小説 「横田等のロサンジェルス・ダイアリー」(1995年)=1~2= 

 

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(ストーリー中の人物、企業、団体などはすべて創作されたものです)

*参考著書*

アメリカの日本語新聞」田村紀雄(新潮選書)

「藤井整の言論活動 - 『加州毎日』創刊から日米開戦まで」関宏人(慶応大学卒業論文

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*** 1995年8月15日 火曜日  ***



   僕がほんの数か月後にこんなふうに気持ちを揺るがせていることを知ったら(ロサンジェルス市の東方五〇マイル、八〇キロメーターほどのところに位置する、人口二十二万人あまりの都市)リバーサイドの友人や知人たちはみんな、ずいぶん驚くだろうな。

 

   だって、当の本人である僕自身が、UCR(カリフォルニア大学リバーサイド校)のエクステンション・プログラムで英語を勉強していたころはもちろん、いよいよロサンジェルスに移ろうという三月中ごろになってからでも、自分が先で〈僕には可能性として二つの将来があるんじゃないだろうか〉と考え始め、その二つのうちのどちらを選ぶかで心がぐらつくことになろうなんて、夢にも思っていなかったんだから。まして、そのぐらつきがさらに進んで、九月半ばに予定していたアリゾナ州フィニックスへの移動はよしてしまおうか、フィニックスにある小さなプライベイトの大学でMBA(経営管理修士号)を取得(するために勉強)しようという計画なんか捨ててしまおうか、なんて大胆なことを考えるようになるかもしれないなんて…。

 

   いや、中には、「〈九月までひまがあるし、ちょっとおもしろそうだから〉って理由だけでそんなところに首を突っ込むの、まずいんじゃないの」みたいに注意してくれた友人が何人かいはしたんだよ。だけど、その友人たちにも、僕がいまみたいな状態になりはしないかとまでは予想できていなかった。〈まずい〉ような気がするといっても、彼らは〈そんなところ〉をじかに見たわけじゃなかったし、そこが実際にはどんなところなのかについては僕以上に分かっていなかったわけだから、それも当然だったんだけどね。

 

          ※

 

   その〈そんなところ〉ってどこのことかって?

 

   日本語欄四ページと英語欄二ページという体裁の日系コミュニティー新聞をロサンジェルスで発行している『南加日報』(サザーン・カリフォルニア・ジャーナル)社のこと。

 

   そこで働いているうちに、気持ちがしだいに揺れ始めて…。

 

          ※

 

   何でか、って?

 

   それが、簡単には説明できないんだよね。

 

   とにかく、いまの僕は〈ロサンジェルスから立ち去りたくない〉って気分なんだ。…その新聞社での仕事をあっさりとは捨てたくないんだ。

 

   おかしいね。

 

   なぜって、それ…。

 

   おカネのことを真っ先にいうとちょっといやらしいんだろうけど、初めの三か月間の、いわゆる研修期間中には、一週間で一五〇ドル、四週間で六〇〇ドルにしかならなかった、そんな仕事なんだよ。…ちゃんとフルタイムで働いて。

 

   そんな(ひどい)条件の仕事がいまどきあるのかって?

 

   ああ,あったんだ。しかも、その仕事には〈八月に開かれる[リトル東京フェスティバル]が終わるまでは〔絶対に〕やめないように〉という、けっこう強い要求までついていたんだよ。

 

          ※

 

   〔絶対に〕は、まあ、分かるよね。でも、〔八月に開かれる[リトル東京フェスティバル]が終わるまでは〕というのは、なんだか変に短い、みょうに中途半端な〔要求〕だと思わない?だって、三月から〔八月まで〕なんだよ。

 

   でも、それ、事情が分かってみれば、そうでもなかったよ。というのは、その[リトル東京フェスティバル]というのは、ずっと昔、第二次世界大戦前からつづいている、南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティーの最大の年中行事で、地元の日系新聞社にとっては、〈参加団体の紹介記事やパフォーマンス報告を賑やかに書いて、見返り広告や協賛広告を大量に取る絶好の機会〉だということだったからね。…編集員を募る広告を二月に出したとき、『南加日報』社は(できれば、長く働いてくれる人物を採用したい、と考えていたんだろうけど)とりあえずは、そのフェスティバルに備えて編集員を確保しておく必要があったんだね。

 

          ※

 

   だけど、正直に言うと、面接を受けたときの僕は、南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティーと、『南加日報』社の両方にとってそのフェスティバルがどれほど大きな意味を持っているかなんて話には、ほとんど興味を引かれなかったんだよね。だって、あのときの僕は、何てったって、UCRで英語の勉強を終えたばかりの留学生で、ほら、さっき話したように、半年後の九月半ばにはアリゾナ州フィニックスに移るつもりでいたわけだから。

 

   たしかに、求人広告を見たときには〈雇ってもらえるのなら、この新聞社でしばらく働いてみるのも悪くなさそうだ〉と考えたし、だからこそ面接を受けにも行ったわけだけど、それは別に、地元の日系・日本人コミュニティーに大きな関心があったからでも、この日本語新聞社のために何か役立ってみたいと感じたからでもなかった。…そうじゃなくて、南カリフォルニアでそんなふうに時を過ごしていれば、UCRでいまも英語の勉強をつづけているガールフレンドの真紀と九月までずっと、それも時間を持て余す心配なしに、会いつづけることができるじゃないか、と考えたからだった。

 

          ※

 

   そんな調子だったから、実は、これからもらうことになる給料の額は、あのときの僕には、まあ、どうでもいいことだった。いくらと告げられても、他人事みたいに〈ここの社員たちはみんな、そんな低い給料で働いているのだろうか〉〈そんなので暮らしていけるのだろうか〉〈そういえば、机や書棚などもずいぶん古いものだな〉〈なんだ、新聞社だというのに(少なくとも日本語編集部のこの部屋には)一台のコンピューターも備わっていないよ〉などとあれこれ思いをめぐらせただけで…。

 

          ※

 

   あの日から、それこそ〔矢のような速さ〕で月日が過ぎてしまった。

 

   十日間ほどつづいたその夏のフェスティバルもおととい終わっている。

 

   ということは、僕は、二週間前に予告しさえすれば、いつでも仕事をやめることができるわけだ。…面接のときに了解してもらっていたとおりに、九月半ばにはフィニックスに移動することができるわけだ。

 

   にもかかわらず…。

 

   人が生きているあいだには思いもかけないような〔大転回〕が何度かはあるものだって言うよね。

 

   いや、もしかしたら、一般にはあまり言わないのかもしれないけれど、僕の父親は昔からよくそう言っていたよ。…特に、三人の子供たちの中で目立ってできの悪かった末っ子の僕をなんとかして励ましたいようなときにね。

 

   で、回りきるのか回りきらないのかまだよく分からない今度の僕の〔転回〕も、いま振り返ってみれば、やはり、 〔思いもかけないような〕ことがきっかけになっているんだよね。だって、真紀がある日唐突に「わたし、おいしいすき焼きが食べたい」とつぶやいたことから、これ、始まったわけだから。…すこぶる日常的だろう?〔人生の大転回〕なんかまるで感じさせないだろう?

 

   いや、真紀を責めているんじゃないんだよ。そうじゃなくて、人生はそんなことでだって、つまり、だれかがたまたますき焼きを食べたくなったことからだって変わってしまうこともあるんだなって、改めて感じ入っているだけなんだ。

 

   それに、真紀が〔おいしいすき焼き〕を食べたくなるのには、〈なるほど〉とうなずける、もっともな事情があったわけだし…。

 

          ※

 

   真紀がすき焼きを食べたくなった〔ある日〕というのは、僕がUCRで受けていた外国人向け英語コースのウィンタークォーターが終わりに近づいていた、二月の最後の木曜日(二十三日)だった。…翌日、夜八時に終わる講義を真紀が受けることになっていたから、曜日をちゃんと覚えているんだ。

 

   で、その木曜日は、あとで数えてみたら、阪神・淡路大震災から三十八日目に当たっていた。

 

   そうなんだ。突飛な組み合わせなんだけど、真紀の「わたし、おいしいすき焼きが食べたい」とあの大震災には関係があるんだ。それも、おおいにね。

 

   真紀はあの日、なんだかひどく思いつめたような口調で、僕にこう言ったんだ。「まだ四十九日が過ぎていないこと、わたし、分かってるけど…。自分からいいだしておいて、みっともないけど…。わたし、あした、どうしても、おいしいすき焼きが食べたい」

 

   これで関係が少し分かってきたんじゃないかな。

 

   ああ、僕たちは、大震災のことをテレビのニュースで知って以来、真紀の発案で、四十九日間の、なんというか、ちょっとした〔禁欲・精進〕生活に入っていたんだよね。

 

          ※

 

   ABC放送の[ワールドニュース・トゥナイト]で日本からのニュースを見ていた真紀が、画面の看板キャスター、ピーター・ジェニングスに向かって何度かうなずいたあと、「被災した人たち、ほんとうにかわいそう。お気の毒。太平洋を隔てているからって、わたし、知らないふりはできない。ね、わたしたちも何かしなくちゃ」と突然言いだしたのは、震災の被害の大きさがますます明らかになった一月十九日の夕方のことだった。

 

   僕は〈ああ、この子はやっぱりいい子だな〉って、たちまち感動してしまったよ。…だって、ふつうは、僕自身がそうだったように、そんなふうにはあんまり考えないじゃない。

 

   でも、僕のその感動は長くはつづかなかった。

 

   なぜって、その〔何かをする〕というのは、分かってみれば、たとえば、UCRの学生たちから義援金を集め、それを被災地に送る、みたいなアクティブだけども数日間限りの活動、というようなものではなくて、おもしろいことや楽しいこと、愉快なこと、心地よいことなど、とにかくそんなふうな、被災者が当分は味わえないたぐいのことは、僕たちも〔四十九日の喪があけるまでは〕いっさいしないでおこう、というずいぶんネガティブで継続的な、途方もなく気が疲れそうなことだったからね。

 

   僕の反応は、なんだか、かっこうの悪いものだったな。「そりゃあ、僕も気の毒だとは思うけど、二人とも東京生まれの東京育ちで、こんなときに〔幸い〕と言ってはなんだけど、被災した親類も友人もいないみたいだし、それに、ほら、東京じゃ大相撲の初場所だって〔満員御礼〕つきでつづいているっていうじゃない。つまり、日本でも、被災地以外では大方、みんなふつうに暮らしているんだよ。だから、僕らがそこまで…」

 

          ※

 

   真紀の善意の〔四十九日の喪があけるまでは〕提案に僕がそんなふうに(みっともなく)抵抗したのには、ちょっと口にしにくい(真紀の崇高な決意の前ではどうしても低次元に見えてしまう)理由があったんだよね。

 

   こんなこというの、恥ずかしいんだけど、僕はあのとき、ことのついでに真紀が「わたしたち、セックスもしないでいましょう」みたいなことをいいだすんじゃないかって(やたら先走って、それもそうとう深刻に)怯えていたんだ。だから、〔大相撲の満員御礼〕なんかはみんな、その(口にしにくい)怯えをおおい隠すための屁理屈の材料にすぎなかったわけ…。

 

   いや、真紀が望むのなら、たいがいのことは(いくらでも)よすことができる、と思ったんだよ。でも、あの方は…。ちょっと自信がなかった。

 

   だって、僕は若いんだし、真紀がそばにいるのに四十九日間もがまんしているなんて、とてもできそうになかったから。…ありがたかったことに、結局は、若いのは真紀もおなじだったからか、その件は僕の、いわば、とりこし苦労ということで終わったんだけど。

 

          ※

 

   で、その〔何かをする〕の中に、〈映画は、たとえトム・クルーズの新作が公開されても、見に行かない〉〈テレビのシチュエーション・コメディー(中でも、一番好きな[フレンズ])は見ない〉〈友だちが開くパーティーには出ないし、わたしも友だちを呼ばない〉〈デイヴィッド・コッパーフィールドのマジックショーは一度見てみたいけど、ラスベガスには遊びに行かない〉〈ケーキとハニーデューメロン、それに、やっぱり、ビーフとポーク、チキンは食べない〉などという、数多くの〔しない〕案と並んで「毎週金曜日の〔ちょっとぜいたくな外食〕もよしましょう」という案が含まれていた。

 

   つまり、真紀が言った「あした、どうしても」のその〔あした〕(二月二十四日金曜日)は、そんな禁欲宣言をしていなければ、その〔ちょっとぜいたくな外食〕をする日に当たっていたんだよね。だから、金曜日を前にして真紀が、何かおいしいものが食べたい、といいだしたのには、それなりの根拠があったわけなんだ。

 

          ※

 

   二月二十三日。真紀は密かに、大震災からその日までの日数を数えていたんだね。こうつづけたよ。「あしたが五週間と四日目だってこと、だから、まだ四十九日は過ぎていないってこと、わたし、分かってるんだけど…」

 

   僕はこのときも、〈ああ、この子はなんてかわいい子だろう〉と思ってしまった。…道徳上の大罪を告白しでもするかのような思いつめた表情がなかなかよかったしね。

 

   もともと仏教に格別の信心を抱いてるわけでもない真紀が唐突に〔四十九日〕などと言いだした動機があまり理解できていなかった僕には、〔すき焼きディナー〕に反対する理由は、もちろん、まったくなかった。というより、〔禁欲・精進〕あけは大歓迎ものだった。〈宣言どおりに、ケーキもメロンも、ビーフもポークも、チキンも食べなかった真紀は偉い!〉〈「白人と違ってアジア人の髪は毛が太くて重いから、うまくあんな形にはならないかもしれないけど、わたし、髪型を([フレンズ]の主役の一人である)レイチェル(ジェニファー・アニストン)とおなじにしてみようかな」と言っていたぐらいなのに、放送がある木曜日の夜は大学の図書館にこもって一度もテレビの前に座らなかった真紀は立派だ!〉とは思っていたけど、やっぱり、「どうしても、すき焼きが食べたい」という真紀の方が、無理がなくて、うんとすてきに見えたよ。

 

          ※

 

   もっとも、真紀が〔どうしても食べたい〕のが、なんで、ちょっと上品な感じがして、いかにも女の子が好みそうなケーキやメロンでなくて、少しおじさんっぽい〔すき焼き〕なのかは、僕にはすぐには見当がつかなかったけどね。

 

   いや、いまだって、ほんとうのことは分かっていないんだよ。でも、あえていうと、あれは、一か月あまり必死の思いで〔精進〕していた真紀の頭の中で、〔神戸を中心にした大震災〕―〔神戸牛〕―〔すき焼き〕という連想が、〔神戸牛―ステーキ、松坂牛―-すき焼き〕というポピュラーな関連をよじれさせた状態で、竜巻みたいにぐるぐる回りながら肥大しつづけていたからだったんじゃないかな。…そんな気がするよ。

 

   これって、なんだか変に生々しい想像だから、真紀にじかにたずねるのはためらってしまうけど、もしそうだったんだとしたら、こともあろうに、あの大震災とすき焼きを結びつけるんだから、食に対する人間の欲には、簡単には表現できない類のすごさがある、ということになると思うけど?

