの?〉だとか〈あすは会えると思っていたのに〉だとか〈ひどい編集長ね。そんなところで働くことないわよ〉だとか、不平や恨みがましいことを何かいいそうな場面じゃない?
   だけど、真紀は違うんだ。そういう類のことをいうかわりに、「大変ね。でも、がんばって」なんてことが、自然にというか、無理も嫌味もなくというか、とにかく、すなおにいえる子なんだ。
   そりゃあ、もっと甘えられてみたいって気がすることもあるよ。ありはするけど、自分がはっきりしない性格だからなのか、僕は、真紀のそんなふうに(いわば)淡白なところに知性みたいなものを感じるし、そこに惹かれてしまうんだよね。
   やっぱり、真紀を〔裏切る〕なんて僕にはできないのかな。…そんな結論になってしまうのかな。
          ※
   振り返ってみると…。
   [ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]の〔内紛〕事件の報道が最初だったんだよね。『南加日報』での仕事が(想像していたのをはるかに超えて)おもしろいものになりそうだって感じたの。
   というんじゃ足りないな。だって、ほんの数日間のことだったんだけど、あの事件、頭の中をじかに掻き回されるみたいに刺激的だったんだよね、僕には。…自分が責任を持って取材したとか記事にしたとか、そういうのではまったくなかったのにね。編集長の精力的な働きをそばで見ていただけだったのにね。
          ※
   あれは四月の中ごろだった。…と言ったのでは、なんだか、手軽に製作されたテレビドラマのナレーションみたいだから、ここは新聞記者の〔はしくれ〕らしく、日時をはっきりさせた方がいいな。
   児島編集長が取材先から少し興奮気味で戻ってきたのは、四月十二日の夜八時過ぎだった。
   いや、正直にいうと、あのころはこんなふうに日記をつけていたわけじゃないから、何日だったかは正確には覚えていないんだけど、僕がそんな時間まで居残って、翌日に掲載される(はずの)[海流]の原稿を必死の思いで書いていたのだから、あれが水曜日だったってことは確かだし、おなじ〔四月の中ごろ〕と言っても、十九日だと、ほら、〔大阪からきた女の子〕の出来事があったときに近づきすぎて、僕の記憶とのズレが大きくなってくるから、あれはやっぱり十二日だったと思うわけ。
   あす会社で、あのころの新聞を引っ張り出して調べなおす必要は、ないよね?
          ※
   で、戻ってきた編集長は自分の椅子に腰を下ろすと、(たぶん、僕に聞かせるつもりで)独り言を言った。「あの連中ときたら、ほんとうに、救いようのないゲスばかりなんだから…」
   あのとき僕が書いていたのは、編集員になってから二本目の[海流]用原稿だったんだよね。だから、僕はワープロの前で四苦八苦していて、編集長がどんな様子で帰ってこようと、そんなことにかまっている余裕はなかった。〔あの連中〕がだれのことかも、まあ、どうでもよかったし、〔ゲス〕も最初は、〔推測する〕とか〔当て推量する〕とかいう意味の英単語の日本語ふう発音に聞こえてしまい、〔下司〕か〔下種〕、そうじゃなきゃ〔下衆〕という日本語の単語だったんだと気づくまでにはちょっと時間がかかってしまった。
          ※
   でも、いったんそう気がついてみると、〈どの漢字を当てるにしろ、取材してきた相手のことをそんなふうに呼ぶのはふつうじゃないんじゃないか〉と僕には思えてきた。だから、僕はなんとなく手を休めてしまった。
   僕が顔を上げたことを見て取った編集長は、〔オレ、じゃまする気はないんだよ〕みたいな表情をいったん見せたあと、今度ははっきりと僕の目を見据えながら言った。「欲はいかんぞ、横田君」
   僕は、自分が欲深いとか欲張りだとかいわれているんじゃないってことは、編集長の口調と表情から分かったものの、その〔欲〕が何を指しているのか、〔いかん〕のがだれなのかはまるで見当がつかなかったから、精一杯に怪訝そうな目つきで編集長の目を見返したよ。
   児島さんは僕のそんな反応を待っていたみたいだった。「それぞれ、自分の仕事では社長や会長と呼ばれている連中なんだけど、ああなると、見苦しいな」
   その〔ああなると〕も、当然、何のことだか僕には分からなかった。
          ※
   あのころの僕は、編集長が(どういう人物であるかについては、まだよく理解できていなかったけれども)そんな話し方が得意な人だってことには、もう気がついていたよ。…まず、いきなり、聞き手がまったく予期していなかったこと(ここでは「欲はいかんぞ」)を口にして、相手が〈何を言ってるんだろう、この人?〉みたいな(編集長が計算したとおりの)反応を見せると、次に少しだけ、〈〔欲張り〕だといわれているのは〔社長や会長と呼ばれている人たち〕なんだ〉と分かる程度のヒントを出して、相手の注意や関心をつないでおき、そこで再び〔ああなると〕みたいなあいまいな言葉づかいをして、相手を完全に自分の話に引き込んでしまう、そんな〔話し方〕がね。
   そうそう、ほら、あの人が六月に書いた例の、[ドジャーズ]の野茂投手に関するエッセイが大方そうだったじゃない。〔筆者はこういうのが嫌いだ。こういうのとは、日本人の態度のことだ。どんな態度かといえば…〕って書きだしのやつ。…あそこでは、相手の反応を見ながら、というわけにはいかなかったから、いったん意表をついたあと、たたみかけて書いたわけだけど、読む人はまず〈〔こういうの〕って何のこと?〉〈その〔日本人の態度〕ってどういうの?〉って、やっぱり思っちゃうじゃない。先を読んでみようかって思うじゃない。
          ※
   で、〈うん、これはなかなかの話術だ〉みたいに感心しながら、僕は〈その〔社長や会長と呼ばれている連中〕がいったい何をしでかしたのだろう〉といっそう耳を傾けたわけだ。…その時点で僕は、書きかけの文章を〔保存〕して、ワープロのスイッチを切ったはずだけど、そこまでは覚えていない。
          ※
   そのあと編集長が話してくれたこと、その後数日間に編集長が記事にしたこと、[海流]で論じたことなどをまとめて、その四月十二日に起こったことを説明すると…。
          ※
   あの日編集長が取材に出かけていたのは、リトル東京の東の端に近いところにある禅宗寺の付属施設の一室を借りて開かれた[ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]の〔秘密〕緊急理事会だった。
   [会議所]は、実は、一階にデューティーフリーのみやげ物店が入居している(サード・ストリート沿いの)ビルにオフィスを構えていて、そこには会議室もあるんだけども、あの夜は、部外者をすべて遠ざけておいて密かに懸案について話し合おうというので、人目につきにくい(はずの)禅宗寺の部屋を借りていたんだそうだ。
   〔秘密の〕理事会だったはずなのに児島編集長が取材に出かけていたのはどうしてかって?