 

          ※

 

   だけど、まあ、そんなことはどうでもよかった。

 

   僕は勇んで真紀に、翌日三時に僕の(外国人に英語を教えるためのプログラム)ESLのクラスが終わったら、そのままロサンジェルスまで車を飛ばして、リトル東京にある[ヤオハン・プラザ]の中のスーパーマーケットで上等の(つまり、UCRの近くのスーパーマーケット[アルファ・ベータ]なんかで売っている脂身の少ない赤っぽい、ぱさぱさしたテリヤキ用の分厚いのとは違う、ちゃんとした〔しもふり〕の薄切り)牛肉を手に入れ、夜八時過ぎに真紀がアパートに帰ってきたときには、その〔おいしいすき焼き〕がすぐに食べられるようにしておく、と約束したよ。…金曜日なのに〔外食〕することにしなかったのは、リバーサイド市内とその周辺にある日本食レストランでその〔しもふり〕肉を出すところを二人とも知らなかったからだった。それに、すき焼きは、できあいを出されるよりは、自分たちでこしらえながら食べるほうが、やっぱり、おいしいじゃない。

 

          ※

 

   そのすき焼きを食べているあいだに真紀が話してくれたことだけど、あの子が〔四十九日〕などと言いだしたのには、こういうわけがあったんだ。

 

   真紀は、まだ小学校の低学年だったころ、ずいぶん可愛がっていたケンという名の子犬に交通事故で死なれたことがあるんだ。そのとき、母親にこんなふうなことをいわれたんだって。〈真紀、いい子にしてなきゃだめよ。わがままに、あれがほしい、これが食べたい、なんてことばかり言ってたら、ケンがそれを聞きつけて、〔ああ、真紀はこの世に不満があるんだ。自分の方に呼んでやろうかな〕って思うかもしれないわよ。死んだものの魂は〔四十九日間〕はこの世とあの世とのあいだをさまよっているっていうから、ケンもきっとそこからあなたを見ているわよ〉

 

   母親にそういわれたからといって、自分が死ぬということがどういうことだかよくは分かっていなかったし、真紀はすぐにわがままをやめたわけじゃなかったんだけど、高学年になって、今度は自分が交通事故に遭ってしまった。自転車に乗っていて、低速で走っている小型自動車の横側に自分の方からぶつかり、転倒して、左脚を骨折してしまったんだ。そのとき真紀は、母親に以前いわれたことを思い出したんだって。思い出して、〈そうか、あのときわがままをやめなかったから、わたし、こんな目に遭ったんだ。わたしを見ていたケンがいまになって、こんな形でわたしを呼ぼうとしたんだ〉 と考えたんだって。

 

   一月十七日、阪神・淡路大震災が発生したことを知ったとき、すぐに真紀の頭をかすめたのは(もちろん、被災者がかわいそうだ、気の毒だ、という思いが第一ではあったけれども)口から血を流して近所の路上に倒れていたケンの姿と自分の自転車事故のことだった。真紀は震えだしそうになりながら、こう考えたそうだ。 〈カリフォルニアは日本とおなじように地震の多いところなんだから、当分はわたし、何も不満に思っちゃいけない、わがままを言っちゃいけない、欲におぼれちゃいけない〉

 

   だから、その〔当分〕が二日後の十九日になって僕に〔禁欲・精進〕提案をした際に〔四十九日間〕という具体的な数字になったのには、(母親に昔聞かせられた話を真紀がいまでもそのまま信じているとは思えないけど)心理的には、まあ、自然なことだったわけだ。

 

          ※

 

   真紀のそんな話を聞き終えたとき、正直にいうと、僕は〈大地震で命をなくした数千の人たちとケンという名の飼い犬を対に並べて考えるのは、どうも釣り合いが取れていないんじゃないかな〉〈〔わがままを言わない〕 と〔欲におぼれない〕とをそんなふうに直線的に結びつけるのは、あまりも短絡的なんじゃないかな。その二つのあいだには言葉を千個重ねて説明しても埋め合わせることができないような、すごく大きな隔たりがあるような気がするな〉〈それに、ケーキやメロンを食べたからといって〔欲におぼれた〕とはいえないんじゃないかな〉〈地震の犠牲になった人たちにはそれぞれ、心を残す家族や恋人たちがいるだろうから、ケンとは違って、見ず知らずの真紀に目を向けたりはしないんじゃないかな〉 などと考えたけど、結局は黙っていた。…一歩間違えば死、というような事故に一度も遭ったことのない僕には、真紀が子供のころに味わった恐怖のほんとうの大きさが分かっていないはずだったから。

 

          ※

 

   すき焼きを食べ始めた真紀はもう、その日が三十九日目だなんてことはすっかり忘れているみたいだった。…自分が言いだしたことを守りきれなかったのは悔しいことだったんだろうけど、もともと固い信心から〔四十九日〕と言ったわけでもなかったのだし、ここではとりあえず、おいしいものを食べることができる満足感の方が勝っていたんだね。

 

   その方が自然でいい、と僕は思ったよ。

 

          ※

 

   というようなことで、僕は二月二十四日の午後、おいしい牛肉を真紀のために手に入れようと、片道一時間ほどかけて、リトル東京の[ヤオハン・プラザ]まで愛車の白い[ムスタング]を走らせたわけだ。…そのドライブの行き着く先に自分の運命の分かれ道があろうなんて、もちろん、

 

夢にも思わずに。

 

   なんて、表現が陳腐で、思わせぶりが過ぎているかな。

 

   でも、そんなふうにリトル東京に出かけていなければ、僕は、そのついでに立ち寄った(やはり[ヤオハン・プラザ]の中にある)[旭屋書店]で、日系・日本人コミュニティーで発行されている二つの新聞、『日米新報』と(問題の)『南加日報』を買うことはなかったんだよ。

 

   そして…。『南加日報』を買っていなければ、(『日米新報』と違って、文字が読みづらいうえに、なんだか変にうすっぺらな)この新聞の第三面の右下に〔囲み〕で出してあった〔編集員募集〕の広告も見なかっただろうし、見ていなければ、〔要英語力〕という文字に引かれてふと、〈これは自分の英語力を試してみるいいチャンスかもしれない〉なんて思うことはなかっただろうし、〈それに、フィニックスに移動するまでの時間つぶしにもなるじゃない〉なんて不遜なことを考えるようにもなっていなかったに違いないんだ。

 

   あの夜、UCRの近くのキャニオンクレスト・ドライブ沿いにある真紀のアパートで彼女と二人で食べたすき焼きは、いい牛肉を手に入れるためなら往復二時間ほどのドライブなんかどうってことはない、という熱意に十分報いて、というか、長い肉絶ちのあとの僕には、というか、とにかく、もう、文字どおり涙が出そうになるほどおいしかったんだけど…。願いどおりに〔おいしいすき焼き〕を食べることができてすっかり感動した真紀は、食事のあともずっとすごく優しくしてくれて、僕も最高に幸せだったんだけど…。

 

   なんだかおかしな〔人生の転回〕図だね、これ。

 

          ※

 

   『南加日報』でこのまま働きつづけてみようかな、というふうに僕の気持ちが揺れていることを、真紀はまだ知らない。

 

   いまの気持ちの傾きがもっと進めば、遅かれ早かれ、胸の中にあることをちゃんと真紀に話さなきゃならないことになるってことは、もちろん、分かっているんだよ。…だけど、どんなふうに?どんな機会に?

 

          ※

 

   父親が〈お前がMBAをちゃんと取得して日本に戻ってきたら、必ずそこそこの企業に入れてやる〉と請け合ってくれていなかったら、こんなことは初めから口にはできないんだけど…。たとえば、僕がいきなり〈〔フィニックスでの勉強を終えたあとは日本に戻って、ちょっとは名の知れた会社で働くんだ〕なんて考えは捨てることにしたよ、真紀〉 だとか、〈ロサンジェルスにある(月給が八〇〇ドルぐらいの、将来昇給したとしても一、〇〇〇ドルを大きく超えることはないはずの、うだつの上がらない、というよりは、正直にいうと、落ち目の)日系新聞社でしばらく働いてみることにするよ。だから君もそのつもりでいてくれないか〉だとか僕が言ったら、真紀はきっと、すごいショックを受けるよ。〈それはないんじゃないの〉 みたいな、まるで割り切れない、というか、ぜんぜん納得できない、というか、ひどく理不尽な、というか、とにかく、そんな気がするはずだよ。…裏切られた、と感じるかもしれないよ。

 

          ※

 

   そんなふうに決めつけなくてもいいんじゃないかって?話してみれば、僕の気持ちの傾きを真紀が理解してくれるかもしれないじゃないかって?

 

   〈分かったわ。それ、生き方として、美しくてすばらしいものだわ、等さん。そうしたら?あなたを必要としていてくれるその新聞社のために働いてあげたらどう?英語で話されたり書かれたりする報道からはちゃんとした情報が得られない日系・日本人コミュニティーの人たちに、日本語で書かれたいいニュースをあなたも提供してあげたら?そんな(条件の悪い)仕事に進んでつきたがる人、あまりいないでしょうけど、それ、なんだか、等さんにはぴったりしてるみたい。〔生涯カネに困りながら暮らすことになるんだぞ〕だって?何を言ってるのよ。おカネだけが人生の目的じゃないわ。それに、必要なら、わたしが少し助けてあげる。だから、そのままそこで働きつづけたらどう?〉 とでもいう具合に?

 

   違うんだよね。真紀はそんなふうにいうタイプじゃないんだ。つまり…。

 

          ※

 

   真紀は僕より二歳年下で、二十一歳。東京の、教育の高い家庭で(遅くとも、自転車に乗っていて事故にあった小学校高学年のころからは)しつけよく、しかものびのびと育ってきた、良くも悪くも、まだ無垢なところを残している、(僕が思うに)いまどきめずらしい子なんだ。英語教師に将来なろうとしている学生たちに英語を教える教師に日本でなりたい、と思って、東京の女子大で二年間勉強したあとこちらにきて、いまUCRで英語を勉強しているんだ。…UCRでの勉強を終えたら?おなじ女子大に復学して、そこを卒業し、それから大学院に進むつもりなんだって。

 

   偉いんだよね、あの子。

 

   とはいうものの、真紀は、一度決めたことはどうしてもやりとげるんだ、と思いつめている様子でもないんだ。…たぶん、日本の女子大学生の多くがそうであるようにね。

 

   そうなんだ。真紀は、自分も仕事をずっと持ちつづけようと(いまは)思っているわけだけど、それは、どちらかといえば、生き方に関する、そう、美意識上の問題で、(なんとなく、その方が現代的で格好がいいようだ、と感じているからで)、日本での英語教育に格別な使命感を抱いているわけでも、女も経済的に自立しなくちゃ、というふうに思想的に意気込んでいるわけでもないんだよね。それどころか、真紀は、僕がフィニックスにあるビジネス・スクールを修了して東京で(僕の父親がいう)〔そこそこの企業〕に就職したら、真紀に求婚し、(真紀自身が働きつづけるかどうかは別にして)ふつうよりはほんのちょっとはましでしっかりした暮らしを終世保証してくれるはずだ、と(こちらも、なんとなく)信じ込んでいるみたいなんだよね。

 

          ※

 

   そんなふうに思われていても、僕は、特に大きな負担だとは感じていなかった。

 

   というより、僕は、日本の女の子だったら、たいがいは似たように考えるだろうと思っていたし、MBAを取得しさえしたら、(就職の際には父親の助けがいりそうだけど)真紀に〔ふつうよりはほんのちょっとまし〕な将来を保証してやることが自分にもできるんじゃないかと、まあ、うぬぼれてもいたからね。

 

   だから、僕は、真紀が富や名声、地位、教育、身体・外見上の魅力などといったものを備えている人たちしか尊敬しない、というより、そんな人たちが多い環境で育ってきているから、そうじゃない人たちのことがあまり理解できない(つまり、そんなふうに〔無垢な〕)女の子だってことが分かってからも、危機感みたいなものは一度も抱いたことはなかった。だって…。

 

   いや、僕自身は、富や名声、地位などは当然持ち合わせていなかったし、これかも手に入れることはないだろうと感じていたけど、ほら、僕にはまだ〔教育〕が残っていたから…。MBAを取得すれば僕だっていまよりはちょっとはましになれるんじゃないか、と思えていたから…。

 

   真紀も、たぶん、そんなふうに考えていたはずだよ。

 

   そんな真紀にいきなり〈アリゾナには行かないことにしたよ〉なんていえば…。

 

          ※

 

   そこまで否定的に考えるのはやっぱり早すぎはしないかって?

 

   ほかにも選択肢がありはしないかって?ビジネス・スクールへの入学を一年間遅らせる、といったような選択肢が?

 

   〈一年間だけ、僕の好きにさせてくれないか、真紀。約束するよ。そのあとはちゃんとアリゾナに移って、猛烈に勉強して、できるだけ早くMBAを取って、日本に帰って、そして…〉みたいなことを真紀に言うことだってできるんじゃないかって?

 

   だめだよ、それは。

 

   そんなんじゃ状況がもっと悪くなるだけかもしれないじゃない。

 

   何より、来年の八月になったら、新聞社をちゃんとやめることができるわけ?いまとおなじように迷ったりは、絶対にしないわけ?

 

   そこだよね。…頭が痛いよ。

 

          ※

 

   真紀が僕のことを好きなんだったら…。僕がアリゾナ行きをやめれば、だから、フリーウェイを六時間も走りつづけなければたどり着けないようなところに行ってしまわなければ、つまり、ナショナル・ホリデイを加えて三日間になる〔ロング・ウィークエンド〕や春と夏の休み、クリスマス休暇にしか会えないなんてことにはならないんだから、真紀はかえって喜ぶんじゃないかって?

 

   違うんだよね。

 

   ほら、あの〔禁欲・精進〕事件。…そうなんだ。真紀は、どちらかというと、がまん強い女の子なんだ。僕がフィニックスに移ってしまえばもうまったく会えなくなる、という話だったら、たとえば、〈わたしも(フィニックス市のすぐ隣の市、テンピにある)アリゾナ州立大学に転校しようかな〉などといいだすといった具合に、ことは違って展開するかもしれないけども、ときどきは会える、というような状況には、あの子、けっこう耐えられるみたいなんだ。

 

   というより、真紀は、何かを果たすためには少しは何かに耐えなければならない、みたいに思い込んでいるようなところがあるんだよね。僕がアリゾナに行ってしまえば淋しくなる、だとか、そんなところには僕を行かせたくない、だとかいうふうには考えないようなんだよね。

 

   それに、真紀は、おカネに困る生活なんて考えてみたこともない子だから、経営の苦しい新聞社で働いて 〔清く美しく〕(実は、貧しく)生きる男なんかは、たぶん、初めから問題外。僕がロサンジェルスにとどまることになっても、MBAを取ろうという計画を捨てて、というんじゃ、あの子、喜んだりはしないはずだよ。

 

   じゃあ、その新聞社で働きながらそっちの勉強もすればいいじゃないかって?

 

   (あっさり一言でかたづけてしまうけど)無理だよ。…そんなこと、できっこないよ、僕には。

 

   そんな〔脳力〕と体力が僕に備わっているとは、とても思えないよ。

 

          ※

 

   そこでMBAコースを取ろうという大学の名前を僕がまだ口にしていないことからも想像できない?

 

   何をって?だから…。

 

   UCRのエクステンション・プログラムの進路相談サービスを通して願書を提出してあったいくつかの大学の中で、(テストと面接を受けさせてくれたのはほかにもう一校あったものの)僕を受け入れてくれたのは、結局、その大学だけだったんだよね。つまり、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)なんかは難しすぎると分かっていたから、最初から外していたんだけど、日本でも名を知られている(と僕が思う)ロサンジェルス地域の大学にはみな、入学を断られてしまっているわけ、僕は。

 

   しかも、僕を受け入れてくれたそのビジネス・スクールの勉強にちゃんとついていけるかどうかだって、ほんとうをいうと、まだ怪しい。いや、いったん入学したあとは懸命にがんばるつもりではいるんだよ。だけど、ついていけるという自信が一〇〇パーセントあるわけじゃない。

 

   そんな具合だからね。たとえ、ロサンジェルス地域のどこかの大学院が僕を受け入れてくれたとしても、自分が勉強と仕事とを両立させられるとはとても思えないよ。

 

          ※

 

   ということで、結局、『南加日報』で働きつづけようかなんていうのは、真紀との関係を優先させて考えれば、ずいぶんばかげた考えなんだよね。

 

          ※

 

   それに、仮に働きつづけるとしての話だけど、ビザはどうするんだ?

 

   まず、第一に…。新聞社で、どころか、(数種のちょっとしたアルバイトを除けば)日本の実社会で働いたことのない僕に〔顕著な資格または能力を持っているワーカー〕に対して発行されることになっているHビザが取得できるはずはない。それははっきりしている。

 

   次には…。もっと重要なことだけど、一九八六年[移民手続改正法]が施行されてからは、法的に許可を受けていない外国人を雇用していることが知れれば雇用主も罰金を課せられるようになり、(以前は常套手段だった)〔いったん雇ったあと雇用主がスポンサーになり従業員に永住権を申請させる〕という(違法ではあったけれどもいちおう黙認されていた)道が事実上閉ざされてしまっている。…いや、移民局に知られないようにと願いながら(背に腹はかえられず、あえて)違法な雇用に踏み切る企業はあるんだけど、雇った従業員のスポンサーにはなかなかなりたがらない(そうだ)。それはそうだよね。だって、従業員の永住権申請書類にスポンサーとしてサインするのは、移民局に〔うちでは外国人を不法に雇っています〕とわざわざ知らせているようなものだからね。

 

   『南加日報』でもおなじだと思うよ。…何年間働きつづけたところで、僕はここではグリーンカード(永住権取得者に発行されるカード)を手に入れることなんかできないはずだよ。不法就労者でずっといつづけることになると思うよ。

 

          ※

 

   働き始めてからほんの数週間後にはもう僕にも分かるようになっていたことなんだけど、『南加日報』社は(僕に出している給料の額からも察することができるように)赤字つづきで、ちゃんとした報酬は出せないのに、日本語セクションでは、どうしても、〔かなりの英語力と日本語力を有し、日本と世界、アメリカ、カリフォルニア、ロサンジェルスの政治や経済、社会に関する相当の知識を持ち、さらには、地元日系・日本人コミュニティーに対して少なからず関心を抱いている、アメリカ国籍か合法的に働くことができるビザ(ふつうは永住ビザ)を取得している人物〕が必要だという、大きな矛盾に悩まされながらなんとか新聞を発行しつづけている、そんな企業なんだ。

 

   大きな矛盾?

 

   ああ、そうだよ。だって、そんな条件を備えている人物が、給料がたとえ一週三〇〇ドル、いや、四〇〇ドルに上がったところで、『南加日報』のために喜んで働くわけはないじゃない。そう思わない?そういう人物だったら、ちゃんとした企業で働けるだろうし、働けば、月額三、〇〇〇ドル、いや四、〇〇〇ドルを求めても高望みだとは思われないいんじゃない?

 

   で、現実に、『南加日報』が掲載した求人広告を見て面接を受けても、僕のほかにはだれも〈働かせてもらいましょう〉とは言ってこなかったんだよね。だからこそ、妥協策として、(〔かなりの〕にはほど遠く、ある程度の英語・日本語力があるだけだけども)とにかく給料の額に不平をいわなかった僕が(有効な〔学生ビザ〕を持っているから、万が一移民局に調査されるようなことがあっても言い逃れができるのではないか、という法的にはずいぶん危なっかしい解釈のもとに)急場しのぎとして雇われたんだよね。

 

   なんでそんな事情を知っているのかって?英語セクションで八年間ほどレイアウト(貼り込み)係をやっている(三十一歳の)前川さんが、そんな裏話を僕にしてくれたことがあるんだ。

 

           ※

 

   そういう状況だから、この新聞社の三代目オーナー社長のフレッド・イマムラさんも、日本語セクションの編集長の児島さんも、(僕が働くのは、結局は九月まで、という頭もあるから)自分たちの方からは僕のビザのことに触れたことはない。触れないで、成り行きまかせにしておこう、という考えのようだ。

 

   実は、働き始めてから一か月ほど過ぎたころに一度(軽い好奇心から)、グリーンカードはどうやったら入手できるのかを児島編集長にたずねたことがあるんだよ。編集長はずいぶん簡単そうに、こう答えたよ。

 

   「ここ何年間か、国務省が毎年、五万五千人に〔抽選〕で永住権を与えているから、それに応募して当たることだな。でなきゃ、アメリカ国籍か永住権を持っている女性と結婚するんだな。横田君、君は若くてちょっとは男前だから、あとの方法がましかもしれんな」

 

   その〔抽選〕永住権についてもう少し詳しく説明してもらったら、当選確率は数百分の一だとかいうことで、まともには当てにできないことが分かったし、僕には真紀がいるから、だれかと結婚してグリーンカードを手に入れるという方法もないんだ、と思ったけど、あのときは、ほら、僕の中で〔働きつづけようかな〕って考えはまだ育っていなかったから、まあ、そんなことはどうでもよかった。数か月あとになってそのことをまた(今度はけっこう真剣に)考えてみることになろうなんて…。

 

   いや、考えてみたところで、どうにもならないんだけどね。

 

          ※

 

   僕がなんとかしなきゃならないのは、真紀とビザのことだけじゃないんだよね。

 

   『南加日報』に残るとしたら、僕の両親にはどう説明すればいいんだろう?両親はいったいどんな反応を見せるんだろう?

 

          ※

 

   僕には姉と兄が一人ずついる。で、二人とも、いろんな面で、というより、実は、ほとんどすべての面で、僕よりは優れているから、両親の目はいつもそちらの方に向けられている…。

 

   実際、姉の緑は日本女子大出で、通産省に勤務している有望な若い公務員と結婚していて、来年(一九九六年)の早い時期に初めての子(つまり、両親にとっては初孫)を生むことになっているし、兄の孝は一橋(大学の経済学部)を出たあと三菱商事に入っていて、(そこで働く父の友人が父に話すところによれば)同期の社員の中では目立って優秀だといわれているらしい。…両親の目がそっちの方に向かうのは自然だろう?

 

   そういうのに比べて僕は、(やはり名を隠しておきたいような)二流の大学の経済学部(経営学科)を(卒業成績は悪くなかったものの)なんとなく出た、英語の適性がたまたまいくらかあったというだけの、親と親戚、世間の注目度が低い、そんな子なんだよね。

 

   だから、僕は、家族の中ではいまでも、(良くいえば)好きなことが一番やりやすい、気楽な子ではあるんだけど…。

 

          ※

 

   でも、僕には分かっていたよ。ほんとうは、両親は努めて僕に視線を向けないようにしてきたんだよね。僕に余計なプレッシャーをかけないようにね。

 

   二人は胸の中でずっと、〈等は努力が少し足りないだけで、やればできる子なのだ〉と思いつづけてきたんだ。見せかけよりはうんと僕に期待してきたんだ。

 

   そもそも、僕が〔等〕という名なのは、(ずいぶん当てつけの強い名じゃないか、と嫌った時期もあったけど)姉の緑と兄の孝に負けないで(賢い子に)育ってくれるように、と両親が願ってつけたからに違いないじゃない。その願いは密かにきょうまでつづいていると思うよ。だからこそ、ほら、アメリカに送り出す形で僕に、姉と兄に追いつくために、いわゆるセカンド・チャンスをくれもしたわけだ。

 

   〔トーフル〕(アメリカの大学への進学を望む外国人向けに実施される英語力テスト)で五七〇を超えることを目標にUCRで勉強していた僕が、その目標を初めの予定より一クォーター短い計二クォーターで達成した際に、(そのことを電話で知らせた僕に)僕がそれまで聞いたことがなかったような、心底から嬉しいといった声で「おめどう」と二人が交互に言ってくれたとき、改めてそう感じたよ。…だから、〈ああ、両親は僕のことをすっかりあきらめていたわけじゃなかったんだ。そうか、これは両親が僕に与えてくれた〔セカンド・チャンス〕だったんだな〉って。

 

   皮肉なことに、そんなふうに早く目標を達成していなきゃ、九月までの余った時間を『南加日報』で働きながら過ごそうなんて考えてはいなかったはずだから、僕はいまみたいにあれこれ思い悩むことにはなっていなかったわけだけど…。

 

          ※

 

   とにかく、そういう事情なんだから、アリゾナに行きもしないうちに僕が、MBAを取るのはよすことにした、なんて言いだせば、いったいどんなことになるやら。

 

   計画どおりにMBAが取得できなかったら、僕は、姉や兄よりは日当たりの悪い人生を送ることが決まったも同然だもんね。…ああ、両親は怒るよ。すごく落胆するよ。愛想を尽かすよ。愛想を尽かして、そうだな、何より先に、すぐに日本に引き揚げて来いっていうよ。そうさせようというんで、僕への送金をとめるはずだよ。

 

   恐ろしい筋書きだよ、これ。

 

          ※

 

   送金をとめられた、としての話だけど…。

 

   いまの一週間二〇〇ドルなんて給料で、僕はやっていけるんだろうか。

 

   一方で、このホテルに毎週六五ドルの部屋代を払いながら?

 

   残りの一三五ドルで、食べて着て?

 

   それに、去年の十一月に(勉学・生活費とは別枠で両親に送ってもらったカネで)買った一九九五年モデルの純白の[フォード・ムスタング]をちゃんと維持しながら?(僕は若いし、カリフォルニア州のライセンスを取ったばかりだったし、車種もスポーツタイプだったから、年間三、〇〇〇ドル近くになった)保険料や(日本の値段に比べればうんと安いけれども、生活空間が広く、動かなきゃならない距離も長いから、結局はけっこうな額になる)ガソリン代を払い、定期点検に出しながら?