   そこなんだけど…。実は、会頭と副会頭の仕事を支える形で十二人いる理事の中に一人、〔秘密〕理事会がその日、何時に、どこで開かれるかを編集長に漏らした、というか、通報した人がいたんだよね。
          ※
   裏切り者?
   そう言えないこともないんだろうけど、あのころ、理事会内部は、そんな通報者が出てもおかしくない程度に混乱していたみたいだよ。
   というのは…。議決権を持つ(会頭と副会頭を含めた)十五人で構成されている理事会は、当時、四派に分かれていて、しかも、その四派がそれぞれ自分たちのグループの利益を守り通そうというので、議題によって(編集長の言葉でいうと)〔合従連衡の組み合わせを融通無碍に変えて〕いたんだって。だから、何かを決めるにしても、全体が一致してそこに向かって前進するということは少なく、合意事項にも、本来なくてはならないはずの拘束力がなくなっていたんだね。
          ※
   その四派というのは、一つは、リトル東京を中心とする地区で昔から事業・商売を営みつづけている(編集長の命名によると)〔土着派〕日系人グループ(代表理事七人)。もう一つは、この二十年ほどのあいだに日本からやってきて(ロサンジェルスダウンタウンから一〇マイル、一六キロメーターほど南に位置する)ガーデナ市やトーレンス市に営業拠点を設けた〔進出派〕日本人グループ(代表理事六人)。三つ目は、〔経営者が老齢化したけれども後継者がいない〕などの理由で事業・商売をやめた日系人に取って代わるようにリトル東京地区に入ってきたチャイニーズやコーリアンの(なぜか)〔外国人〕グループ(代表理事一人)。最後は、この数年のあいだに日本から移ってきて南カリフォルニア各地でレストランや貸しビデオ屋、美容院などの商売を始めた〔新参派〕日本人グループ(代表理事一人)。
   [会議所]のメンバーとしては、ほかに、戦前あるいは終戦直後からガーデナ市一帯で商売をしてきた、もとは[ガーデナ日系商業会]に属していた、〔土着派〕に近い人たちがけっこうたくさんいるんだけど、このグループはもう長年、理事を出していないそうだ。
   いや、実をいうと、会頭はもともとこの[ガーデナ日系商業会]グループに属していた人なんだそうだ。だけど、商売上の利害は〔進出派〕と共にすることがほとんどだから、というので、この人、いつの間にか〔進出派〕に鞍替えしてしまったんだって。
   で、問題の四月ごろ、副会頭は〔土着派〕が出していた。
          ※
   いうまでもなく、チャイニーズとコーリアンのグループは、民族についていえば、いわゆる〔日系〕じゃないんだけど、(おもに)リトル東京地区で増大しつづけている影響力を反映して、理事を一人出していたんだ。
   この人たちを[会議所]のメンバーとして迎え入れるかどうかでは、数年前に、日系・日本人メンバーが〔純潔派〕と〔交流派〕とに分かれて、ずいぶんもめたことがあるそうだよ。…そのときは、自分の地区の発言力を強めたいリトル東京の〔土着派〕が一致して〔交流派〕に固まって奮闘し、迎え入れを承認させたんだって。
   で、あの日。児島編集長に通報してきたのは、〔土着派〕でも〔進出派〕でもなく、リトル東京のセカンド・ストリートで焼き肉レストランをやっている、〔外国人グループ〕のコーリアン、パーク理事だった。
          ※
   編集長からこの辺りまで説明を聞いたとき、僕はもう、いくらか気分が昂ぶっていたよ。
   なんでって…。あのころの僕は、十月からはフィニックスの大学で経営学を勉強するんだって、何の迷いもなく思っていたわけじゃない。だから、南カリフォルニアの小実業家たちが(たぶん、経営学の理論や数字が教えないだろうところで)繰り広げる競争の現実がどんなものなのかについては、当然、興味を覚えた、というか、知りたいと思ったし、しかも、その現実というのが、なにやら、ひどく生臭いもののようだったから…。
          ※
   パーク理事が児島編集長に通報してきたのは、だけど、二人が友人同士だったから、とかいうんじゃなかった。実際、編集長はパーク理事のことを見知ってはいたものの、それまで親しく話したことはなかったし、パーク理事が編集長のことを知っているとも思っていなかったんだ。だから、編集長にとって、この通報はまったく〔意外な人物〕からのものだった。
   一方、パーク理事の方は、編集長のことを間接的に、特に[海流]のコラムニストの一人として、よく知っていた。…ああ、そうなんだ。パーク理事は(日本には観光目的で短期間行ったことがあるだけなんだそうだけど)、日本が〔占領統治〕していた時代に朝鮮半島で育った多くのコーリアンがそうであるように、いまでも日本語の読み書きができるんだって。で、できるから、『日報』を定期購読していて、編集長の論の張り方、特に〔日本に住む日本人〕に批判的なところにしばしば共鳴していたんだそうだ。           ※
   編集長は、パークさんのことを僕に話したとき、説明ができるだけ客観的に聞こえるよう努めてはいるようだったけど、表情がときどき〔得意満面〕ってふうになるのを抑えることはできていなかったな。…〈この人、けっこう無邪気なところもあるんだな〉って感じたことを覚えてるよ。
   いや、もちろん、いまでは、ただ〔無邪気な〕だけの人じゃないってことが僕にもよく分かっているんだけどね。
          ※
   [海流]を読んで児島さんの物の考え方がよく分かっていたパークさんは、その、問題の〔秘密〕緊急理事会にはぜひとも編集長に顔を出してもらわなくては、と考えたんだそうだ。
   なんでそう考えたかというと…。パークさんは以前から、編集長が、一、南カリフォルニアの日系・日本人社会について真摯で多大の関心を持ちつづけている、二、常に日系・日本人社会の利益を擁護する観点、立場から意見をいう、三、その意見は切れがよくて、公正で分かりやすい、四、何者も恐れずに発言する、などといった点を高く評価していたんだって。
   僕は、〔常に日系・日本人社会の利益を擁護する〕と〔公正〕とは並び立たない、というか、そもそも、すっかり矛盾しているんじゃないかと思うんだけど、とにかく、編集長の説明はそうだったよ。
          ※
   で、パーク理事はあの日、予定されていた緊急理事会は〔秘密〕にしない方がいい、と考えていた。〈秘密にしたために歯止めがなくなり、話し合いがもつれて[会議所]が分裂するようなことがあってはならない〉〈分裂すると、日系人、日本人、それに、その人たちに混じって事業を営むチャイニーズやコーリアンたちの、立法や行政などに対する発言力が低下する〉〈発言力が低下すると、関係当局からの支援や援助が受けにくくなり、コミュニティー内の商業経済活動が停滞してしまう〉〈そんなことにならないよう、ここは、話に適度なブレーキをかける第三者の公正な目があった方がいい〉といった具合に考えていた。
   そして、その〔第三者〕は、パーク理事にはどうしても、〈たとえ会頭あるいは副会頭が理事会の会議場への入室を拒んでも入りきるだけの〔力技〕を備え、しかも、経済活動とは違った分野でコミュニティーに〔影響力〕を持っている人物でなければならなかった〉のだそうだ。
          ※
   緊急理事会はは午後四時から開かれることになっていた。
   児島編集長は三時過ぎにはもう、禅宗寺の駐車場の一角に自分の車([ポンティアック・グランダム])をとめ、中から、会議で使われる二階の一室の出入り口とそこにつづいている通路とを見張る態勢に入っていた。…理事会が始まる前に、その部屋の外でだれかがだれかと〔密談〕するかも知れなかったし、それを見れば、だれとだれが〔つるんでいる〕かが分かって、記事が書きやすくなるから、というのが編集長の説明だったけど、どうしても事前にしておかなけれならない〔密談〕だったら、みんなとっくに、どこかほかの場所ですませていたんじゃないかな。
   いや、実際に、その点では収穫は何もなかったらしいよ。…それぞれ自分の車でやってきた理事たちは、一人の例外もなく、まっしぐらにその部屋に入って行ったそうだから。
          ※
   その見張りは、それでも、〔秘密〕理事会に入り込むための作戦を考える時間を編集長に与えたようだよ。
   編集長が立てた作戦はこうだった。「入室を拒むのが〔進出派〕だったら、(ガーデナ市内の家庭用電気製品販売店のオーナーである、六十代も半ばを過ぎた)会頭が、実は、賭けゴルフ狂いで、一ラウンドで数千ドル負けたことが何度もあるのに、その負けた分をなかなか払わない、[ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]の会頭としては、これは二重三重の意味で、品位に欠ける、けしからん行為だ、というエッセイを、もし〔土着派〕だったら、(リトル東京にある保険代理店の経営者である、会頭とほぼ同年齢の)副会頭が、別れた夫とのあいだに三人の子を持つメキシカンの女性を数年前から、副会頭の自宅から遠くないサンゲーブリエル市内のアパートに囲っているが、これは、副会頭夫人が長年病弱だからといっても、道徳上問題ではないか、というエッセイを、それぞれ[海流]に書くつもりだ、と言って脅して黙らせる…」
          ※
   編集長の話では、会頭の行ないが〔けしからん〕のは〔賭けゴルフ〕をすることなのか〔負けた分をなかなか払わない〕ことなのかがはっきりしていなかったし、副会頭が〔メキシカンの女性を囲っている〕というやつでは、病弱な夫人がいる副会頭に編集長がいくらか同情しているようにも聞こえたから、そんなことでほんとうに〔脅して黙らせる〕ことができるんだろうかと怪しんでしまったけれど、僕はとりあえず、「そういうやり方って、新聞記者としての倫理みたいなものに反するんじゃないんですか」というふうにたずねてみた。
   〔倫理に反する〕と決めつけたんじゃ生意気すぎるように聞こえるだろうと考えたから〔みたいなものに〕などとぼかしたんだよね。でも、編集長には、そんな違いはどうでもいいことのようだった。
   「そうだろうな」。あの人は、僕が拍子抜けしてしまうほどあっさりと、そう答えたよ。「だけど、横田君、公共の利害に大きく影響するかもしれないことをこっそり話し合おうと考える連中が相手なんだよ。汚い手を使う覚悟も少しはしておかないと、取材なんかできないよ」
   「でも、〔賭けゴルフ〕とか〔囲っている〕とか、そういうの、事実なんですか」と僕はたずねた。
   遠慮がちにたずねたつもりだったけど、考えてみれば、これはずいぶん危ない質問だったんだよね。だって、〈根も葉もないことをいい立てて、それで取材させろと要求するつもりじゃないでしょうね〉とたずねたのも同然だったじゃない。
          ※
   ほっとしたことに、編集長はここでも、別に気を悪くしたような様子じゃなかった。
   「〔一ラウンドで数千ドル負けたことが何度もある〕というのは、まあ、はったり、でたらめ、言葉のアヤ。ほんとうは〔数百ドル〕だってことだけどね…」。そういうと編集長は片頬で笑った。「少しは的外れを言っておく方が、愛嬌がっていいんだよ、新聞記者は。刑事や検察官じゃないんだから。…だけど、ほかの話はある筋から僕が直接聞いたもので、間違いないよ」
   〔新聞記者は愛嬌がある方がいい〕というのは、編集長が自分の経験から得た貴重な知恵なんだろうと思うと、理解できなくはないって気がしたよ。でも、〔ある筋から僕が直接聞いたものだから間違いない〕というのは、(偉そうなことをいうと)ちょっとおかしいと思わないわけにはいかなかったな。だって、〔直接〕というのは、会頭から〔数千ドル〕を巻き上げた人物(たち)から自分がじかに証言を取ったとか、そのメキシカンの女性が住んでいるアパートを確認し、副会頭が通ってくるところを自分の目で見たとか、そういうのじゃなきゃいけないんじゃない?…まして、そういうのを〔脅し〕のネタとして使おうというんだから。