 

          ※

 

   ついでに言っておくと、僕がこの(リトル東京のちょっと南、スタンフォード・アベニューのフォース・ストリートとフィフス・ストリートの中間にある)ちっぽけなホテル[エスメラルド]に住もうと決めた理由の一つは、この古い三階建てのホテルが、建物にすぐ隣接する、高いフェンスで囲まれた、監視カメラつきの客用駐車場を持っていたからなんだ。…だって、僕はあの[ムスタング]を自分の宝物だと思っていたし、いまもそう思っているからね。

 

   だから、あいつを手放さなきゃならなくなると…。

 

          ※

 

   それが〔理由の一つ〕ということなら、このホテルを選んだ理由はほかにもあるんだなって?

 

   ああ。…宿泊料が安い。それだね。

 

   いや、実際には、両親の配慮のおかげで、僕の銀行口座にはおカネがたくさん入っていたし、(いまもそうだけど)両親は僕への送金をつづけてくれていたわけだから、部屋代・家賃の高い、もっと安全な場所に住むことだってできたんだけど、あのときの僕はなぜか、自分が学生じゃないあいだは(できることなら)自分の収入だけでやってみよう、と決意しちゃったんだよね。

 

   一種の〔巣立ち願望〕だったんじゃないかな、あのあたりの僕の心の動き方は。…ずいぶん中途半端なものだったにしてもね。

 

   いや、いまでも中途半端のままだから、こんなふうにぐずぐず考えているわけなんだけど。

 

          ※

 

   そうそう、これも忘れるわけにはいかない。というより、一番大事なことかもしれない。…そんな収入で、いままでどおりに真紀とつきあっていけるんだろうか?

 

   できないよね。

 

   すき焼きの牛肉に何十ドルも平気で使ったことが、きっと、遠い昔の夢の栄華物語みたいに思えるようになるはずだよ。週末のリバーサイド通いはつづけるだろうけど、ガソリン代なんかをできるだけ節約しようというので、ラスベガスだとかグランドキャニオンだとかへの長距離ドライブはしだいに避けたがるようになるはずだよ。

 

   なんだか、ぱっとしない未来像だね。

 

          ※

 

   というわけで、初めの計画を放り出して『南加日報』で働きつづけるとなると、(さっき言ったように)両親は僕への送金をとめるだろうから、僕の将来は経済的に途方もないほど暗いものになるわけだ。…たぶん、真紀との関係がつづけられなくなるぐらいに。

 

          ※

 

   いや、だからこそ、ここは慎重にことを考えなきゃならないんだ。…そうなんだ。

 

   おおげさに聞こえるかもしれないけど、僕はいま、人生の岐路に立っているんだから。これは、僕の人生の、最初で最大のターニング・ポイントなんだから。

 

          ※

 

   というふうに少し気負いこみながら、僕は今夜、唐突に、こんなふうに日記をつけ始めた。…というか、先でちゃんとした文章にするつもりで、(急きょ買い求めた)小型テープレコーダーに向かって、言ってみれば、声のメモを取り始めたわけだ。…書いたものにしておけば、(僕が適当だと思う部分を)真紀(それに、もし必要なら、両親)に読んでもらえるし、読んでもらえば、(最後に僕がどう決意するにしろ)僕の心の動きを理解してもらいやすいだろう、と思ったからね。

 

   三月からこれまでに僕の周辺で起こった、いまでも起こりつづけている、さまざまな出来事を(真紀と会うことに決めている週末の二日間は無理だろうけど)毎晩こんなふうに振り返りながら、これからどんなふうに生きていくのがいいかについて、きょうからしばらく、僕はじっくりと考えてみるつもりだ。

 

   フィニックスに移動することにしていた日まで、あと四週間あまり。

 

   『南加日報』をやめるとしたら、その意思を児島編集長に伝えなきゃならない日まで、二週間とちょっと。

 

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   ALL RIGHTS RESERVED

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=第2話= 8月16日 水曜日




    くたくたで死にそうだよ。

 

    何てったって、昨夜はこの日記の第一日目だったからね。つい精を出しすぎ、夜更かしをしてしまったし、いったん寝入ってからも、脳の興奮が冷めず、眠りがすごく浅かった。

 

    しかも、きょうはきょうで…。

 

          ※

 

   他人に読んでもらう文章など(学校で教師に提出しなきゃならなかったものを除けば)四か月前まで、この世のどこででも、まるで書いたことのなかった人間に、エッセイでも評論でも解説でも何でもいい、とにかく、まとまった形のものを数時間のうちに、それも、二つも書きあげろなんて、だいたい、むちゃだよね。しかも、書いたものを、購読者の数は知れているとはいえ、ちゃんと新聞と名のつくものに掲載しようというのだから…。

 

          ※

 

   その〔人間〕というのは、もちろん僕のこと…。いくらかは英語を読むことができて、いくらかは英語を日本語に書き換えることができるかもしれないけども、新聞の記者や論説員になるような訓練など一度も受けたことのない僕のこと。日本や世界で起こっていることは少しは理解できるかもしれないけれど、英語を勉強するために一年ほど前に南カリフォルニアにきただけで、まだ地元の政治や経済、社会のできごとなどについては、事実上、何も知らない、ましてや、ロサンジェルス一帯の日系・日本人コミュニティーのことについてはまるきり無知な、僕のこと。

 

   だから、僕は、そんな僕に一日のうちにコラムを二本書かせようなんて考えは、むちゃだ、読者のためにもいいことじゃないと思うって、そう言ったんだけど…。

 

          ※

 

   だけど、編集長の児島さんはそうは思わなかった。僕が〔むちゃだ〕と言い張るのに対して、児島さんはこうこたえたよ。「もっと物分かりがよくなってくれなくちゃ、横田君。ボクが〈いまは何も書く気がしない〉と言ったら、ほんとうに何も書けないんだってこと、もう知っててくれなくっちゃ」

 

   〈またきたぞ〉。僕は胸の中でつぶやいたよ。〈編集長に対して〔物分かり〕をよくしていられるような状況じゃないんです、いまの僕は。三時過ぎから書き始めたコラム[海流]の、明日の自分の担当分さえ、まだ書き終えることができずにいて、ほんとうに困りきっているんですから〉

 

   編集長が〔書く気がしない〕といいだしたのはあれが初めてじゃなかったし、実際に、いったんそう口に出してしまえば、もう、何があっても絶対に何も書かない人だってことは、とっくに分かっていたんだよ。だけど、きょうはなぜか、みょうに、おとなしく譲りたくなかったんだ、僕は。

 

          ※

 

   編集長はなんで書く気がしなかったのかって?

 

   だから、そういいだすときはいつも、あの人はすでに(少なからず)アルコールに酔っていて、気持ちがすっかり〈さあて、いつものバーでもう何杯かひっかけようか〉という方に飛んでしまっているんだ。

 

   児島さんはつづけた。「それに、きょうの新聞、あのコラムなしで出すわけにはいかないし…。そうだろう?だって、戦争が終わった年の翌年、一九四六年に『南加日報』が再刊され、[海流]欄が創設されて以来、あのコラムが抜けたことは一度もないんだよ。ほぼ五十年ものあいだ、だよ。だから、常に、だれかが進み出て『日報』の偉大な伝統を守らなきゃいけないんだ。分かるよね」

 

   僕は分かりたくなんかなかった。…いや、〔『日報』の偉大な伝統〕はできれば守りつづけたいものだ、とは思っていたんだよ。だけど、〔だれかが〕、つまりは、きょうは僕が、というところが僕にはどうも納得できなかった。

 

   だから僕は、大学でリポート・ペーパーを書かなきゃならないときに役立つだろうというので日本から持ってきていた、日英両語が書ける(この新聞社で日本語の文章を毎日書くようになってからは、その便利さに心底から感謝するようにさえなっていた)自分のワープロのスクリーンを、(演じられる限り)かたくな(そうに)に見据えつづけていた。

 

          ※

 

   児島編集長は、前に酔ってていたときもそうだったけど、みょうにがまん強く、饒舌だった。「それに、辻本さんも光子ももういないし…。どこかへ行っちゃって…。どこか?…ああ、そうだったな。この時間だから、辻本さんはいつものように、日本人町のどこかのレストランで早めの夕飯を食べているに違いないな。で、光子はというと…。そうか、日本舞踊のなんとか流のなんとか一派の年次総会か何かがあるというんで、そいつを取材してくるようにって、ボクがいいつけたんだったな。…だったよね?」

 

          ※

 

   そうだな…。話をそらせて、辻本さんと光子さんのことをちょっと説明しておくよ。辻本さんというのは、(いまは、コミュニティーの行事予定を記事にすること、編集員が書いた原稿を校正すること、その二つが日本語編集室での主な仕事になっている)〔編集顧問〕と呼ばれている、『日報』で四十五年間働きつづけてきた、七十六歳の温厚な紳士で、光子さんは、ときどき急に学生みたいな変に軽薄な話し方をするのでほんとうの年齢が判然としない(目じりのしわのより具合などから判断すると、たぶん、三十五歳前後の)ベテラン取材・翻訳記者だ。

 

          ※

 

   ついでに、状況が想像しやすいように、日本語セクションの編集室がどんなふうになっているかについても、少し触れておくね。

 

   日本語編集室には机が六つ備えてある。そのうち、西側の窓のない壁に向けてある二つは、上に本棚が乗せてあって、事典や本が(旧漢字で印刷されたずいぶん古いものも含めて)何百冊か雑然と積まれたり置かれたりしているだけで、いまはだれも使っていない。部員たちは残りの四つを部屋の中ほどに〔田の字〕型に並べ、編集長と辻本さん、光子さんと僕がそれぞれ向かい合う、つまり、編集長と光子さん、辻本さんと僕が隣同士になるような形で使っている。

 

   ちなみに、もう一方の、おなじく窓のない(編集長と光子さんが背を向けている)東側の壁沿いには、黒く塗装された年代物のスチール製の大きなキャビネットが三つ置いてある。中には、一九四六年の復刊後の数年間に読者から寄せられた投稿や投書などが、貴重と思われるほかの資料といっしょに保管してある、ということだけど、僕は、中の資料をだれかが手に取っているところを見たことがないし、僕自身も扉を開けてみたことはまだない。

 

   いや、中から少し資料を引っ張り出して、そいつを読んでみようか、と思ったことは(特に、この一か月ほどのあいだに)何度もあるんだよ。でも、そういう資料って、〔禁断の木の実〕というとちょっと違ってしまうかもしれないけど、ついふらふらと触れてしまった人間を、思いもしていなかった方向へぐいぐい引きずり込んでしまう、そんな魔力があるんじゃないかって気がするものだから…。

 

   もし、この新聞社で働きつづけることに決めたら、すぐにもキャビネットの中を覗いてみるよ。

 

   東側の壁の向こうは英語セクションの編集室だ。ただし、壁にはドアがないから、行き来する際には、南側の〔工場〕か、北側の受付兼事務室、新聞発送室を経由することになる。

 

   で、あのとき、編集長は自分の机を離れて、光子さんの机まで、つまりは、僕の表情を真正面からうかがうことができるところまで、出張ってきていたんだよね。

 

          ※

 

   話をもとに戻すと…。

 

   僕はワープロのスクリーンから視線を離して、編集長の顔を(ほとんど)にらみつけるように見返してしまったよ。〈〔だったよね?〕はないんじゃないですか〉と思いながら。

 

   編集長は顔を大きく崩してにたりと笑った。たちまち嘘と分かるようないいかげんなことを僕に言ってしまったことを、少しは恥ずかしいと思ってのことだったと思うよ。だって、その〔年次総会か何か〕というのは、ここ数年間編集長が(社内のほかの人たちがいうには)〔ずいぶん親しくしている〕師匠が開いたもので、あの人がそれを忘れるはずはなかったのだから。

 

   なんて遠回しにいうことはないんだよね。これは僕の私的な日記なんだから、はっきりと、〔編集長の愛人である三十八歳の日本舞踊の師匠、スージー・ナカザキさんの一派が開いたものだった〕と言っても、どこからも苦情は出ないんだよね。

 

   愛人?…そうなんだ。社内のほかの人たちは、この五十五歳の編集長は、まだ日本にいた十五年ほど前に日本人のおくさんと離婚していて、いまはともかく独身なんだから、〔不釣合いに若い〕ガールフレンドを何人持とうとあの人の勝手だ、と思っているみたいだけど、ほんとうはそうじゃないんだ。法的にはあの人はまだ、その奥さんと離婚してはいないんだ。というより、いま神奈川県に住んでいるその奥さんが離婚届にどうしても判を押してくれないんだ。だから、スージー師匠は、編集長にとっては、言葉のニュアンスを大事にして言えば、〔愛人〕ということになるはずなんだ。

 

   そんなことをなんで(〔社内のほかの人たち〕じゃなくて)僕が知っているのかって?

 

   師匠が直接僕に話してくれたからなんだけど、そのことはまた別の機会にしゃべることにするよ。それはそれで、けっこう長い話になりそうだから。

 

   そういえば…。あんなふうにしらばくれたところを見ると、僕がそこまで知っていることを、編集長は知らないんだね。スージーさんは、そんな話を僕にしたってことを、編集長にはまだ告げていなかったんだね、きっと。

 

          ※

 

   もう一度、話をもとに戻し直すと…。〔書く気がしない〕と言いだしたときの編集長は(アルコールにあおられもして)、数時間後にはスージーさんに会う、会えば、〔年次総会か何か〕に記者を派遣してくれた(つまりは、明日には自分のことが記事なり、写真つきで新聞に掲載される)ことに感謝するスージーさんが自分を夜通し熱くもてなしてくれるはずだ、などと胸を高鳴らせていたんだと思うよ。

 

   え、下司の勘ぐり?