   僕がまだ不審そうなそうな表情をしていたからか、編集長はつけ加えた。「ほら、例の〔信頼できる筋〕からの情報だよ」
          ※
   会頭のシルバーグレイのメルセデスベンツが駐車場に入ってきたのは、ほかの理事たちが全員部屋に入ったあとの三時五十五分ごろだった。編集長は(見張りに成果がなかったことにいくらか落胆しながら)自分の車から出て、会頭の車に近づいた。
   そんな場所にいるはずのない編集長の姿をウィンドーのガラスの外に見た会頭は、これ以上はないというほど不快そうな表情を見せたものの、とりたててうろたえることもなく、静かに車から出ると、背広のポケットから[ダンヒル]の箱を取り出しながら編集長にたずねた。「だれなんだ、君に知らせたのは?」
   編集長はそれには答えず、こう応じた。「〔秘密〕はいけませんよ」
   会頭はタバコに火をつけ、不快さをいっそうあらわにした顔で言った。「事を混ぜっ返す、君みたいな人間がいるから、秘密にしなきゃならんときがあるんだよ」
   僕は〈ああ、そうなのか。児島さんは、少なくとも一部の人たちには〔事を混ぜっ返す〕人物と見られているのか〉と思いながら耳を傾けていたよ。
          ※
   編集長は負けていなかった。「コミュニティーの中のおかしな動きにブレーキをかけるのもわたしの役目だと自分に言い聞かせて、誠心誠意で働かせてもらっているんですがね」と会頭に応えた。
   会頭はいっそう顔をしかめて言った。「君の筆の暴走はどうなんだ?…ブレーキをかけてくれる者がどこかにいるといいんだがね」
   というような話を、児島さんは(やはり、いくらか得意げに)してくれたわけだけど、自分のどんなところが〔筆の暴走〕と言われているんだろう、というふうにはぜんぜん考えていないようだったよ。…そんなことを言われるのは、自分の記事やエッセイが相手の痛いところを突いているからだ、とでも受け取っていたのかな。
          ※
   会頭は憮然とした表情のまま、会議室に向かって歩きだした。肩を並べるような格好で、編集長も足を運んだ。
   会頭は言った。「むだだよ、ついてきても。取材はさせないよ、きょうは。全員一致で決めたことだから」
   用意していた手を編集長が使うときだった。編集長は会頭の耳に口を近づけ、ささやくように言った。「最近あちこちで、会頭が賭けゴルフに狂っているって話を耳にするんですがね。それも、数千ドル単位の額のカネが動く賭けで…。ずいぶん負けているそうじゃないですか」
   〔脅し〕は、編集長が期待していた以上に効果があった。
   会頭は、編集長の〔数千ドル単位〕という指摘をあえて否定することもなく、ただ、苦々しそうにつぶやいた。「僕が黙認しても、ほかの理事が反対するさ」
          ※
   会議室のドアを開けると会頭は、中のだれかが口を開く前に、背後の編集長をあごで指し示しながら言った。「どなたかこの男を追い返してくださいよ。どこで聞きつけたものか、そこで待ち伏せしていたらしくて…」
   会議があることを編集長に知らせていたパーク理事は、いったん顔を上げはしたものの、すぐに机の上の書類みたいなものに視線を落とした。
   「いや、いや、〔秘密〕はいけません」。駐車場で会頭に言ったことを編集長は、だれへともなく、大声でくり返した。
   部屋の奥から副会頭が進み出てきた。
   副会頭は、だけど、しかめっ面ではなかった。「よりにもよって、会頭、コミュニティー内で最悪の人物に捕まってしまいましたね」というと、背後の理事たちに向かって、皮肉な調子で叫んだ。「どうしましょう、みなさん?腕力で追い返しますか?」
   何人かが冷ややかに笑った。
   〔コミュニティー内で最悪の人物〕と評されたことについても、児島さんは何もコメントを加えなかったよ。そんな評も、あの人にとっては、改めて反応するほどめずらしいものではなかったのかもしれないね。
          ※
   ところで、五月になってから編集長から聞いたことなんだけど、〔副会頭がメキシカンの女性を囲っている〕という話は、まるっきりのでたらめだったんだって。
   いや、副会頭がときどき訪ねるメキシカン女性は実際にいたんだよ。でも、この女性は、数年前から(副会頭の病弱なおくさんが特に体調を崩したときに)副会頭の自宅で家事をやってくれている人で、緊急の際には副会頭が自分で送り迎えをしていたんだそうだ。…その女性の家で副会頭を(たまたま何度か)見かけただれかがあんな噂を立てたんだろうね。
   「〔信頼できる筋〕にも信頼できないときがある、ということだよ、横田君」。編集長はあっけらかんと言った。「だけども、あのときは、僕は、まあ、ついていたといえるよ。だろう?駐車場で捕まえたのが会頭でなくて副会頭だったのだったら、僕は、ありもしないことをタネにして〔脅す〕ことになっていたわけだから、副会頭を無用に怒らせて、理事会の取材はまったくできていなかったかもしれないからな」
   〈取材ができたかできなかったかを気にするよりも、そんなあやふやな情報を鵜呑みにしていた自分を反省した方がいいんじゃないかな、編集長は〉と僕は思ったけど…。
          ※
   児島編集長を室外で待たせておいて行なわれた理事たちの話し合いは五分間ほどで終わった。
   編集長があとでパーク理事から聞いたところによると、〈いまさら追い返したのでは、かえってうるさうことになってしまうかもしれませんな〉という副会頭の意見に、一人を除いて全員が同意したんだそうだ。…〔うるさいこと〕というのは、ほら、何を書きたてられるか分からない、というような意味だったんじゃないかな。
   〈一度決めたことだから、編集長の取材はやはり拒むべきだ〉と主張しつづけたのは、会頭の〔進出派〕でも副会頭の〔土着派〕でもなく、そのどちらからも中立だと思われていた〔新参派〕の理事だったらしいよ。…古参理事たちのあまりにも〔変幻自在〕で〔ご都合主義〕の会運営に反発した様子だったんだって。