 

   でも、スージー師匠は、(ほかの流派の師匠たちの数倍の頻度で)『日報』に記事が出るたびに、(いつも光子さんと決まっている)担当記者に(ふつうは二〇ドル札一枚みたいだけど、ほら、僕と大きくは異ならない、あの程度の給料しかもらっていないはずの光子さんにとってはけっして小さな額ではない)〔お祝儀〕を渡すだけではなく、二、三日後には、[三河屋]で買った和菓子の大きな折りを自分で新聞社に持ってきては、「どうぞみなさんでお食べになって」などといいながら、〔工場〕の人たちにまで最大級の愛想を振りまき回るほどの、というのが十分じゃなかったら、端的に、そもそも(僕の目には、男としての魅力なんかあまりなさそうに見える、身長が一七〇センチメーターほどで、半分白髪頭、着るものや履くものに無頓着で趣味もよくない、タバコとコーヒーで歯がきいろくなっている)児島編集長とそんな仲になるぐらいの、大変なメディア好きなんだ。だから、自分のことが記事になる前の晩となると…。

 

   やっぱり、下司かな?あのときの編集長の表情はどうしてもそんなふうに見えたんだけどね。

 

          ※

 

   スージー師匠が新聞社にやってくるのは、だけど、みんなに礼をいうためだけじゃないんだよ。社内をひとめぐりしたあと師匠は、自分のことが書かれた記事が載っている新聞を五〇部ばかりちゃんと持って帰るんだ。そのほとんどは弟子たちに渡してそれぞれ保存させるらしいけど、五部だけは決まって、日本にある一派の家元に郵送するんだって。…なかなか現実的だろう?しっかりしてるだろう?

 

   スージーさんが社内を駆けめぐっているあいだ編集長はどうしているかといえば、たいがいは、[AP](アソシエイティッド・プレス)が刻々送ってくるニュースなんかを、「日本関係のニュースがきょうはまったく入ってこないじゃないか」などとつぶやきながら、やたら難しげな表情で読んだりしているわけだ。

 

          ※

 

   そんな調子だから、ほかの流派の師匠たちはスージーさんに対して、けっこう大きな反感、というのでなければ、嫉妬心を抱いているみたいだよ。光子さんがほかへ取材に出かけていたために僕が行かせられたある流派の名取祝いの会では、「招待状は出してはみたけど…。おたく、うちにきてくれることもあるのね」なんて、新米記者の僕が、だよ、面と向かって嫌味をいわれたことがあるぐらいにね。

 

   僕は「〔コミュニティーに奉仕する〕が『日報』のモットーだって児島編集長がいつも言っています」といささか的外れな返事をするのが精一杯だったよ。…型どおりの取材をすませ、(それでも、コミュニティーの習慣どおりに、いちおうは用意されていた)〔南加日報記者様〕という名札つきの席につき、たいがいは和装だった老若の婦人たちに混じって、出された中華料理をもくもくと食べ始めてからも、僕は、『日報』の(どう考えても)公平だとはいいがたい取材姿勢をひたすら反省するばかりで…。

 

   つけ加えておくと、隣に用意してあった〔日米新報記者様〕の席にはあの日、最後までだれも座らなかったよ。

 

          ※

 

   でも、そんな嫉妬があることからも察しがつかない?

 

   『南加日報』は、三十年ほど早く創業した(いわゆる)老舗でなかなか商売じょうずの、発行部数が二万五〇〇〇といわれている『日米新報』と比べると、ずいぶん見劣りがする、読者数が一万ぐらいの小さな新聞なんだけど、(少なくとも)日系・日本人コミュニティー内の一部の人たちには、けっこう大事なメディアだと思われているんだよね。もっとも、それも、英語セクションのレイアウト係の前川さんによると、「『日米新報』は〔公正を期するため〕とかなんとか言って、私的な団体の私的な行事などにはほとんど紙面を提供しないし、ローカルの日本語テレビ局二社にはそんな(名取祝いの会みたいな)小さな出来事に割く時間帯などないから、自然に、一部の人たちが『日報』を当てにするようになるだけだよ」ということになるんだけどね。

 

   そうそう、その『日米新報』が長く〔中立〕(前川さんがいうには〔無難第一〕)を新聞の性格にしてきたのに対して、『南加日報』は創業以来、コミュニティー内で(〔奉仕の〕ではなく)〔論説の〕『日報』と呼ばれてきたんだそうだ。…編集長が一度、「カンバンは時によりさまざまに移り変わってきたけれども、[海流]などのコラムを主な舞台にしてだな、初代社長の今村徳松や代々の論説員たちが紙上で張ってきた、優れた論陣が評価された結果の、これは、実に名誉のある呼び名なんだ」という具合に僕に説明してくれたことがあるよ。

 

   そんな〔名誉のある呼び名〕ときょうの〔書く気がしない〕騒ぎはまるで対応していない、と僕は思うんだけどね。

 

          ※

 

   ということで…。

 

   編集長が仕事中のあんなに早い時間にグラス酒をしないでいられなかったのは、つまり、そういうわけだったんだ。あの人の頭の中はすでに、スージーさんのことで、というより、数時間後にスージーさんと過ごす一夜のことで、いっぱいになっていたに違いないんだ。そんな一夜が楽しめる自分の幸運をアルコールで祝わずにはいられなかったんだ。

 

   なんでそんなふうに決めつけるのかって?

 

   余計な世話というものなんだろうけど…。あの師匠は実は、(もう一度いうと、冴えない日本語新聞社の、五十五歳にもなる)編集長なんかを相手にしているのがはたの者には理解できないぐらい(というか、さっきも名前を出した前川さんが、ほかの六つには触れないままだったけど、二人の関係を〔日系・日本人社会の七不思議の一つ〕と言ったことがあるぐらい)の、なかなかの美人なんだ。

 

   いや、もしかしたら、飛び切りの美人というのじゃないかもしれないけれど、色が白くて、離婚した夫とのあいだに十三歳と十一歳の娘がいるというのに、肌に良いつやがあって、みょうに体の形がよくて、〈離婚しているからには、この人、いまは独り身なんだ〉というような見方で見ると、何かを訴えるようなかげが目つきに見えたりして、そう、ひと言で言ってしまえば、すごくセクシーな女性で、(もちろん、真紀がいるから、僕自身はそうは思わないけど)男だったらだれだって夜をいっしょに過ごしたくなりそうな、そんな雰囲気をいつもたたえているんだ。

 

   それに、父親が第二次世界大戦後に(台風の被害を受けた鹿児島県から特例〔難民ビザ〕で)移民してきた人で、母親の方も、父親の親戚がおなじ鹿児島からアメリカへ、なんというか、送り届けた人だそうだから、師匠も見かけはすっかり日本人なんだけど、しゃべる日本語はいわゆる片言で、そのバランスの取れていないところにへんな愛嬌があって…。

 

   で、そんな女性だから、もうすぐそんなふうに会えるとなると、だれだって早手回しに興奮するんじゃないかと、まあ、僕はそう考えたわけだ。…しかも、児島編集長は、かなり、というよりは、むしろ、新聞人としては豊かすぎる類の、つまりは、使いみちを誤るとちょっと危ないことになりそうだなって僕が感じるぐらい、強烈な想像力、空想力を持った人だから。

 

   いや、スージー師匠については、僕もかなりの〔想像力〕を働かせてしまったようだけど…。

 

          ※

 

   「流派のことは、まあ、わきに置いておいて」と編集長はつづけた。「とにかくそういうわけだから…。辻本さんも光子もいないわけだから、いまコラムを救うために起ちあがらなければならないのは、ほかのだれでもない、君だよ、横田君。いいね?」

 

   〔いい〕わけはなかった。〔なければならない〕とはなんて言いぐさなんだろうと思った。しかも、編集長はまだ、あす君が担当することになっているコラムは代わりに自分が書くから、とは言っていなかった。そいうことをいう人じゃないってことも、僕は分かっていた。だから、僕はこういい返したよ。「そんなふうには、僕、起ちあがれませんよ、編集長。いますぐ何か一つ書きあげるなんて、無理ですよ。僕の能力以上のことは求めないでください。僕自身のあすの分に何をどう書いたらいいかさえまだ分からないでいて、いま、ほんとうに弱りきっているところなんですから…。あすの自分のことだって怪しいのに、編集長の代わりにいますぐ何か書きあげる余裕なんか、僕にあるはずないじゃないですか」

 

   編集長の顔にまた、あの〔にたり〕が浮かんだ。

 

   僕は(表情には出さなかったと思うけど)ちょっとひるんでしまったよ。…実をいうと、僕はこの〔にたり〕が苦手なんだよね。なぜといって、この笑いには、周囲の者たちを催眠術にかけてしまうような、不思議な魅力があるからね。日本語編集室でふだん見せる、どちらかというと、そう、ちょっと権威主義的な、高飛車なもののいい方はもっぱら仕事用で、もともとの自分はお人好しのおじさんなんだよ、とでも言っているような感じで…。ずるい、という気がしないでもないけど、その〔お人好し〕な感じが全部つくりものだとも思えないんだよね。

 

          ※

 

   で、その〔お人よしのおじさん〕顔で編集長は言った。「そこだよ。君のいいところは。ボクは好きだな、君のそんなところが」

 

   僕は、どんなところであれ、そんな状況のときに、そんなふうな編集長には、あまり好かれたくはなかった。

 

   あの人はこうつづけた。「君はこれまであのコラムを一度もミスったことがない。偉いよ。君はほんとうに責任感の強い青年だ。その責任感は君の宝だな。おおいに誇っていい宝だ。いや実際に、数か月前に君が面接を受けにきたときすでに、ボクは一目でそのことを察知したものだったよ。なにしろ、君は、ボクがそれまで見てきた多くの若者たちとはかなり違っていたからね。…その、なんというか」

 

   「そう言っていただいて悪い気はしませんが…」。その面接の際に編集長に〈このカリフォルニアにやってきて、ちゃんとした目的もなしにただぶらぶらしているだけの多くの若い連中とは、君はいくらか違うみたいだな〉といわれたことを、ずいぶん遠い過去のことのように思い返しながら、僕はつづけた。「でも、責任感だけでは、一度に二本のコラムは書けませんよ、編集長。いえ、二日間に二本だって無理ですよ。準備に時間がかかるし…。一本書きあげるのに何時間もかかるんですから。僕は、とにかく、書くのが遅いんですから。そのことは、編集長、とっくにご存じじゃないですか。遅いのが自分で分かっているからこそ、いまからあすのコラムに備えようとしているんです。もう一本なんて、書けるわけがありませんよ。アイディアもストーリーも、何も持ち合わせがないんですから。それに…」。つづければきょうの編集長への嫌味か皮肉になってしまうな、と感じながらも、僕は言った。「それに、あしたの分をきょう書きあげておけば、あしたは新聞が早くできあがって、〔工場〕で働く(タイピストの)田淵さんや(日本語セクションのレイアウト係)江波さんたちが助かるわけでしょう?」

 

          ※

 

   僕があすのコラムの準備をしていたのには、正直にいうと、編集長に言ったことにほかに、もう一つ理由があったんだよね。

 

   それは、僕がロサンジェルスに移ってからはずっと、真紀と僕は、木曜日を電話で長話をする日にしていたこと。…ほら、真紀の好きな(NBCが夜八時から三十分間放送している)[フレンズ]をそれぞれ自分の部屋のテレビで見ながら、笑い合ったり、ちゃんと聞き取れなかった会話の中身を〈ね、いま何を言ったの?〉〈何がおかしかったの?〉などとたずね合ったり、もっと大事なこととしては、そう、次の週末にはどこで何をして過ごそうかと話し合ったりして過ごす日に…。

 

   だから、僕は、あすはできるだけ早くホテルに帰って、([ヤオハン・プラザ]のスーパーマーケットで買った弁当か何かで)早めに夕食をすませ、早めにシャワーを浴び、そのあと(僕が真紀に電話をかけることになっている八時少し前まで)、三日目になるこの声の日記をできるだけつけておきたかったわけ。

 

          ※

 

   ついでにしゃべっておくと、僕は毎日、午前七時までには出社することにしているんだよ。

 

   出社し、日本語編集室の自分の机の上にワープロを下ろすと、すぐに、英語編集室の前に設置してある[AP]のプリントアウト・マシーンを覗く。[AP]の記事と写真は二十四時間電送されつづけているから、前夜から早朝にかけて入ってきたものの中に、何はともあれ、まず、日米・日本・日本人・日系人・ローカル自治体関係のものがありはしないかと探すためだ。

 

   写真はふつう、全部で数十枚になっている。でも、チェックし終えるのにそれほど時間はかからない。…特に、日米・日本関係の写真となると、(阪神・淡路大震災の際にはすごい数で入ってきたそうだけど、[ドジャーズ]の野茂が格別にいい投球をした日や日本の国会や永田町で何か特別のことがあった日、有力政治家が訪米しているあいだなどを除けば)ふだんは、そう数多くは入ってこない。

 

   これに対して、紙の長い帯となって入ってきた記事のチェックは簡単じゃない。第一にはニュースの発信地に、第二には記事の中の人名と地名に気を配りながら、大急ぎで、いわゆる斜め読みをして、『日報』で使えそうな記事を探し、見つかれば、その部分を切り取るんだけど、なにしろ、ひと晩に(たぶん)数百という数のニュースが全米、全世界から送られてくるわけだから、けっこう時間がかかってしまう。見落としにあとで気づくことも多い。…児島編集長や、自ら英語セクションの編集長でもあるフレッド・イマムラ社長、英語編集員のデイブ・イワタニさん、英語欄レイアウト係の前川さんがあとで見なおしてくれるから、実害はほとんどないんだけど、見落としが分かると、やっぱり、ちょっとしょげてしまうよ。

 

   使える写真と切り取った記事は、習慣を尊重して、児島編集長の机の上に置くことにしている。

 

   でも、それ、たいていは、編集長より早く出社してくるイマムラ社長が、英語欄で使えるものがあるだろうから先に目を通しておこう、というんで、いったん英語編集室の方に持ち去っていくことになるんだけどね。

 

   英語セクションがほしいのは、何より先に、日系人関係のニュース。…公的人事、事件、事故。内容は問わない。日系人の名前が出てくるニュースなら、どんなものでもかまわない。…英語欄の読者たちはたいがいは[ロサンジェルス・タイムズ]なんかも読んでいるはずだから、そういった新聞が無視したか、ごく小さくしか扱わなかった記事が見つかれば、それがちょっとした〔特ダネ〕ということになる。英語欄の読者に日系新聞の存在価値を知ってもらえるいいチャンスでもあるわけだ。

 

          ※

 

   そんなことをしているうちに、[共同通信社]から日本語のニュースがファックスで入り始める。

 

   僕はその中から『日報』の日本語欄でその日使えそうな記事を選び出し、その部分をはさみで切り取り、これも児島編集長の机の上に置く。…あとで出社してきた編集長がまず目を通し、掲載する記事を最終的に選び出して、それぞれの記事に見合った見出しをつけ、記事の方は田淵さんたちタイピストに、見出しの方は写植係の相野さんに渡す。

 

   この切り取りが終わるころまでには、出勤途中にある[セブン・イレブン]で買ってきた[ロサンジェルス・タイムズ][ロサンジェルス・デイリーニュース][USAトゥデイ][ウォールストリート・ジャーナル]を社長が僕の机まで持ってきてくれるから、僕は、やはり発信地や人名などに気を配りながら、見出しと(それがついていれば)リードを拾い読みする。[AP]のときとおなじように、『日報』の日本語欄で使えそうな記事を探すわけだけど、ここでは(特に、[ロサンジェルス・タイムズ]と[ロサンジェルス・デイリーニュース]の中のカリフォルニア州ロサンジェルス郡、ロサンジェルス市、さらにはその周辺諸都市に関係した(この二社が独自に取材した)ニュースが重要な対象だ。南カリフォルニアに住む日系・日本人にも関わりのある、たとえば、法律・交通規則・税制などの改正、社会的事件、事故、災害などについてのニュースをあとで、〔[ロサンジェルス・タイムズ]が報じたところによると〕というような形で『日報』の記事にさせてもらおうというわけだ。

 

   これも簡単ではないよ。見出しには、(英語の新聞を読みなれている人たちにとっては〔改まって何を言っているんだ?〕という類の常識なんだろうけど、〔過去形のかわりに現在形を使う〕〔過去形に見えるものは受け身の過去分詞〕〔be動詞はめったに使わない〕〔冠詞はほとんど省略する〕などの)独特の書き方があるし、短い言葉に出来事の核心が集約されているわけだから、僕程度の英語力や社会知識じゃ本文の内容が推定できないことがしょっちゅうなんだ。

 

         ※

 

   僕が新聞を読んでいるころに、辻本さんがやってきて、日系コミュニティーの団体や教会・寺院などから郵送されてきた行事予定などを記事の形に手直しし始める。…これは、昔からの定期購読者を確保しつづけるための重要な仕事なんだよ。

 

   日本からきている(いわゆる)駐在員の奥さんで、ちょっとは頭と体を動かしていたいからと、なんと無給で働いている(らしい)和文タイピストの伊那さんが、コーヒーがはいったと辻本さんと僕に知らせてくれるのもそのころだ。…だけど、ほんとうに無給だとしたら、他人の好意というか善意というか、そういったものにそんなふうに平気で甘えていられるイマムラ社長は(ある意味では)すごい人だよね。

 

   編集長が顔を出すのは、だいたい九時ごろになる。…二日酔いがひどすぎて、正午すぎになるようなこともけっしてまれではないけどね。

 

   編集長がそんなふうにひどく遅れる朝は、(以前はその役をしていた辻本さんに強くすすめられて、このごろでは)僕が、[共同通信]が送ってきた記事の中からその日の『日報』に掲載したいものを選び出し、それを〔工場〕に渡している。…タイピストの田淵さんや伊那さんたちをただ待たせておくわけにはいかないからね。

 

   あとで出てきた編集長が、僕が選んだ記事を〔『日報』向きではない〕と言ってボツにしたことはまだ一度もない。

 

   もう一人の編集員、光子さんは(編集長が二日酔いじゃない日には)たいがい編集長よりも遅くやってくる。コミュニティーの行事取材が前夜にあった朝などは、いよいよ遅くなる。編集長は、ふだん光子さんを自分の都合に合わせて便利に使っているからだろう、光子さんの遅い出勤を(僕が知っている限りでは)叱ったことがない。…いや、前夜の仕事について残業手当が支給されるわけではないことや、会社が光子さんに払っている基本給が(たぶん)あきれるほど少ないことを思えば、編集長でもあまり強い態度には出られない、という面もあるのかもしれないな。

 

          ※

 

   〔工場〕について少し説明しておくね。

 

   『南加日報』社には実は、(『日米新報』社と違って)もう印刷工場はないんだ。文選(活字拾い)作業も輪転機のうなる音もないんだ。いまとは別の場所に社屋があった一九八四年までは、社内に印刷機を備えて自社印刷をしていたんだけど、老朽化した輪転機がしばしば故障するようになったし、高齢になって引退した文選植字工のあとを若い人で埋めることも(発行部数、つまりは、広告収入が伸びないから十分な賃金が出せないという事情もあって)難しくなる一方だったので、この際、発行工程を一気に〔軽量化〕してしまおうというので、版下づくりは和文タイプライターと写植機を使って社内でやるものの、印刷は外注することにし、ことのついでに、オフィスも(リトル東京をちょっと東に外れた)いまの場所に移したんだそうだ。

 

   もっとも、(六十二歳のタイピスト)田淵さんから一度聞いた話によると、この説明はいわば〔表向き〕で、ほんとうは、運転資金を調達するために会社の土地と建物を売却する必要に迫られたという事情がさきにあって、それでは、社屋をよそに借りることになるのを機に、輪転機も放棄し、費用と人手のかかる活版印刷はいっさいやめてしまおうということになったんだって。

 

   もうワープロの時代に入っていたし、和文タイプができるという人はなかなか見つからなかったけれども、それでも、活版印刷とは違ってインクに汚れるわけではなし、教えてもらえるのならタイピストとして働いてもいい、とい人はなんとか数人集めることができたんだそうだ。…文選植字工から転身してタイピストになったのは田淵さんだけだったらしいよ。

 

   田淵さんたちが働く部屋をいまでも〔工場〕と呼んでいるのは、だから、和文タイピストの人たちを植字工に見たててのことなんだよね。

 

          ※

 

   英語セクションのことにも触れておくと、こちらでは、フレッド・イマムラ社長と(先代今村徳一社長のころから編集の仕事をつづけている、無口な二世の老人)デイブ・イワタニさんの二人が、(オフィス移転の際に中古で導入した、いまではすっかり旧式となっている)コンピューター二台を使って、記事を打ち出し、見出しをつくっているから、〔工場〕に当たるものは別にないんだ。

 

   そういえば…。三月に面接を受けにきたとき、僕は英語編集室には案内されなかったんだよね。だから、この新聞社にはコンピューターなんか一台も備わっていないんだって、思い込んでしまって…。

 

          ※

 

   田淵さんや伊那さんたちが和文タイプライターで打ち上げた記事と相野さんが写植した見出しを台紙にレイアウトし貼りつけるのは(三十八歳の)江波さんだ。

 

   日本語ページの割りつけに間違いがないかどうかは、(夕方に取材がない限りは)朝遅く出社してくるかわりに夜はけっこう遅くまで働いているらしい光子さんが見る。(やっぱり超過勤務手当なしで)残業して、翌日(や土曜日)用に記事を書きためている僕や、いつもどおりに早い夕食を終えて戻ってきた辻本さんが手伝うことも少なくはない。…この段階になってタイプや写植の間違いに気づくことがあるから、それに備えて、田淵さんと相野さんもまだ残っている。用意した記事や写真だけでは紙面が埋まらなくて、だれかが急きょ短い記事を書き足すこともある。

 

   日本語セクションでも英語セクションでも、版下は(早ければ五時半)たいがいは六時半ごろまでにはできあがっている。

 

   (僕の仕事はここまでだから、あとのことは自分の目では見たことがないけど)そろった六ページの版下は辻本さんが毎日、リトル東京から遠くないチャイナタウンの少し北にある中国語新聞社に運び、そこの工場で写真製版してもらい、(その新聞社自体の新聞印刷が始まる前に)印刷を終えてもらう。刷りあがった新聞を受け取りにいくのは、発送係として雇われているメキシコ系の青年たちだ。新聞は夜十時ごろには会社に届いている。…版下製作までの過程がとっくにコンピューター化され、印刷も自社内でやっている『日米新報』が毎日、午後三時ごろにはできあがっているのに比べると、ずいぶんのんびりしたやり方だけど、イマムラ社長はずっとこのままでいくつもりのようだ。

 

   『新報』とおなじように、『日報』も発行部数のうちの大半を郵送で読者に届けている。で、その十時ごろから、(新聞のふちに宛先をプリントし、新聞を宛先の郵便番号ごとにそれぞれ違った布袋に詰め分けるという)発送作業が始まる。メキシコ系の青年たち数人を使いながらこの仕事をやるのはジミー・スギさんという(そんな夜の仕事をしてもらうのが気の毒に思えるぐらい)かなり年輩の日系二世だ。昔、イマムラ社長の祖父である『南加日報』の創業者、今村徳松に〔助けてもらったことがあるので、恩返しのつもりで〕(不動産取扱業から引退したあと)この仕事を引き受けたということだ。…もしかしたら、タイピストの伊那さんとおなじように、スギさんもただ働きしているのかもしれない。

 

   袋詰めにされた新聞は郵便局に運ばれ、ロサンジェルスとその周辺だと翌日には読者のところに配達される。…僕が二月にたまたま『日報』を見つけた[旭屋書店]などには翌朝、(僕がまだ声を交わしたことのない)佐藤という(やはり高齢の)人が届けている。この人は、太平洋戦争開始前にこちらに渡ってきた一世だそうだ。

 

          ※

 

   時間を朝のことに戻すと…。

 

   出社してきた児島編集長は(僕が切り取っておいた)[AP]のニュースと(イマムラ社長が買ってきてくれていた)新聞数紙の記事の中から、その日はどれを翻訳するかを(ここは、いかにも経験豊かな編集人らしく、実にすばやく手際よく)決める。(日系・日本人向けの)いいニュースがほとんど見つからないという日も少なくないけど、僕にはだいたい二つのニュースが回ってくる。(二日酔いなどが原因で)編集長が遅れる日は、僕が自分で選んだものを(辻本さんの意見を聞いたうえで)とりあえず翻訳し始める。光子さんが受け持つ数は、その日にコミュニティー取材があるかどうか、前夜あったかどうかで決まる。

 

   それからの僕は(ふつうは午後三時ごろまで)〔頭の中が戦争〕といった状態で時間を過ごすことになる。

 

   なにしろ、こちらでは特大ニュースだった、たとえば、三年前の〔ロサンジェルス暴動〕のきっかけになった、LAPD(ロサンジェルス市警察)の警官たちによるロドニー・キング氏殴打事件のことでさえ、僕の知識はないに等しいようなものなんだから、ことが小さいものになると、僕は、背景事情を何も知らないまま翻訳にとりかかることになるわけだ。それでは、表面の英語はある程度読むことができても、具体的に何がいわれているのかが分からない。分からないから、結局は日本語にできない。…ことに、働き始めてから間もないころは、数分おきに何かを質問するといった状態で、編集長と辻本さんにはずいぶん迷惑をかけてしまった。

 

   そういえば、(もうだいぶ慣れたけど)記事の書き方が日本とアメリカとではおなじじゃないことにも、初めのうちはひどく悩ませられたな。だって、こちらの記事は必ずしも(というよりは、ほとんどが)例の〔いつ・どこで・だれが・何を・どうした〕方式で始まらないんだから。…日本式に書きなおすためには、まず、オリジナルの記事の中からその五つに要素を探し出さなきゃならないんだけど、それだけのためにだって、ずいぶん時間がかかったんだよ、初めのころは。

 

          ※

 

   ところで、『日報』が([海流]のほかに)すごく力を入れているのは、第三面の〔コミュニティーもの〕と〔翻訳もの〕だ。ここだけは、どんなことがあっても(つまり、発行部数やページ数、広告の量、刷りあがりの時間の早さなんかでは勝てないにしても)『日米新報』には負けたくない、という雰囲気が〔工場〕にいたるまで漂っているほどなんだ。

 

   というのも、世界とアメリカ関係の記事を第一面に、日本関係の記事を第二面に、というページ構成は原則として『新報』とおなじだし、この二ページは(『新報』の方は時事通信社の記事も使うところが違っているけど)だいたいは[共同通信社]が送ってくるニュースで埋めることができるから、見出しのつけ方や扱いの大きさ、レイアウトなどを工夫する余地はあるものの、『日報』としては特には腕のふるいようがないわけだ。[AP]が朝から午後にかけて送ってきたニュースを緊急に翻訳して入れ込むこともなくはないけど、そういうのは、あまり頻繁に起こるわけではないんだよね。

 