          ※
   編集長を部屋の隅に座らせておいて始まった理事会は、議長である(〔進出派〕の)会頭が「きょうは議決することが目的ではありませんから、みなさん、一つ、忌憚のないところで、おおいに話し合っていただいて…」と言ったところで、たちまち 〔荒れ模様〕 となった。
   〔土着派〕の理事の一人が〈会頭が〔さきの問題発言〕に関して正式に謝罪するのでなければ、会頭不信任案を提出しなければならなくなる〉とまくしたてたからだった。
   これに対して、〔進出派〕の理事の一人が〈それは約束と違う。きょうは、例の発言について会頭の再説明があるだけだ、というので出てきたのであって、何かを議決するというのなら、いますぐ退席させてもらう〉といきり立った。おなじ派の理事二人がこれに合流した。…会頭を含め、〔進出派〕の六人全員が考えを一つにしていることが他派に伝わるにはそれで十分だった。
   会頭不信任決議は、十五人の理事のうちの三分の二、十人以上が賛成しなければ成立しないという規定だから、〔進出派〕は、六人が全員そろって反対すれば、決議案をあっさり拒否することができたわけで、〔土着派〕理事の〔まくしたて〕と〔進出派〕理事の〔いきり立ち〕には事実上、何の意味もなかったんだけど、会の雰囲気を決める働きは、それぞれ十分に果たしたんだって。
   もっとも、パークさんは、会が終わったあと、この理事会が分裂の危機を迎えることなく〔荒れ模様〕ですんだのは、出席していた理事たちが編集長の目を気にして、過激な意見の提出をひかえたからだ、と評したんだって。…編集長は、自分の存在価値が認められたものと受け取ってにんまりしているようだったけど、パーク理事はむしろ、〔児島編集長をこっそり招いておこう〕という自分のアイディアを自画自賛していたんじゃないかな。
          ※
   念のために言っておくと…。こういう話を僕は編集長から日本語で聞いたわけだけど、理事会で公式に話されるのは英語なんだよね。ともに戦後の移民である会頭や副会頭、パークさん、それに、〔進出派〕と〔新参派〕の理事たちは日本語を使いたいところだろうけども、なんと言っても、[会議所]はアメリカの団体だし、しかも、副会頭を除けば〔土着派〕の理事たちは(そのうちの四人が三世で)日本語がほとんど理解できないそうだから…。
          ※
   [ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]というのはもともと、内部がそんなふうにぎすぎすした団体だったのかって?
   いや、そうじゃなかったらしいよ。…どちらかといえば、親睦が主な目的みたいな団体で、例の[リトル東京フェスティバル]を支援したり、中南米の日系商工団体と交流したりはしていたものの、独自の事業や経済活動はほとんどやったことがなく、したがって、[会議所]内で利害や意見が深刻に対立するようなことはなかったんだって。
   じゃあ、その日にもめていたのはなぜ?
   児島編集長によると、「日本の〔バブル経済の崩壊〕が原因といえば原因」なんだそうだ。というのは…。
          ※
   ロサンジェルスダウンタウンにはまだ、リトル東京を含めた周縁部に、空き地というか、ビルが建っていない空間というか、駐車場としてしか利用されていない土地というか、とにかく、その価値が最大限に活かされているとはいえないスペースがけっこうあるんだよね。
   空き地が目立つようになったのは、一九八七年に発生したウイッティア地震のあとだそうだ。この地震によるロサンジェルス一帯の被害は、(日本でも大きく報道された)去年(一九九四年)のノースリッジ地震のときほどには大きくなかったんだけど、それでも、あちこちで古い(特にレンガ造りの)建物が壊れた。そこで、州や郡、各市は、耐震構造を強化する方向で建築基準を見直すことにした。
   ロサンジェルスダウンタウンのあちこちに数多く残っていた古い建物も、地震で受けた損害の程度に関わりなく、すべてが新基準の適用対象となった。そして、改善・修繕命令を受けた建物のうちの多くが、費用がかかりすぎるとして、次々と取り壊され、そこが更地になって行った。
          ※
   その後の一、二年間は、空き地の再開発・有効利用のアイディア・コンテストのような状況が展開した。〔いくつかの商業ビルとオフィスビル、ホテルをつなぐ形でプロムナードを敷き、その両側に小粋な小売店を並べる〕というようなアイディアを盛り込んだ完成予想図がしばしば[ロサンジェルス・タイムズ]などに掲載された。ロサンジェルス市はどの再開発アイディアも大歓迎し、事業遂行には協力を惜しまないという姿勢を見せた。
   で、提出される再開発アイディアには、ほとんど常に、日本の大きなホテルやディベロッパー、建設・建築会社などが絡んでいた。…あのころの日本は、それほど景気がよかったんだね。
          ※
   ところが、一九九〇年代に入ると、その日本の経済がおかしくなった。華々しく発表されたアイディアの大半があっさりと放棄された。あちこちに手つかずのまま、空き地が残った。駐車場として利用された土地はましな方だった。
   リトル東京のセカンド・ストリート沿いの、[ホンダ・プラザ]の向かい側の土地も、やはり、日本企業が絡んだおおがかりな再開発計画が前にあったところだ。
   で、その計画が実現していたら、[会議所]のあの〔内紛〕は起きていなかった…。
          ※
   この空いた土地をうまく利用して地区を活性化したいと、ほかのだれよりも真剣に考えたのが(リトル東京で保険代理店を営んでいる)〔土着派〕の副会頭だった。…いや、(編集長がいうには)リトル東京が賑やかになったところで、副会頭は、自分の代理店が扱う保険の加入者が増えるわけではなかったけれども、活性化すれば、その推進者としての栄誉はコミュニティー内で得られそうだったし、[会議所]での地位も確かになるに違いなかったからね。※
   「副会頭がそんな栄誉だとか地位だとかをほしがるのは…」。編集長は言った。「横田君、なぜだと思う?」
          ※
   日本の大学でいちおう経営学を勉強してはいたものの、実社会のことはほとんど何も知らないみたいなものだからね、僕には、そんな人たちが人生の終盤近くになって何をどう考えるかなんて、見当もつかなかったよ。
          ※
   編集長は(たぶん副会頭の姿を思い浮かべながら)冷ややかな口調で言った。「褒章だよ、横田君。…日本政府から褒章を受けたいんだよ。勲六等なんとかって、ああいうの。副会頭だけじゃないよ。こっちで〔功なり名とげた〕と自分で思い込んでいる日本人は〔身引く〕前に、みんな褒章をほしがるんだ」
   〈なるほど〉と得心してから、僕は編集長に言った。「でも、褒章ほしさにしろ、コミュニティーの利益のために動くんだったら、それはそれでいいことなんじゃないんですか」
   「たしかに、そういう意見もあるだろうな」。編集長は答えた。「しかし、ほしがるのは副会頭一人ではない。〈あいつがもらったのなら、俺も〉〈あんなやつが褒章を狙って動いているのだったら、俺だって〉と考えるやつがほかに出てくる。そこで、欲と欲がぶつかり、おかしなことになる」
          ※
   副会頭が〔土着派〕のほかの理事たちに呼びかけて私的な勉強会を始めたのは昨年(一九九四年)の中ごろだったそうだ。
   勉強会に結集した理事たちはすぐに、〈南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティーの将来の充実と発展のためにはリトル東京の活性化が欠かせない〉という点で合意した。〈韓国系コミュニティーにコーリアタウンが、中国系コミュニティーにチャイナタウンが、ベトナム系コミュニティーにリトルサイゴンがあるように、日系・日本人コミュニティーにも、やはり、その発展の核となる町がなければならない〉〈その核となるべきところは、当然、移民史の中で日本人と日系人の暮らしの中心でありつづけてきたリトル東京でなければならない〉〈一九九〇年代になってから、リトル東京の再開発が停滞しているのはまったく残念なことだ〉といった意見も簡単にまとまった。
   副会頭と理事たちは、そのコーリアタウンとチャイナタウン、リトルサイゴン、それに、ロサンジェルス市の東に位置する(おもに)アルハンブラ、モンタレーパーク、サンゲーブリエルの三市で発展しつづけている〔新中国人街〕の視察も実行したし、一方で、過去に一度浮上したもののいつの間にか立ち消えていた、いくつかのリトル東京再開発アイディアの見直し、研究も行なった。
          ※
   〔土着派〕の活動が勉強会程度にとどまっていたあいだは、[会議所]内に反発する者はいなかった。…どうせ〔絵の描いた餅〕に終わる、と見られていたんだ。再開発を自力で促進する資金が〔土着派〕にあるわけはなかったし、彼らのアイディアに乗って資金を提供する日本企業も(なにしろ、バブル経済崩壊後のことだから)あるはずはなかった。
   様相が変わってきたのは、ことしになって、副会頭が〈日本資本とは違って、まだまだ南カリフォルニアに投入されつづけている韓国または台湾系の資本の協力を得てリトル東京の再開発を進めるというのはどうだろうか〉という試案を出してからだった。この試案には〈多民族の移民が集中しているロサンジェルスならではの、特色のある再開発ができるかもしれない〉というコメントがついていた。
          ※
   つけ加えておくと…。
   副会頭はもともと、ほら、〔交流派〕の代表として、コーリアンやチャイニーズの商業経営者を[会議所]に積極的に迎え入れた人で、その新しいメンバーが熱心に経営を行なえば、その分だけリトル東京の活力が増すはずだ、という考えを持っていたわけだから、〔韓国または台湾系の資本の協力を得て〕というアイディアには、(その〔韓国系〕であるパーク理事を含めて)だれにも影響されることなしに、ごく自然にたどり着いたんだそうだ。
          ※
   で、副会頭の新たなアイディアを耳にして、だれにもまして〔おもしろくない〕と受け取ったのは、自分自身は戦後すぐに移民してきた〔古株の〕日本人なのだけれども、いま家庭用電気製品販売店を営んでいるのがガーデナ市内で、店の客の大半が近年日本から渡ってきた日本人だから、というので、〔いつの間にか〕進出派〔の代表におさまってしまっていた会頭だった。
   会頭がおもしろくなかったのは、個人的には、ほら、自分とおなじころにアメリカにやってきた副会頭に褒章の先手争いでひどく後れを取ったように感じたからだったんだろうけど、一方、リトル東京から南へ一〇マイルほど離れた地域で事業を行なっている人たちの集まりである〔進出派〕の代表としては、韓国または台湾系の資本の協力を得ようという副会頭の考えを〔現実的ではない〕あるいは〔そんなことであの土地の再開発ができるわけはない〕と決めつけて、ただ無視しているわけにはいかなかったからでもあった。
   というのは、この二つの国からの南カリフォルニアへの資本進出はここ数年間、それぐらい、つまり、どんな開発計画でもたちまち実行してしまうのではないかと思えるぐらい、激しく積極的なんだって。だから、だれかが〔土着派〕と話を進め、リトル東京での商業開発に乗り出す可能性はけっしてゼロではなかったし、万が一にもそうなれば、ガーデナ・トーレンス地域の日系人、日本人の目と足が再び(昔みたいに)リトル東京に向くことにもなりかねなかった。
   会頭としては、(褒章の先手争いのことも頭をかすめていたかもしれないけれども)まずは、〔進出派〕内でのいまの地位を失わないために、〔土着派〕のアイディアに(編集長のいい方にしたがうと)〔少なくともケチをつけておく〕必要があったわけだ。