   そういうのに対して、第三面は([共同]や[時事]がカバーしない)ローカルニュースのためのスペースだから、『日報』と『新報』がそれぞれに〔持てる力〕を発揮して見せなければならないところだ。編集長の真価が問われる(と編集長自身も思い込んでいるらしい)ところなんだ。だから、第三面の〔トップ記事〕を書くのは(よほどのことがない限り)児島編集長になる。

 

          ※

 

   〔翻訳もの〕というのは、[AP]などから得た英語のニュースを日本語に翻訳して掲載する記事のことだ。(日本の通信社が目を向けないような)アメリカ、カリフォルニア州ロサンジェルス郡、ロサンジェルス市、さらにはその周辺都市に関係のある政治・経済・社会的事件などのニュースの中から、南カリフォルニアに住む日系人と日本人が知って(あるいは興味と関心を持って)いた方がいいと思われるものを選び出し、日本語にするわけだけど、多くのニュースの中から特に日系・日本人に向いていそうなものを〔トップ記事〕用に一つ選び出し、(背後の状況に関する情報があまり入っていないかもしれない)読者に分かりやすい記事にするのは、(少なくとも、僕の目には)簡単じゃないようだよ。第一には、日系・日本人の意識の持ちようや暮らしぶりをよく知っていなければならないし、第二には、翻訳者自身が(大は世界のことから小は地元の日系・日本人コミュニティーのことにいたるまでの)社会の動きに精通してなきゃならないからね。

 

   一見したところよりも勉強家なのか、『日報』で長く記事を書いているから自然にそうなったのかは僕には判断がつかないけど、編集長はなかなかいい仕事をしていると思うよ。『新報』と読み比べてみて、(ニュースの選び方や焦点の当て方などで)〈第三面の〔トップ記事〕はきょうもうちの勝ちだな〉と思う日がずいぶんあるからね。

 

          ※

 

   一方、〔コミュニティーもの〕というのは、南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティー内での出来事、行事、事件などに関する記事のことだ。この方面はふつう、光子さんが受け持つことになっているわけだけど、〔トップ〕にする値打ちがある(と編集長が判断した)ものは、編集長が自ら取材をして記事を書くんだ。

 

   あの人が真価を発揮するのは、実をいうと、こちらの方なんだよね。

 

   そうだな…。僕が知っている範囲では、四月の[ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]の〔内紛〕事件の記事が代表例だな。熱の入れ方といい、記事のでき具合といい、あのときの編集長の働きはとにかくめざましいもので、第三面の〔トップ〕は数日間、『新報』を圧倒しつづけたよ。…記事の内容を支持する電話が読者からたくさんかかってきたぐらい、コミュニティー内で注目された記事だったんだよ。

 

   もっとも、編集長個人の主観や主義、好みを核にしてまとめられた、かなり不公平な記事でもあったから、[会議所]の一方の側には(あとで編集長の机の下に酒瓶が何本も並ぶほど)大歓迎されたものの、コミュニティー全体からはあまり高い評価は受けなかったかもしれないけど…。

 

   この件についても、またいつか触れることにするよ。僕が『日報』で働きだして間もなかったころの、けっこう刺激的な(南カリフォルニア日系人と日本人、それに小実業家や商売人といった人たちについてずいぶん勉強させてもらった)事件だったからね。

 

          ※

 

   僕自身のことに戻ると…。

 

   突発的に大きなニュースが入ってきたりしなければ、午後三時過ぎからは翌日や土曜日のための仕事になる。ふつうは、日時が緊要ではないニュースの中に『日報』で使えるものはないかと、朝からそのときまでに[AP]が送ってきたニュースに目を通し、[ロサンジェルス・タイムズ]などを読みなおしてみて、いい記事を見つけ出したら、その翻訳にとりかかるんだけど、きょうみたいに、僕が週に一度、木曜日に担当することになっている[海流]のための原稿書きに入ることもあるわけだ。

 

          ※

 

   『日報』は(『日米新報』とおなじく)週六日(日曜日休刊)の日刊紙で、[海流]も(編集長が〈あのコラムが抜けたことは、一九四六年の欄創設以来、一度もない〉と言っているように)毎日欠かさず掲載されることになっている。筆者は現在(いちおう)六人いて、それぞれが週に一度書く仕組みだ。社内の書き手は編集長と光子さん、それに、僕だ。ほかに、〔論説顧問〕が社外に三人いて、それぞれが原稿を毎週一度郵送してくれることになっている。

 

          ※

 

   〔顧問〕のうちの一人は、名古屋に住んでいる中学校の先生だ。名古屋はロサンジェルス姉妹都市だから、生徒たちに両市の関わりを学ばせようとあれこれ調べているうちに『南加日報』の存在を知り、自分にも何か書かせてもらえないか、と言ってきたことがきっかけだそうだ。 …いまでは、日本の教育事情を(じょうずな文章で、というわけにはいかないみたいだけど)現場からいきいきと報告してくれる、[海流]の重要な書き手の一人だ。数年前に十回ほどつづいた〔帰国子女〕に関するストーリーは、編集長がいうには、(駐在員のような形で南カリフォルニアにきているものの)いつかは日本に戻るつもりだという人たちを多く読者にしている『日米新報』と違い、おなじ日本人でもアメリカに永住することをすでに決めている(つまりは、〔子女〕の〔帰国〕後のことについては心配する必要がとうになくなっている)人たちが多く読んでいる『日報』にはもったいないぐらいの、(だから、『新報』に掲載されていたのだったら、もっと関心を集め、もっと高い評価を受けていたはずだ、と思わないわけにはいかないぐらいの)〔すばらしい〕内容だったんだって。

 

   〔だって〕と言ったのは、僕自身はまだ、保管してあるその当時の新聞を引っ張り出して読みなおしてはいない、ということなんだけど…。

 

   というのは、その話を編集長から聞いたころの僕はもう、編集長の〔すばらしい〕と僕の〔すばらしい〕はいつもどこかでちょっとずれている、ということに気がついていたし、編集長の日ごろの言動から、名古屋の先生のそのストーリーは、編集長の好きな〔日本=悪玉〕セオリーに沿う形で、ということは、日本の教育者の無関心や無能、教育行政の怠慢を厳しく批判する視点で書かれていたはずだ、と容易に想像できたものだから…。別に、先生のその仕事の出来の良さを疑ったから読まなかった、というんじゃないんだよ。

 

   この先生の執筆に対する謝礼は、先生が書き送ってくれた評論やエッセイが掲載された『日報』が十部。それだけなんだって。

 

          ※

 

   もう一人の〔顧問〕は([ディズニーランド]がある)オレンジ郡アナハイム市に住む、日本から派遣されてきた現役の商社駐在員だ。この人は、記事がロサンジェルス郡中心になりがちな『日報』に、地元の新聞などから拾ったオレンジ郡情報をあれこれ届けてくれるんだよ。

 

   〈ものを書くのが好きで、もともとは新聞記者になりたかったんですけど、当時のわたしにはどうも一般常識が欠けていたようで、新聞社の入社試験はしくじってしまいましたよ〉と編集長に話したことがある、というだけのことはあって、というとちょっと変だけど、この人は、文章を実になめらかで、几帳面で、知的に書くんだよ。『海流』に品をそえることができるのは、この人だけだと思うよ。

 

   〈カリフォルニアにきて新聞にエッセイが書けるようになるなんて、思ってもいませんでしたよ〉と、自分の幸運を喜んでいるそうだから、やっぱり(名古屋の先生とおなじように)原稿料はもらっていないんじゃないかな。

 

          ※

 

   最後の一人は…。どういえばいいんだろう?

 

   〔難物〕だな。…アリゾナ州トゥーソンに住んでいる八十歳に近い老人だそうだけど、とにかく、文章のスタイルが古めかしい。詠嘆が先走って、論理が追いつかない。掲載する前に、(論旨を変えないように気を配りながら、編集長が)かなり手直しをしなければならない。

 

   〈戦前は日本で右翼青年として少しは知られていた〉と自称している(という)ことからも察しがつくように、大変な皇国史観の持ち主で、いまでも平気で〔賢所におかれては〕みたいな文を書いてくる。編集長が〔日本=悪玉〕セオリーなら、この老人は、何がなんでも〔日本=善玉〕論を押し通す人だ。

 

   編集長から聞いた話だと…。この人は、日本が太平洋戦争を始める前に一度、〈スパイをするつもりで〉アメリカに渡ってきたんだけど、カリフォルニア中部の農場で〈資金稼ぎ〉に精を出していているあいだに、〈いよいよこれからスパイ活動にとりかかろうというところで〉体を悪くしてしまい、あえなく日本に逆戻りし、戦後十数年経ってから、今度は〈日本がアメリカに手ひどく負けてしまった原因を知ろうと〉(どういうわけか)メキシコ経由で陸路でアメリカへ密入国してきて、日本人庭園業者の下働きをはじめとして、ありとあらゆる手仕事をしながら、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アリゾナの諸州を転々としているうちに、戦後に〔進駐軍〕の一員として広島だかにいたことがあるという白人と友だちになり、その白人のすすめでトゥーソンで日本語を教えるようになり、そのうちに永住権を取得して、そこに住みついてしまったという(ひと息ではしゃべりきれないような)とんでもない経歴の持ち主だ。

 

   編集長が「十数年前までは(戦前、日本に住む祖父母たちのもとに送られて、そこで日本の軍国主義教育を受け、日本人意識を頭に深く染み込ませたあと、アメリカに戻ってきた日系アメリカ人である)〔帰米二世〕がまだ数多く生きていて、元気もよかったから、その人たちを愛読者にして、あの人、〔なかなかの論客〕で通っていたようだ」と話してくれたことがあるよ。

 

   この人には、〔ご老人のプライドを傷つけない程度の〕謝礼が払われているそうだ。

 

   『南加日報』は、編集長とこの老人が共存しているあたりの、そう、ずさんさが、一つの特色でもあるのかもしれないね。

 

          ※

 

   という具合に、三人の社外〔論説顧問〕が『日報』にはいるんだけど、三人にもそれぞれ事情があるだろうし、まあ当然、毎週決まった日に原稿が届くわけではない。

 

   先生は、どこかの中学校で〔いじめ〕による自殺事件があったというようなときには、その事件を材料にして精力的に書きあげた原稿を数日間に何本も送ってくるほど熱心な人だけど、(この夏がそうだったように)毎年決まって〔学校が夏休みになるとスランプにおちいってしまうという困った難点〕があるんだそうだ。

 

   商社員は、ニューヨークやアトランタ、東京などに急に出張させられることがあるし、日本から訪ねてきた客の接待に追われることも多いから、(いかにもこの人らしく、予備の原稿がいつも用意されてはいるものの)何も書けない週が予期以上につづくこともある。

 

   老人は、(〈トゥーソンには、ロサンジェルスやサンフランシスコみたいには多く日本の情報が入ってこないから〉)日本やロサンジェルス(に住む友人や知人など)から送ってもらう週刊誌や月刊誌を読んで、論題を見つけ出し、一つの論題で数週分を埋めるようにしているんだけど、いつもいいネタが見つかるとは限らないし、雑誌が長いあいだ届かないこともあるんだそうだ。…老人がいまでも皇国史観みたいなものを持ちつづけているのは、日本に関する情報が比較的に少ないそんな場所で長く(たぶん、ほかの日本人たちとはあまり接触せず、そのために、精神が純粋培養されるみたいに)暮らしてきたからじゃないかな。

 

          ※

 

   そういうわけだから、月曜日の光子さんから順に、名古屋の先生、編集長、僕、商社員、老人と、いちおうは決めてあるローテーションが狂うことも多いわけだ。穴埋めに僕が原稿を書いたのも一度や二度ではないんだよ。

 

   でも、きょうの事情は違っていた。問題は、編集長の、言ってみれば、そう、〔わがまま〕だったわけだから。

 

   それに、僕は、あす掲載されることになっている僕自身の[海流]をどうしてもきょう中に書きあげておきたかった。書きあげておいて、(さっきしゃべったように)あすは残業せずに早めに新聞社を出て、早めに食事とシャワーをすませ、この日記をちょっとつけて、電話での真紀との会話を気分よく楽しみたかった。…そう考えていったん書き始めたものの、なかなか書き進めないので、ほんとうに弱りきっていた。だから、編集長の肩代わりをするゆとりなんか、僕にはまったくなかったんだ。

 

          ※

 

   〔ついでに〕がずいぶん長くなってしまったね。でも、とにかく、きょう編集長が話しかけてきたときの僕は、その〔三時過ぎ〕からのルーティーンの一つである[海流]の原稿書きに入っていたわけなんだ。

 

   真紀のことは何も知らない編集長は(まあ、たぶん、知っていたとしてもおなじだったろうけど)僕のその程度の抵抗にたじろいだりはしなかった。「君が書くのが遅いことはボクも知っているけど、それでも、もう書き始めてはいるんだろう?」。あの〔にたり〕笑いがいちだんと大きくなっていた。

 

   僕はつられて、思わず笑い返しそうになってしまった。

 

   「ということは」と編集長はつづけた。「少なくとも、ある程度はもう書き終えているということだよね。…最初の原稿」

 

   〈最初で〔最後の〕ですよ、編集長。今夜はこれ一つしか書くつもりはありませんし、あすは何も書きません。編集長の代役は今回はオコトワリです〉。胸の中ではそうつぶやいたんだけど、それは声にはならず、僕は代わりに、こうつぶやいていた。「これまでに何時間かかけたんですから、そりゃあ、いくらかは書いてますけど、その線で書き終えられるかどうか…」

 