          ※
   会頭はコミュニティー内のメディアを利用して劣勢から抜け出そうと考えた。
   会頭が選んだのは ともに歴史と伝統のある『日米新報』でも『南加日報』でもなく、会頭の家電販売店が毎刊一ページ広告を出している(日系スーパーマーケットなどで月に二回無料配布されている)日本語情報誌だった。その雑誌の[がんばれ社長さん]という(いかにも〔ローカル〕って感じがする)シリーズもののインタビュー記事の枠を、(〔土着派〕の理事の一人が調べ出して分かったことらしいんだけど)店の広告掲載契約を長期更新するという形で買い取ったのだった。
   このインタビューでは、社長たちがそれぞれの〔夢〕を披露することになっているんだよね。
   で、会頭もおおいに自分の〔夢〕を語った。…家族が安心して手軽に遊ぶことができるアミューズメントパークと〔日本人〕向きの商品が何でもそろっているショッピングモールとを一体化した、〔日本人〕ファミリーのための商業センターをガーデナ・トーレンス地域につくりたい、という内容の夢をね。
   僕が『日報』で働きだす少し前、三月初めのことだったそうだ。
   このインタビュー記事は[会議所]の〔進出派〕メンバーに大歓迎された。ガーデナ・トーレンス地域の日本人商業経営者たちがいかに日本人コミュニティーに貢献したいと考えているかがよく伝わっている、という評だった。
          ※
   副会頭は怒った。…〔土着派〕が地道に勉強・研究会を重ねながら再開発アイディアを練り上げようとしていることを十分に知っていながら、会頭があえてその時期に、それも唐突に、大規模な商業開発を行ないたいという〔夢〕を発表したのは、〔土着派〕の活動に水を差す、というか、そんな活動なんかたいしたものじゃないんだ、という印象を周囲に与えるためだ、としか思えなかったからね。
   いや、副会頭たちも、自分たちのアイディアが簡単に現実化するとは思っていなかったんだよ。だけど、地元の事業家たちがその地域の発展に無関心なところが活性化することはありえない、と信じていた。勉強会の成果が知られ、韓国・台湾系に限らず、どこかの大資本が興味を示してくる可能性もなくない、と見ていた。勉強会の成果をもとにして、どこかの大資本と話し合うことぐらいはできるかもしれない、と考えていた。
   副会頭から見れば、会頭の〔夢〕はそうじゃなかった。単なる思いつきにすぎなかった。
            ※
   問題の情報誌が発行されてから二、三日後には、[会議所]の〔土着派〕メンバーたちが 〈会頭のインタビュー発言の中には〔日本人〕という言葉はあったけれども、〔日系人〕(ジャパニーズ・アメリカン)という単語が一度も出てきていない。これは日系人と日本人を区別しないで扱おうという[会議所]の精神に明らかに反している〉〈〔進出派〕に鞍替えした会頭の頭には、やはり〔日本人〕のことしかないようだ〉〈そんな人物を会頭にしておくのは、もともと〔土着派〕だけでスタートした[会議所]の利益に反する〉などといいだした。会頭と副会頭の〔欲と欲のぶつかり合い〕が[会議所]の内紛へと変化し始めたわけだ。
   中旬に開かれた三月の定例理事会は、一時、険悪な雰囲気になった。
   会頭は〈南カリフォルニアの〔日系人〕の存在を軽視して会頭の職務を遂行したことはないし、個人としてもそんなふうに事業を行なったことはない〉〈インタビューのあいだは常に〔日本人〕と〔日系人〕とを並列してしゃべった〉〈記事に〔日系人〕という言葉が出なかったのは、情報誌の、コミュニティー事情に無知な若い日本人記者が〔日系人も日本人もおなじだろう〕ぐらいに考えて、勝手に削ったからだろう〉と弁明した。
   〔土着派〕は〈では、インタビューの録音テープを提出して、理事全員に聞かせろ〉と応じた。
   〈情報誌が各所に配布された段階でテープは破棄されたはずだ〉と会頭は答えた。
   この回答に不満な理事の一人がその場から情報誌の編集部に電話をかけて問い合わせた。編集者の返事は会頭とおなじだった。
          ※
   四月ごろの僕は、たぶん、〔コミュニティー事情に無知な若い日本人記者〕以上に、日系人と日本人の違いには無頓着だったから、なぜそんなことで[会議所]のメンバー同士が争うのかがよくは分からなかったよ。
   その〔なぜ〕についての児島編集長の説明は(ほんとうは、もっと長くて、力の入ったものだったけど、手短に言ってしまえば)こうだった。
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   明治の初めに本格化した日本人のハワイ、アメリカ本土への移民は、実は当初、いずれは日本に戻るつもりの出稼ぎ者集団、という性格が濃かった。けれども、(農場などでの労働の)現実は厳しく、短期間のうちにまとまった額のカネを手にする機会は限られていた。移民たちは、足を地につけ、長い目で将来を展望する暮らしを強いられることになった。
   昭和になり、二世たちが(アメリカ人として)成人するようになると、一世も大半が永住を覚悟するようになった。…集団としては、意識の上でも〔日本人〕の〔日系人〕化が急速に進み始めたのだった。
   やがて、(ほら、『南加日報』の歴史についてしゃべったときに触れたように)日米関係が不安定になり、日本からの新たな移民が途絶え、日本軍が真珠湾を奇襲した数か月後には、太平洋沿岸部に住む日本人、日系人十二万人が収容所に送られた。
   多くの二世が自ら志願して従軍し、アメリカのために戦った。彼らを送り出した一世たちの意識の 〔日系化〕が加速した。
   そして、〔終戦〕。一世や二世が理不尽につらい思いをさせられた時代が終わった。
   朝鮮戦争による〔特需〕をきっかけに経済復興に向かった日本は、移民よりは商品をアメリカに送り出す国になろうとしていた。