   僕の言葉が切れる前に、編集長は自分の両手を打ち合わせた。「それはいいや。だったら、それを書きつづけてもらってだな、できあがったら、きょうの分として(タイピストの)田淵さんに渡してもらおうか。そうすると、読者はあしたもいつもどおりに[海流]を読むことができる。うん、それがいい。だけど、ボクら、急いだ方がいいな。版下を(中国語新聞社の)印刷所に遅れて持ち込むと、また(印刷責任者の)ウォンさんが苦情を言ってくるだろうし…。いや、そんなことの前に、原稿の出が遅いというんで、田淵さんの機嫌がちょっと悪くなりかかっているようなんだ。編集部で働く者として、ボクら、〔工場〕の人たちに嫌われない方がいいからね。…だろう?」

 

   〈そんな理屈はないんじゃないですか、編集長〉と僕は思った。〈〔ボクら〕ってことはないでしょう。原稿の出を遅れさせたのはだれなんです?田淵さんの機嫌が悪くなりかかっているとしたら、それ、だれのせいなんです?〉

 

   でも、僕がどんな表情になっているかなんて、あの人は気にしてはいなかった。「で、いま、何を書いているの?」

 

   この辺りが編集長の(たぶん、ずるくて)すごいところなんだよね。あの人は突然、編集長としての威厳を回復して、というか、僕に有無をいわせない、ちょっと居丈高な口調になって、そうたずねてきたんだ。

 

   そういう質問には僕は抵抗できないじゃない。だって、編集長は僕の原稿を手直ししたり、場合によっては、僕に初めから書き直しさせたりすることができる立場にある人だからね。僕は正直に答えるしかなかった。「恥ずかしいんですけど、また、[ドジャーズ]の野球のことを…」

 

   「恥ずかしがることは何もないじゃないか」。編集長の顔がまたほころんだ。…安堵したんだ。「おなじ話題に何度取り組んでもかまわないんだよ。むしろ、それが君の特徴、ということになって、読者に親しまれるんだから」

 

          ※

 

   編集長が〔安堵した〕のには理由があったんだよね。…ローカルの出来事にはまだ疎いけれども、題材が野球となると、(これまでがそうだったように)僕がまずまずのエッセイを書きあげるだろうってことが編集長には分かっていたし、僕が無難に書きあげるとなれば、自分は手直しする必要もないだろうし、僕が書きあげるまで残っていなくても(つまりは、ファースト・ストリートにあるバーにすぐに駆けつけても)いいということになるわけだから。

 

   「それを書きつづけるといいな」。編集長は言った。「だいたい、君は、野茂投手についてはいつも、おもしろいものを書くからな。野茂を見るときの見方が…。なかなかいいし…」

 

   編集長は〈見方が…〉と言ったあと、しばらく言葉が継げなかったんだよね。僕が気をよくするような、何か気のきいたことをつづけたかったんだろうけど、何をどう言ったらいいかがすぐには分からなかったんだ。…というのも、あの人は(日本人の男性としてはめずらしく)野球に関する知識の乏しい人で、たとえば、[ジャイアンツ]がセントラル・リーグに属しているぐらいのことまでなら知っているけど、[バッファローズ]がどこを本拠地にしている球団かは、もう知らないんだ。

 

          ※

 

   そんな人なのに、編集長は(野茂が絶好調だった六月の終わりごろに)一度、野茂に触れたエッセイを[海流]に書いたことがあるんだ。それも、(これじゃまずいんじゃないか、と僕が思った個所がずいぶんあったにもかかわらず)なかなかいい(というのが矛盾して聞こえるなら、そう、かなり興味深い)内容だったんだよ。

 

   僕のファイルの中から取り出して読んでおくと…。

 

   ≪*筆者はこういうのが嫌いだ。こういうのとは、日本人の態度のことだ。どんな態度かといえば…。*今年の一月、二月ごろ、彼らは何と言っていただろうか。彼らとは誰のことか。言わずと知れたこと。日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちのことだ。*あのころ彼らは、野茂は肩(肘だったかもしれない)に故障を抱えているからアメリカで成功するわけはないと言っていたはずだ。だが、彼らの冷血な悪口をものともせず、野茂は大リーグの偉大なプレイヤーたちに混じって大成功を収めつつある。彼らの予見はものの見事に外れてしまったのだ。*予見が外れたのはなぜか。答えは簡単だ。彼らが自分たちの劣等感を土台にして野茂の将来を見てしまったからだ。*劣等感?何に対する劣等感か。*アメリカに住み、アメリカを動かしている人間に対する劣等感だ。彼らはいつも、潜在意識の中で、この国の人間に劣等感を抱いているのだ。*日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちは、実は、野球を含めた多くの分野で日本人はアメリカ人には太刀打ちできない、したがって、(皮肉なことに、台湾系日本人なわけだが)日本の偉大なプレイヤーである王貞治氏が日本で何本ホームランを打っていようと、野茂はやはりアメリカで失敗する、と心の奥底で思い込んでいたのだ。*そうなのだ。彼らは、世界のホームラン記録保持者は王氏だとこれまで主張してきたし、いまもそう言い張っているくせに、心の底では、王氏の本拠地であった後楽園球場は、アメリカの球場に比べると、盆栽ほどの大きさでしかなかった、それゆえ、王氏の記録も世界記録であるとは言えないのではないか、と疑っているのだ。*それが筆者のいう劣等感だ。*間違いない。日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちは、自分たち自身が日本人の力量に自信が持てないものだから、事が現実にどうなるかを見極める前に、野茂も結局は失敗するはずだ、と決めつけていたのだ。そもそも、彼らにとって、野茂の故障は重大な問題ではなかったのだ。というより、野茂の力量がどんなものかが彼らには理解できていなかったのだ。理解できていなかったから、彼らは、一度は日本で最高の投手といわれたプレイヤーでもアメリカではしくじるに違いない、そうなれば、日本人全員が面目を失う、と考えるしかなかったのだ。*野茂の実力を冷静に分析して、この投手は日本では一、二を争うほど優秀なのだが、大リーグでやっていく力はやはりない、と判断するのはしゃくだから、肩だか肘高だかが悪いから通用しないということにしておこう、としたあたりにも、彼らのゆがんだ劣等感がよく表れているではないか。*恥ずかしい。恥ずかしい。*しかも、不幸なことに、そんなふうに考えるのはスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちだけではない。日本に住んでいる他の日本人もみなそうなのだ。*日本人は事実を見ない。物事をあるがままには見ない。外国が絡む場合は特にそうだ。日本に住んでいる日本人たちは、自分の基準に合うように、自分たちの劣等感がそれ以上深くならないように、すべてをゆがめて見てしまうのだ。*それだけではない。野茂の成功が明らかになってから彼らが取った態度はどうだ。失敗するに決まっているとなじったこと、日本の野球を捨てる裏切り者と呼んだことについては詫びも言わず、恥じもせず、この投手にこぞって〔日本人の誇りだ〕と大声援を送り始めたのだ。*恥ずかしい。恥ずかしい。*以って学ぶべし≫

 

   独善的で高飛車すぎるよね。あんまり論理的じゃないよね。

 

   (生意気なのをかまわずに言うと)技術的には、このエッセイは欠陥が多すぎると思うよ。

 

   少し読めば、編集長が正確さを重視しない人だってことが、だれにだって分かるし…。

 

          ※

 

   第一に、野茂の故障が肩にあったのか肘にあったのかを編集長は知らない。はっきりさせようとは考えてもいない。〔肩(肘だったかもしれない)〕では無責任じゃない?

 

   いや、そもそもその前に、編集長は、このエッセイの読者の中には野茂の名前にいきなりであって〈野茂ってだれ?〉といぶかる人もいるんじゃないか、というふうに、まず、考えるべきだと思うよ。初めて野茂の名前を出したところで、たとえば、〔野茂英雄、その独特の投球フォームからトーネード(竜巻)と呼ばれている[ロサンジェルスドジャーズ]の日本人投手〕ぐらいなことは書いておいた方がいいと思うよ、僕は。…いや、すでによく知られている人物のことをあんまりていねいに説明すると、かえって変になってしまうものだけど、編集長はそれまで、野球をネタに何かを書いたことがなかったようだし、自分のエッセイの中で野茂のことに触れるのもあれがまったくの最初だったんだから。

 

   第二に、たまたま知っていたから〔日本の偉大なプレイヤー〕の王の名は出すけども、知識がないから〔大リーグの偉大なプレイヤーたち〕の名前は一人も書かないというのも、なんだかおかしいよね。バランスが取れていないじゃない。それに、〔王貞治氏が日本で何本ホームランを打っていようと〕と〔野茂はやはりアメリカで失敗する〕とのあいだには(理解はできるけれども)論理に大きな飛躍があると思わない?荒っぽい書き方だと思うけどな。…王氏の〔氏〕もなんだか浮いてしまっている感じだよね。

 

   後楽園球場を〔盆栽ほどの大きさでしかなかった〕と決めつけているのに、両翼が何メーターあったかなどを数字ではっきりさせてはいないし、アメリカの球場の大きさも書かない、というのもまずいよね。これでは比較になっていないじゃない。読者に不親切だよ。

 

   そうそう、ホームランの記録が問題になっているんだったら、公平さを保つために、大リーグの年間試合数は、日本のプロ野球より(昔だったら、たしか、二十四、いまでも)二十七も多いんだってことも、読者に知らせるべきだよ。…いや、それだけではないな。王の〔世界〕記録とヘンリー(ハンク)・アーロンの〔アメリカ〕記録も、両方、数字で正確に書いておく方がいいと思うよ。僕が書くんだったら、そういう数字(王が八六八本でアーロンが七五五本だったっけ?)は全部調べ出すよ。調べ出せなかったら、そのことには触れないよ。

 

          ※

 

   ところで、〔彼らの冷血な悪口〕というのは、なんだか落ち着きの悪い表現だよね。これで、筆者である編集長が、大多数の意見に(いわば)逆らって日本を飛び出してきた野茂投手に同情していることは、たしかに、よく分かるけど、[海流]は(いちおう)センセイショナリズムで売っている週刊誌やタブロイド新聞のコラムではないんだから、こういう表現はどうも…。

 

   エッセイ中でくり返された〔恥ずかしい。恥ずかしい〕にも、筆者自身をいきなり高所に持ち上げようとしているみたいな、(なんというか)いやらしさを感じない?

 

   編集長の目には、〔日本に住んでいる日本人〕は全員がおなじに見えているらしいけど、もちろん、そんなことはありえない。…決めつけが過ぎるよね。日本にもいろいろな日本人がいるんだから。それに、非難する相手を〔日本に住んでいる日本人〕に限定しているところも、僕はあんまり好きになれないな。だって、なんだか、海外、特にロサンジェルス地域に住む日本人にへつらっているみたいにも聞こえるじゃない。

 

   〔以って学ぶべし〕もよく分からない言い方だよ。学ばなきゃならないのは、いったいだれなんだろう?〔日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たち〕のこと?それとも、読者?筆者自身?

 

   いやいや、そんなこと以前に、編集長はそもそも、〔筆者はこういうのが嫌いだ〕と書きだしたとき、自分がこれから何を書くつもりなのかがちゃんと分かっていたんだろうか?〔どんな態度かといえば〕と原稿用紙に書きとめたとき、すでに野茂のことが頭にあったんだろうか。…怪しい、と思うな。

 

          ※

 

   というのは(タネ明かしみたいになるけど)、編集長は〔筆が進まないときは太平洋の向こう側に視線を向けよ〕という自ら学び出した金言を頼りにして物を書く人で、〈アメリカから日本を見れば、言いたいこと、論じなければならないことが必ず見えてくる〉と信じているんだよね。だから、これを書いたときも、〔どんな態度かといえば〕でペンをとめ、さて何を書こうか、批判(あるいは非難)しようかというんで、編集長の視線はその〔太平洋の向こう側〕に向いていたという気がするよ。〔日本のスポーツ新聞の記者たちと野球評論家たち〕をターゲットにしようというのは、たぶん、偶然の思いつきみたいなものだったんじゃないかな。〔言わずと知れたこと〕という(ずいぶんむちゃな)いい方の中に、ほら、そのことが見えていない?

 

   違うかな。いかにもそんなことが読めてくるような、危なっかしい書きだしだと思うけどな。

 

          ※

 

   にもかかわらず…。つまり、そんなふうに穴だらけの(『朝日』や『読売』にはけっして掲載されないような)論評だけど、編集長のこの文にはどこか、なんともいえないような魅力があるんだよね。

 

   少なくとも、編集長は、日本の新聞の論説員たちだったらまず気づかないか気づけないだろうことに気づいているし、そういう人たちだったらけっして書かないか書けないだろうことを正面きって、大胆に書いているじゃない。

 

   それに、僕にはもっと大事だと思えること。それは、編集長は〈自分の読者たちは、呼べばたちまち返事をしてくれるような近いところにいるんだ〉あるいは〈ほんものの生きた読者がすぐそこにいて、自分の文章を熱心に読んでくれているんだ〉と信じて書いている、ということ。高飛車なスタイルにもかかわらず、編集長は、そう信じて書いているよ。…そうそう、ファースト・ストリートの行きつけのバーで顔見知りを相手に持論を声高にしゃべっているような、そんな感じがあるよ、このエッセイには。

 

   そういうのって、いいよね。   日本のマスメディアでは、きっと、そうはいかないよ。   ここには、新聞と読者をそんなふうに親しく結びつける、体裁のいらない、温かい、ある意味では生臭い、そんなコミュニティーがまだ残っているんだよね。

 

   そんなふうに感じたよ、僕は。          ※

 

   で、話をもう一度戻しなおすと…。編集長にそんなふうに(だから、下心を丸出しにして)〈野茂を見るときの見方が…。なかなかいいし…〉とほめられても、僕はちっとも嬉しくはなかったし、〈ようし、張りきって書きあげるぞ〉とも思わなかった。