   多くの一世や二世が(そのころ国際的には二流だった)日本商品のアメリカ市場への売り込みを助けた。
   やがて、日本企業のアメリカ進出が始まった。南カリフォルニアでは、進出企業はほとんどが(リトル東京とガーデナ市を二つの核とする)〔日系〕コミュニティーに寄り添えるような場所や環境を事業拠点として選んだ。…日本から進出してきた企業と〔日系〕コミュニティーとの〔蜜月時代〕だった。…この時期の進出企業は多くが、アメリカ全土を市場として活動しようという大資本だったから、地元の小資本と利害を対立させてコミュニティーの秩序を乱すようなことはまずなかったのだ。
   一九七〇年代の後半になると、様子が目立って変わってきた。日本企業の活発な活動を支える形で、大量の日本人がやってきて、その多くがガーデナ・トーレンス地区に住みつき始めたのだ。…南カリフォルニアに新たな〔日本人〕コミュニティーが生まれたわけだ。
   その日本人たちを相手に商売をしようという者たちが日本から次々とやってくるようになるまでに、時間はあまりかからなかった。…この新たな商業進出は〔日系〕コミュニティーとの〔蜜月〕という具合にはいかなかった。最新のノウハウを伴った日本からの資本流入は、たとえば、リトル東京にショッピングモール[ウェラー・コート]が誕生したように、一部では地元を活性化する役割も果たしたけれども、一方では、〔日系人〕たちの事業と競合したしたばかりか、高齢化や後継者難などで旧態経営を強いられがちだった彼らを廃業に追い込むようにさえなったのだった。
   戦後すぐに、リトル東京地区の商業経営者たちを中心にして設立されていた[ロサンジェルス日系商業会議所](旧会議所)とガーデナ地区の日系商業経営者の集まり[ガ−デナ日系商業会]が、日本からの商業進出を〔秩序あるもの〕にするために、何か手を打たなければならないときだった。
   二つの団体は合流し、名称を[ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]と改め、南カリフォルニア(特に、ガーデナ・トーレンス地区)に新たに進出してきた〔日本人〕経営者たちにも新[会議所]に加入するよう積極的に呼びかけることにした。…進出自体はとめることができなかったから、せめて、すでに進出をすませた企業には平穏に地元に融和してもらおうという狙いだった。
   しばらくは平穏に時が過ぎた。
   再びおかしくなり始めたのは、日本からの(商業を含めた)企業進出と(土地建物などへの)資本投資が異常に激しくなった一九八〇年代の中ごろからだった。この時期の進出と投資は、リトル東京地区でも[ヤオハン・プラザ]のオープンという形に結実しはしたけれども、大半はガーデナ・トーレンス地区に集中したのだった。
   南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティーのバランスが大きく傾きだした。リトル東京の衰退が目立ち始めた。
   〔進出派〕はますます勢いを増し、〔土着派〕はいよいよ危機感を大きくして行った。[会議所]内に〔内紛〕の種がまかれたのだ。
   それから数年後。突然、日本経済が破綻した。日本からの企業進出と資本投資が激減し、ガーデナ・トーレンス地区から日本へ撤退する企業が続出した。〔進出派〕の黄金時代が終わったのだ。
   一方、リトル東京地区には、再開発アイディアの名残の空き地がいくつも残っていた。
   縮小した南カリフォルニアの日系・日本人市場で、〔土着派〕と〔進出派〕とによる客の奪い合いが始まった。…リトル東京地区とガーデナ・トーレンス地区の(編集長が[海流]の中で使った言葉を借りていうと)〔南北商業戦争〕が始まったのだった。
   もとの[ガーデナ日系商業会]のメンバーの一部が、会頭を先導者にして、〔進出派〕に転じ、[会議所]内での旗色を明確にした。
          ※
   児島編集長はさらにこう説明してくれたよ。
   「戦前に移民してきた一世とその子や孫である二世、三世、それに、戦後すぐにやってきた移民たち、つまり〔土着派〕にはどうしても、〈南カリフォルニアの日系・日本人市場は自分たちが大変な苦労をして守り育ててきたのだ。自分たちの苦労がなかったなら、今日の市場はなかったはずだ。だから、自分たちの利益がまず優先されるべきだ〉という思いがある。彼らは〈日本からやってきて間もない連中に成果の甘いところだけを吸われてはかなわない。ましてや、自分たちの商売をじゃまされては困る〉と考えてしまうんだな。これに対して、一九七〇年代の半ばから八〇年代の終わりごろまでに日本からやってきた商売人の集まりである〔進出派〕は〈商売は自由に行なうのが当然だし、自分たちが相手にしているのは、南カリフォルニアのあちこちに分散しつづけ、その結果、集団としての購買力を失いかけている〔日系人〕の市場なんかではなくて、近年新たに生まれた〔日本人〕の市場なのだ〉と思っている。〈南カリフォルニアで早くから商売をしているというだけの連中にあれこれ指図は受けたくない〉と考えるわけだ。
   「会頭のインタビュー記事が出たときに〔土着派〕が怒ったのは、そういう背景があったからだよ、横田君。中で会頭が〔日系人〕という言葉を使わなかったことが、〔土着派〕をないがしろにする態度だと見えたんだ。…その見方は正しかった、といえるな。実際、会頭があんなふうに唐突に自分の〔夢〕を語ったのは、〔土着派〕のリトル東京再開発アイディアにケチをつけるためにほかならなかったんだから。
   「ガーデナをビジネス拠点にしていて、いまは客のほとんどが日本からきた日本人で占められているとはいえ、もともとは[ガーデナ日系商業会]、つまりは〔土着派〕に属していた会頭のそんな態度は、副会頭たちにとっては許しがたい裏切りだったんだな」
   
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